第1話 婚約破棄ですか? 大歓迎です!
「──君との婚約は、今日をもって破棄する」
朗々と響く声だった。
大広間のシャンデリアの下、ティーカップの触れ合う音が凍りつく。二十人ほどの貴族たちが一斉にこちらを見た。
クラウス殿下は腕を組み、真っ直ぐに私を見下ろしている。その傍らに寄り添うリリアーナ嬢が、絹のハンカチを胸元に押し当てて「まあ……可哀想に」と囁いた。
声は甘く、柔らかい。けれど唇の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
「君よりもっと相応しい女性が見つかった。理解してくれるね?」
殿下の声には、一片の迷いもない。
ああ、この人はずっとこうだった。自信に満ちた、よく通る声。人の上に立つためだけに作られたような、堂々たる響き。
その声で五年間、私に仕事を押しつけてきた。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
大広間が静まり返っている。グラスを置く音すら聞こえない。皆が固唾を呑んで、私が泣き崩れるのを待っている。
──うん。
ごめんなさい、皆さま。期待を裏切ります。
「──お言葉、ありがたく頂戴いたします」
にっこり、と。
たぶん人生で一番いい笑顔が出た。
(やったぁぁぁぁぁっ!!!)
(自由! 解放! 定時退勤!!!)
心の中で絶叫しながら、私は淑女の微笑みを崩さなかった。五年間で鍛えた鉄壁の表情筋を、今ほど誇らしく思ったことはない。
「え……」
クラウス殿下が目を瞬いた。リリアーナ嬢のハンカチが、慰めの出番を失って宙に浮いている。
そうだろう、そうだろう。泣いて縋りつくと思ったのだろう。
残念でした。
「五年間、お世話になりました。殿下のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」
深く、美しくお辞儀をする。伯爵令嬢として最後の一礼。完璧な角度。
顔を上げた私の目が、ほんの少しだけ潤んだ。
──泣きたいのは嬉しいからだ。
涙が頬を伝った瞬間、大広間のどこかで「まあ、お気の毒な……」と同情の声が上がった。
違います。嬉し泣きです。
でも訂正はしない。都合がいいので、このまま可哀想な元婚約者を演じきる。
(前世の記憶が正しければ、これは退職時の理想的ムーブ。笑顔で去る。恨み言は言わない。ただし証拠は持って帰る)
広間を横切る。足音が静寂に響いた。
誰も、声をかけなかった。
◇
小部屋──もとい元倉庫に戻ると、荷造りは十五分で終わった。
当たり前だ。私物なんてほとんどない。着替えが二着。実家から持ってきた筆記具。母がくれたブローチ。それだけ。
五年も暮らした部屋なのに、窓すらない。冬は隙間風が止まらなかった。暖炉の代わりに毛布を三枚重ねて、書庫で冷めたスープを啜って──
(……やめよう。振り返ったら負けだ)
荷物の最後に、革表紙の冊子を詰めた。五年分の業務記録の控え。
(控えは取っておくもの。前世の習慣だ)
誰が何をいつ処理したか。どの書類をどのフォーマットで作成したか。全部書いてある。
これは私個人の記録だ。公文書の写しじゃない。持ち出して何の問題もない。
まあ、使う日が来るかどうかは知らないけれど。
鞄の口を閉じる。
引き継ぎ書。
ああ、そういえば。
「作る暇がありませんでした」
誰もいない部屋で、声に出して言ってみた。
笑えた。五年で初めて、この部屋で笑った気がする。
(週三日午前のみの名誉職のはずが、なぜか毎日深夜まで勤務。引き継ぎ書を作る余裕があったら、そもそも過労で倒れたりしませんって)
日本のあの会社でも、引き継ぎ書なんて作れなかった。机に突っ伏したまま目を閉じて、そのまま二度と──
……うん。だから今回は、鐘が聞こえるうちに帰る。
鞄を肩にかけた。振り返らなかった。
◇
王宮の長い廊下を歩く。
すれ違う侍従たちが目を逸らす。さっきまで「セラフィーナ様」と呼んでいた人たちが。
(まあ、そうなるよね)
気にしない。前の人生でも、退職した途端に連絡が途絶える同僚はたくさんいた。
出口に向かう廊下の角を曲がったところで、足が止まった。
掲示板。
王宮の公式求人掲示板だ。いつも横を通り過ぎるだけだった。見る余裕がなかった。毎日、日付が変わる頃にここを通っていたから。
今日は、まだ午前中だ。
陽の光の中で見る掲示板は、こんなに大きかったのか。
文書の一枚に、目が留まった。
──辺境ベルクハイト領・魔物保護局
事務官募集
勤務規定に基づき、定時退勤を遵守すること。
官舎手当あり。保護区内の魔獣管理補助業務を含む。
堅い公文書だった。余白に一言も添えない、事務的な文面。
でも、私の目は一行目に釘付けになっていた。
(定時退勤を……遵守すること……?)
遵守。
守れと言ってくれるのか。帰れと言ってくれるのか。
(辺境。魔物保護局。魔獣管理補助業務──ということは、もふもふがいる……?)
脳内で変換する。
定時退勤保証。住居手当あり。もふもふ多数。
──ここだ。
ここしかない。
(恋愛なんてしなくていい。もふもふとお茶と定時退勤があれば、人生は完璧)
掲示板から求人票を丁寧に剥がし、鞄に入れた。
王宮の門を出る。
午前の風が、髪を攫った。こんなに明るい時間に、この門をくぐるのは初めてだ。
鐘が鳴っている。十の鐘。
私はまだ、帰れる時間のなかにいる。




