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七章 ばあちゃんの“もしも”と、ぼくの“これから”

東京に戻る新幹線の窓から、薄い雲の下の町が流れていく。


実家を出る前に、あの箱のことを少しだけ迷った。


〈もしも〉と書かれた、ばあちゃんとじいちゃんの、その前の誰かの手を渡ってきた箱。




最後まで迷って、結局、実家に置いてきた。


蔵から出して、ぼくの部屋の机に乗せて、ふたを開けて、“もしも”を見て。


そのうえで、「これはここに置いといたほうがいい」と思った。




東京のワンルームにまで連れて帰ったら、たぶんぼくはまた触る。


「もう一回だけ」とか言って。


ばあちゃんが二回目を見なかったように、ぼくも一回でやめておきたい。


そう思って、仏間のタンスの引き出しに箱を戻した。


並んだ二枚の遺影に、軽く会釈してから家を出た。




新幹線の窓に、自分の顔がうっすら映る。


あの“もしも結婚生活”の映像が、まだ頭のどこかに残っている。


カレーの匂い。


浅煎りのコーヒー。


ソファで毛布にくるまった真咲ちゃん。


「逃げよう」って言ったときの、あの声。


「あれを、そのまま現実で再現したいわけじゃないんだよな」


小さく声に出してみる。




コピーして貼り付けたいんじゃない。


“ああいう感じで一緒に生き延びたいな”っていう、向きだけ決めたい。


未来の写真をなぞるんじゃなくて、


写真のほうに、あとから現実を追いつかせる、くらいの気持ちでいたい。


ポケットからスマホを出す。




ホーム画面の片隅に、小さく真咲ちゃんのアイコンがある。


「ただいま」ってメッセージを打つかどうかで、一瞬指が止まる。


考えているあいだに、新幹線はトンネルに入って、一瞬だけ窓の景色が真っ黒になった。




東京の部屋は、いつもどおり散らかりかけていた。


洗い忘れたマグカップ。


読みかけのエッセイ本。


ゲーム機のコントローラー。


仕事用ノートPC。




実家から持ち帰ったスクラップ帳を、本棚の隙間に差し込む。


背表紙の上のほうに、小さく自分の字で「もしも」と書いた。


ラジオをつける前に、スマホをテーブルに置いた。


通知は特に来ていない。


自分から動かなければ、世界はだいたいそのままだ。


DMの画面を開く。




最後に真咲ちゃんとやり取りしたのは、「カレーおいしかったね」で終わっていた。


そのあと、じいちゃんの四十九日と実家のことと、フィルムのこととで、数日空いた。


「今なにしてる?」と打つのは簡単だ。


でも今日は、それだけじゃ足りない気がした。


画面の下の入力欄に、指を置く。


一度打って、消して、また打つ。




『ただいま、東京戻った


 今度、ちゃんと話したいことがある


 夜、少しだけ電話か会えない?』




送信ボタンを押した瞬間、心臓が変なタイミングで跳ねた。


「ちゃんと話したいことがある」


そう書いてしまったからには、何かを話さないといけない。


「ごめんね、やっぱ何でもない」は許されない。




ラジオの電源を入れると、ちょうどニュースが終わって、バラエティ寄りの深夜番組が始まるところだった。


パーソナリティの声が、「今夜も、なんとなく眠れないあなたと、一緒にしゃべっていきます」と言う。




「なんとなく、どころじゃないんだよな」


テーブルに突っ伏して、ひとつため息をついたところで、スマホが小さく震えた。


画面には、短い返事。




『おかえり


 今日の夜なら空いてる


 電話でも会うでも、大丈夫』




追い打ちみたいに、もう一行。


『“ちゃんと話したいこと”って言われると、ドキドキするんだけど』


ぼくは、苦笑いしながら返信を打つ。




『変な話じゃない


 変な話だけど、怖い話じゃない


 駅前のカフェ、二十二時にどう?』


『了解


 ラストオーダーギリギリじゃん』


『ギリギリまで話せるってことだから』


『そういうとこ、好き』




最後の一行を読み返して、スマホを伏せた。


好き、という単語が、あっさり投げられてくるようになったのは、最近の変化だ。


「さて」




立ち上がって、部屋の適当な服を引っかき集める。


鏡でざっと髪を整えて、深呼吸をひとつする。


ばあちゃんは、“もしも”を見てから、「今の毎日を、なくしたくない」と思って、押し入れの箱をしまった。


ぼくは、“もしも”を見てから、「今の毎日を、この先誰かと一緒に変えていきたい」と思って、スクラップ帳を棚に立てた。


選ぶ番だ。




駅前のカフェは、昼間よりだいぶ空いていた。


仕事帰りの人らしいスーツ姿がちらほらいるくらいで、テーブルの半分以上は空いている。


窓際の席に、真咲ちゃんが先に座っていた。


マグカップを両手で包んで、外の夜景をぼんやり見ている。




「ごめん、待った?」


「五分くらい。誤差」


振り向いた真咲ちゃんは、いつもより少しだけ目の下が暗かった。


でも、口元の笑い方は変わらない。




「眠そう?」


「ちょっとね。昼間バタバタしてたから」


「作業所?」


「うん。急に受注増えて、“これ今日中に?”みたいなやつ」


「お疲れさま」


「お疲れ、みーくんも」




軽くカップを持ち上げ合って、“かんぱい”みたいにする。


ぼくのカップには、いつもの深煎りのブレンド。


さっきから、「これ飲みきるころには、ちゃんと話そう」と心のどこかで決めている。


「で、“ちゃんと話したいこと”って?」


あっさり本題に触れてくるあたりが、真咲ちゃんらしい。


「逃げ場、ないね」


「回り道されるほうが怖いから」


「たしかに」


ぼくはカップを一口飲んで、テーブルに置いた。


指先が微妙に汗ばむ。


「実家、どうだった?」


真咲ちゃんが、少しやわらかい話題を投げてくれる。


「うん。じいちゃん、ちゃんと写真の中で笑ってた」


「よかった」


「で、蔵にまた入ってさ」


「また?」


「うん。前話した、フィルムの話、覚えてる?」


「ばあちゃんが露店で買った、変なフィルムのやつ?」


「そう、それ」


そこまで言ったところで、真咲ちゃんの表情が、少し真面目になる。


「みーくん、“変な夢見た”って言ってたやつ?」


「ああ……うん。それ」


言葉を選ぶ。




オカルト語りになりすぎても嫌だし、「何言ってんのこいつ」と思われるのも避けたい。


でも、ここをごまかしたら、今日この場を作った意味がなくなる。


「ばあちゃん、さ。


 たぶんあのフィルムに触って、“もしも”見たんだと思うんだ」




「“もしも”?」


「別の未来。


 日記にさ、虫食いだらけなんだけど、“もしも”って単語が残ってて。


 そのあとに、“今の毎日を、なくしたくない”って三行くらいだけ、はっきり残ってるページがある」


真咲ちゃんは黙って、コーヒーを一口飲んだ。


「で、みーくんは?」


「ぼくも、一回見た」


「そのフィルムで?」


「うん。


 夢かもしれないし、頭の中で勝手に組み立てただけかもしれないけど」




言いながら、自分の膝の上で手を組む。


「“もしも”の中でさ、ぼく、真咲ちゃんと一緒に暮らしてた」


真咲ちゃんの目が、少しだけ大きくなる。




「……なんか、唐突に殺しにきたね?」


「違う違う。


 いきなり“結婚しよう”って言いに来た人、じゃないから安心してほしい」


「それは安心した」


ほんの少しだけ力の抜けた声。




「でも、“もしも”の中のぼくたち、けっこう良かったんだよ」


ぼくは、できるだけ淡々と言う。


「カレー作って、浅煎りのコーヒー飲んで、ラジオ聴いて、“苦手”の話して、“逃げよう”って約束してた」




「なんか……想像つくのが悔しい」


「悔しいんだ」




「だって、“らしい”もん。


 “華やかに豪邸で暮らしてました!”とかじゃないんだね」


「豪邸、似合わないでしょ、ぼくたち」


「似合わないね」


ふたりとも、少し笑う。


笑ったあとで、ぼくはまっすぐ真咲ちゃんを見た。




「でさ。


 あの“もしも”みたいな暮らしを、“フィルムに見せてもらった未来”として欲しいわけじゃないんだ」


「うん?」


「“ああいう方向の、“一緒に生き延びる未来”を、ぼく自身が選びたいな”って思った、って話」




真咲ちゃんは、カップのふちを指でなぞりながら聞いている。


表情は、まだ「様子見」の顔だ。


「今さ。


 ぼくの“今の毎日”って、ほぼひとりで完結してるんだよね」


「ラジオとゲームと、カレー?」


「そう。


 それはそれで嫌いじゃないんだけど、“このまま一生一人でやるのかな”って、ちょっとだけ怖くなった」


「うん」


「で、“もしも”の中で、真咲ちゃんと一緒に、めんどくさい話しながら暮らしてるの見たら、


 “あれ、現実でやりたいな”って普通に思った」




そこまで言って、一度言葉を切る。


大事なところで噛みたくないから、頭の中で何回かリハーサルしてから出す。


「だから……」


ぼくは、テーブルの上で、自分の手を握りしめた。


「ぼくと付き合ってください、って言いに来た」


沈黙が落ちる。




カフェの空調の音と、遠くのテーブルの笑い声だけが聞こえる。


「“結婚”って言葉は、まだ怖いかもしれない。


 でも、“逃げたい日に、一緒に逃げる相手として、これからを前提で付き合いたい”って、ちゃんと言いたかった」


言ってから、「日本語として長いな」と自分で思う。


でも、短くまとめると、どこか嘘っぽくなりそうだった。


真咲ちゃんは、視線をテーブルの上に落としたまま、しばらく何も言わなかった。


カップの影が、少し揺れる。




彼女の指が、カップの持ち手をつまんだり離したりしている。


「……ずるいね」


ぽつり、と言った。


「ずるい?」


「“フィルムで見ました〜”って、そういう口説き文句ある?」


「ないと思う」


「ないよね」




少しだけ、肩が震えた。


笑っているのか泣きそうなのか、わからない。


「でもさ」


真咲ちゃんは、顔を上げた。


目の端が、うっすら赤い。


「あたしのほうの“もしも”も、ずっとあったんだよ」


「真咲ちゃんの?」


「うん」




カップを置いて、両手を膝の上に乗せる。


「“もしも、普通に働けてたら”とかさ。


 “もしも、あの会社で潰れてなかったら”とか。


 “もしも、親ともっとちゃんと仲良くできてたら”とか」


列挙するたびに、「もしも」が机の上に積み上がっていく感じがする。


「“もしも”を考えると、最後いつも、“それができなかったあたしは、誰かの隣に立つ資格ないな”ってとこに落ち着くの」


「……」




「だから、“結婚”って言葉、正直、今でも半分くらい怖い。


 “普通の奥さんごっこなんて、あたしには無理だよ”って思う」


「うん」


「でも、“逃げたい日に一緒に逃げる相手として付き合ってください”っていうのは、


 なんか……めちゃくちゃ、あたしに優しい言い方だなって思っちゃった」


真咲ちゃんは、笑った。


さっきより、ちゃんと笑っていた。


「だから、はい」


言葉を区切る。




「よろしくお願いします、って言いたい」


心臓が、変な打ち方をした。


「……ほんとに?」


「うん。


 みーくんが、“ぼくなんか”って言いながらも、ちゃんとこっち見てくれてるの、知ってるし」


「“ぼくなんか”禁止って言われたらどうしよう」


「言うたびに、“あたしの好きな人を雑に下げるな”って注意する」


「それ、前も言ってたね」


「有言実行するよ」




真咲ちゃんは、テーブルの上に手を出してきた。


「とりあえずさ。


 “結婚”とか“将来どうこう”は、一回横に置いとこ」


「うん」


「“今日”と“明日”を一緒にやっていけるかどうか、そこから確認させて」


「了解」




ぼくも、テーブルの上に手を乗せる。


真咲ちゃんの手が、そっと重なった。


あたたかい。


当たり前だけど、ちゃんと体温がある。


「逃げたい日が来たらさ」


真咲ちゃんが、小さな声で言う。


「“逃げよう”って、一緒に言って」


「言う」


「それから、“今日はしんどいから、この話また今度”って、ちゃんと言って」


「言う」




「あと、あたしが“それ苦手なんだよね”って言いそうになったら、“今はまだ知らないだけでしょ”って突っ込んで」


「……それ、ブーメランでは」


「おあいこってことで」


ふたりで、ふっと笑う。




カフェの時計は、ラストオーダーの時間に近づいていた。


店員さんが、そろそろの空気でメニューを片付け始める。


「じゃあ、今日はここまでにしよっか」


真咲ちゃんが言う。


「うん」


「帰り道、ちょっとだけ歩く?」


「歩こう」


立ち上がって、コートを羽織る。


外に出ると、夜の空気は少し冷たかった。


駅前のロータリーを抜けて、少しだけ暗い道に入る。


街灯の下で、ふと、手が触れた。




真咲ちゃんが、指をからめてきた。


「こういうの、“もしも”じゃなくて、“いま”になったの、ちょっと不思議だね」


「不思議だね」


「中学のとき、ちゃんと告白してくれてたら、もっと早かったかもね」


「今それ言う?」


「言う」


「ごめん」


「ありがとう」


いつものセットで言ったら、真咲ちゃんは笑った。


「ばあちゃん、さ」


ぼくは歩きながら言った。


「“今の毎日を、なくしたくない”って書いてた」


「うん」


「ぼくも、多分それに近いんだけど、


 “今の毎日を、誰かと一緒に変えていきたい”ってほうに、ちょっとだけ重心置きたい」


「欲張りだね」


「欲張りだと思う」


「でも、その欲張りに付き合うの、嫌いじゃないかも」




真咲ちゃんは、握った手に少し力を込めた。


駅の喧騒から少し離れたところで、空を見上げる。


都会の空は星が少ないけれど、どこかの窓からラジオの音が漏れている。


ばあちゃんの“もしも”は、押し入れの箱の中で静かに眠っている。


ぼくの“これから”は、今こうして手をつないで歩いている、この足もとから始まっている。


写真になるのは、きっともっと先だ。


その前に、今日と明日と明後日を、一緒にやってみる。


「とりあえずさ」


真咲ちゃんが言う。


「次の休み、一緒にカレー作ろ」


「賛成。


 カレーのあと、浅煎り淹れるね」


「それは……うん。お願い」




それは、“もしもで見た未来”とよく似ていて、でもちゃんと違う約束だった。


ばあちゃんが見て選ばなかった“もしも”の延長線上で、


ぼくたちは、ぼくたちなりの“これから”を、今日ひとつ決めた。


ラジオのジングルみたいに、その決心が頭の奥で何度も鳴っていた。

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