八章 スクラップ帳の最後の一枚
真咲ちゃんと付き合い始めて、一か月くらい経った。
「付き合ってください」のあとに何があるかなんて、恋愛ゲームにはだいたいパターンが用意されているけれど、現実のほうはもうちょっと地味だ。
仕事に行って、シフトをやりくりして、たまに駅前でご飯を食べて、休みが合った日は真咲ちゃんの家のほうに行って、一緒にカレーを作る。
先週の休みは、ぼくの部屋で作った。
スーパーで肉と野菜を買って、玉ねぎを切りながら、真咲ちゃんが「これ、飴色ってどこから?」と聞いてきて、適当なところで「このへん」と答えて、あとでちょっと焦がした。
鍋のふたを開けたときの匂いは、もしもで見たカレーとそんなに変わらない気がした。
違うのは、「今日はここまででいい?」とお互いに確認しながら作ったことくらいだ。
カレーを食べ終わって、浅煎りのコーヒーを淹れて、ソファ代わりの布団の上で二人並んで座ったとき、真咲ちゃんが言った。
「ねえ、写真撮ろう」
「写真?」
「うん。
みーくん、カメラ持ってないじゃん。とりあえずスマホでいいからさ」
「髪ボサボサだけど」
「今さらでしょ」
真咲ちゃんは笑って、スマホを両手で構えた。
インカメラの画面に、二人分の顔が並ぶ。
部屋の灯りはそんなに明るくないから、少しだけノイズが乗っている。
「はい、“逃げよう”って言って」
「今?」
「今」
「……逃げよう」
「よし、撮る」
シャッター音が鳴った。
画面には、鍋とマグカップがぼんやり写り込んだ、少し暗いツーショットが残った。
どちらもきれいに笑っているとは言いがたい。
真咲ちゃんは、ちょっと目を細めすぎているし、ぼくは口元が中途半端だ。
「もう一枚――」
「この一枚でいいよ」
ぼくは、思わずそう言った。
「どうして?」
「なんか、“ちゃんとしてない感じ”がちょうどいい」
「“ちゃんとしてない”って」
「いい意味で」
真咲ちゃんは、少しあきれたように笑ったあと、「じゃあこれね」と写真にお気に入りマークをつけた。
「今度さ。その写真、プリントしてくれる?」
「プリント?」
「うん。
実家帰るときに、持っていきたい」
「ふーん……なんか、わかったようなわかんないような」
それで会話は流れた。
数週間あと、ぼくはまた実家に帰った。
今度は四十九日でも法事でもない、ただの帰省だ。
じいちゃんの仏壇に線香をあげて、「ただいま」と言ってから、自分の昔の部屋に入る。
本棚の隙間に立ててあったスクラップ帳を取り出す。
表紙には、自分の字で「ばあちゃんの “もしも” スクラップ」と書いてある。
机の引き出しから、小さな封筒を出す。
東京のコンビニでプリントしてきた写真が、一枚だけ入っている。
薄い光沢紙。
カレー鍋とマグカップと、ぼくと真咲ちゃん。
「なんか、やっぱりちょっと暗いな」
声に出して笑う。
でも、撮り直すつもりはない。
スクラップ帳を開く。
写真館の話、佐伯さんの話、露店のフィルムの話。
虫食いの穴だらけの日記が、クラフト紙の上に並んでいる。
途中で、あの三行が目に入る。
──今の毎日を、なくしたくない。
そのあと、ページはいくつか空白のままだ。
ぼくは、一番最後のページを開いた。
まだ何も貼っていない、白いままのところ。
封筒から写真を出して、四隅に糊をつける。
慎重に位置を決めて、ぺたりと貼りつける。
スクラップ帳の紙と、写真の紙が重なる感触が、指先から腕まで伝わってくる。
写真に、ボールペンで、小さく文字を書く。
「ぼくの“これから”の一枚目」
書きながら、「一枚目」と言ってしまったな、と少しだけ思う。
でも、ここで言葉を引っ込めるのは違う気がした。
ページの端には、もう少しだけ余白が残っている。
その余白に、もう一行だけ書き足す。
「“もしも”は押し入れの中、“これから”はここから」
字は、あまりきれいではない。
インクが少しだけ紙に滲んだ。
スクラップ帳を閉じる前に、もう一度だけ写真を見る。
鍋の手前で、中途半端な笑い方をしているぼくと、目を細めている真咲ちゃん。
後ろに映り込んだ本棚の影。
テーブルの上のカレーのしみ。
どこにもフィルムの箱は写っていない。
ばあちゃんも、佐伯さんも、この一枚の中にはいない。
それでも、この写真はちゃんと、ばあちゃんの「今の毎日を、なくしたくない」の続きにある気がした。
違う町で、違う時代で、別の毎日を選んだ結果としての一枚。
「見たよ、“もしも”。
こっちは、“これから”にしとく」
心の中でだけそうつぶやいて、ぼくはそっとスクラップ帳を閉じた。
背表紙を軽くなでて、本棚に戻す。
今度は、少し取り出しやすい高さの段に差し込んだ。
仏間を通りかかったとき、ばあちゃんとじいちゃんの遺影が、いつもと同じ顔でこっちを見ている。
写真の中の二人に、目で「ありがとう」と言って、軽く会釈する。
東京に戻ったら、またカレーを作る。
浅煎りのコーヒーを淹れて、ラジオをつけて、真咲ちゃんとめんどくさい話をする。
その一つ一つが、いつかどこかで、また別の誰かの“もしも”の材料になるのかもしれない。
それでも、いまのところぼくが知っているのは、一枚の写真と、一冊のスクラップ帳だけだ。
それで、十分だと思った。
スクラップ帳のある本棚と、仏間の遺影と、東京のワンルームのソファみたいな布団の上と。
その全部が、細い線でつながっているのを、ぼくは少しだけはっきりイメージできるようになった。
未来は、フィルムに見せられるものじゃなくて、
自分で選んで、あとから写真になるものだ。
そう決めているあいだは、たぶん大丈夫だ。
ぼくは玄関で靴ひもを結んで、ドアを開けた。
外の空気は、前に帰省したときより少しだけ暖かかった。




