六章 フィルムが見せた、もしも結婚生活
実家に戻ったのは、じいちゃんの四十九日の少し前だった。
父さんから電話があって、「線香あげに一回帰ってこい」と言われた。
休みを調整して、朝の新幹線に乗って、昼前には地元の駅に着いた。
冬の終わりで、まだ風は冷たい。
でも、東京よりは空が近い気がする。
駅前のロータリーは、相変わらずちょっと寂しい。
家に着くと、仏間に通された。
仏壇の上には、じいちゃんとばあちゃんの遺影が並んでいる。
線香をあげるとき、ぼくはまずじいちゃんのほうに手を合わせた。
カメラを構えている写真。レンズ越しじゃなくて、ちゃんとこっちを見て笑っている。
それから、少しだけ顔をずらして、ばあちゃんのほうを見る。
写真の中のばあちゃんは、少し照れたみたいな笑い方をしていた。
スクラップ帳の中の虫食いの文字と、
蔵で見つけた〈もしも〉の箱と、
遺影の中の二人の顔が、頭の中で一本線になった気がした。
ひと通り手を合わせてから、父さんに声をかける。
「蔵、また見に行っていい?」
「好きにしろ。変なもんだけはいじるなよ」
変なもん、というのが何を指しているのかは聞かない。
こっちも、人に説明しづらいものを探しに行くところだ。
蔵は、前に来たときと同じ匂いがした。
湿った木の匂いと、ほこりと、古い紙。
あのときと違うのは、じいちゃんがもういないことを、体がちゃんと知っていることくらいだ。
懐中電灯をつけて、奥の棚に向かう。
前に見つけた箱は、ほとんど同じ場所にあった。
〈もしも〉
前と同じ字。
前と同じ角度。
触れる前から、手のひらの内側がじんわり汗ばむ。
箱を両手で包むように持ち上げる。
前は、ここで「これはここにあったほうがいい」と思って元に戻した。
今回は、少しだけ迷ってから、胸に抱えたまま蔵から出た。
薄暗い蔵から外に出ると、光が急に白っぽく感じる。
庭の隅にある梅の木のつぼみが、少しだけふくらんでいた。
「何かあったか?」
玄関先で父さんが煙草をふかしていた。
ぼくは箱を背中側に回して、「何も」とだけ答えた。
「古いアルバムとか、写真、ちょっと見てもいい?」
「ああ。好きにしろ。
ばあちゃんの部屋の押し入れにも、まだ何かあるかもしれん」
「うん」
嘘はついていない。
アルバムも、あとで見るつもりではある。
でも、今腕に抱えている箱のほうが、ずっと軽くて重かった。
その夜、ぼくは自分の昔の部屋に泊まることになった。
ベッドじゃなくて、畳に布団を敷いた部屋。
壁紙の角が少し剥がれている。
中学のときに貼っていたポスターの跡が、うっすら残っている。
荷物を置いて、ドアを閉める。
胸に抱えていた箱を、机の上に置いた。
〈もしも〉
部屋の明かりの下で見ると、蔵で見たときよりも、少しだけ色が薄く見える。
箱の角には、小さな傷がある。
どれがばあちゃんの時代のものか、どれがその前からのものか、分からない。
机の端には、東京から持ってきたスクラップ帳も置いてある。
「ばあちゃんの “もしも” スクラップ」と自分で書いた表紙。
今回は、わざと持ってきた。
ぼくは床に座って、スクラップ帳を膝に開いた。
ばあちゃんの日記の虫食い。
「今の毎日を、なくしたくない」の三行。
あの夜のことを自分なりに想像して、頭の中でなぞった記憶。
「選ぶのは、わたしだ」
ばあちゃんは、そう言って箱を押し入れにしまった。
その結果として、今の父さんがいて、ぼくがいる。
ぼくは、箱とスクラップ帳を見比べる。
「ぼくも、“見て”、それで選ぶか」
誰に聞かせるでもなくつぶやいて、自分で「バカだな」と思う。
でも、「見ないで後悔する」のと、「見たうえで迷う」のとでは、たぶん種類が違う。
机の上の箱に、そっと手を伸ばした。
ふたの縁に指をかける。
押す。
まえに蔵で触れたときと同じように、かすかな手応えが返ってくる。
ぱき、という音はしない。
空気の手触りが、ほんの少しだけ変わる。
ふたを横にずらすと、すっと開いた。
中には、細長いフィルムが一巻き入っていた。
やっぱり、普通のフィルムより幅が広い。
穴の位置も、知っているどの規格とも違う。
ばあちゃんが「変な子だね」と書いたのが、よくわかる。
部屋の蛍光灯の光の下でも、フィルムはうっすらと何かを映しているようだった。
まだ撮っていないはずのコマに、遠い影が焼き付いているような。
「こんにちは」
誰に向かって言っているのか、自分でもよくわからない挨拶をして、ぼくはフィルムの端に指をそっと置いた。
その瞬間、耳の奥で、何かがぱちんと弾けた。
電気が落ちたみたいに、視界が一瞬、暗くなる。
すぐに光は戻るけれど、部屋の天井の色が変わっていた。
白い天井。
見慣れない照明器具。
エアコンの室内機。
畳じゃなくて、フローリング。
足の裏に、冷たさではなく、少し固い感触がある。
立っているのは、自分の部屋じゃなかった。
「みーくん、起きた?」
背中のほうから声がした。
振り向くと、キッチンが見えた。
コンロの上には鍋。
テーブルの上には、カレーの余りみたいな鍋のフタ。
その向こうに、エプロンをつけた人が立っている。
真咲ちゃんだった。
髪は少し伸びて、後ろでゆるく結んでいる。
部屋着っぽいワンピースに、薄いカーディガン。
エプロンには、どこかで見たキャラクターの柄。
「おはよう。って言う時間じゃないけど」
真咲ちゃんは、笑いながらそう言った。
窓の外を見ると、空はオレンジ色に染まり始めていた。
たぶん夕方。
休日の、夕方の光だ。
「えっと……」
言葉が出てこない。
ここがどこで、自分が何をしていたのか、記憶がすっぽり抜けている。
「寝すぎ」
真咲ちゃんはカウンター越しに、マグカップを二つ置いた。
「コーヒー、浅煎りでいい?カレーのあとだし」
「……え?」
「いつもそれでしょ。
“カレーのあとは浅煎り”って、ずっと言ってるの、みーくんだよ」
そう言われて、ようやく自分の中のどこかが追いつく。
この感じを、ぼくは知っている。
夢の中で、「これは夢だ」と気づきかけて、でも全部を崩したくなくて、そのまま乗るときの感覚に似ている。
「……じゃあ、浅煎りで」
ぼくはとりあえず、いつも通りの返事をした。
テーブルに座ると、カレーの匂いがした。
鍋の中には、さっきまで温められていたらしいルーが、まだとろとろしている。
「昼に作ったばっかだし、夜もこれでいいよね?」
「全然いい」
「っていうか、カレー三日目でも食べる人が何を」
「事実だけど、今それ言う?」
そんな会話が、当たり前みたいに続いた。
テーブルの端には、郵便物の束と、開きかけの家計簿。
真咲ちゃんの字で、光熱費の数字が書かれている。
その横に、ぼくの字で「来月の家賃」と走り書きされている。
テレビはついていない。
代わりに、スマホがスピーカーにつながれていて、ラジオアプリの画面を開いていた。
「このあと、あのコーナーだよ」
真咲ちゃんが、時計をちらっと見る。
「ほら、みーくんの好きなやつ。
“夜更けのふつおたタイム”」
「タイトル言い方が雑」
「だって正式名称長いんだもん」
ぼくは笑って、マグカップを手に取った。
浅煎りのコーヒーの香りがした。
現実感は、ちゃんとある。
カップの重さも、カレーの鍋の熱も、テーブルの木の手触りも、全部いつも通りだ。
ただひとつ、「これがいつの“いつも”なのか」が、まったくわからない。
「ね」
カレーをよそいながら、真咲ちゃんが言った。
「あたしさ、最近まで、結婚とか無理だと思ってたんだよね」
「うん?」
「普通に働けてないじゃん、あたし。
作業所は行けてるけど、“ちゃんとした奥さん”ってやつにはなれないなって」
「誰基準の“ちゃんとした”?」
「世間」
即答だった。
「世間の奥さま像。
朝早く起きて、夫のご飯とお弁当作って、フルタイムかパートで働いて、子どものPTAやって……みたいな」
「そのテンプレ、だいぶ昭和じゃない?」
「だよね。でも、まだ普通に居座ってるんだよ、頭の中に」
真咲ちゃんは、自分の皿にライスをよそった。
「前の職場でさ、“あなたはそういうところがダメなんだよね”ってずっと言われてきたからさ。
“ちゃんとできない人間は、誰かの隣に立っちゃいけないんだ”って、半分くらいは本気で思ってた」
「……」
「だから、こうやってカレー作って、みーくんと一緒に食べてるの、たまにまだ夢みたいに感じる」
それは、こっちのセリフでもあった。
ぼくはスプーンを動かしながら、慎重に言葉を選ぶ。
「ぼくも、“ぼくなんか”ってずっと思ってたよ」
「知ってる」
「知ってたか」
「中学のころから、ずっと言ってた」
「“モブだから”とか“イベント起きないし”とか?」
「そう、それ」
真咲ちゃんは、少し笑ってから続けた。
「でもさ。
“ぼくなんか”って言ってた人が、“それでも一緒にいたい”って言ってくれるの、けっこう効くよ?」
「効く?」
「効く。
“あ、あたしのこと、ちゃんと見て言ってくれてるんだな”って」
ぼくは、カレーを一口飲み込んでから、素直に言った。
「一緒にいたいよ」
「……あいさつみたいに言わないで」
「ごめん。
でも、ほんとにそう思ってる」
「知ってる」
そう言った声は、少し震えていた。
ラジオのジングルが流れる。
深夜番組の、少しくだけたオープニング。
「今夜も、眠れないあなたと一緒に過ごしていきます」
パーソナリティの声が、スピーカーから流れ出す。
「ほら、始まった」
真咲ちゃんは、ラジオを指さした。
「今日、メール送った?」
「送ってない。
最近、あんまり採用されてないし」
「読まれたとき、あたし嬉しかったよ」
「どれのとき?」
「“カレーを食べたあとの浅煎りコーヒーが一番落ち着く”ってやつ。
“それ、わかる”って普通にラジオに向かって喋っちゃったもん」
そんなこと、言ってくれていたのかと思うと、胸の奥が妙に熱くなる。
ラジオの向こうで、リスナーからのメールが読み上げられている。
「同棲しているパートナーと、家事の分担でよくケンカになります」という相談。
それに対して、パーソナリティが、「お互いの“得意”と“しんどい”をちゃんと言葉にしてね」と答えている。
「“苦手”じゃなくて、“しんどい”って言い方、いいね」
真咲ちゃんが、小さくつぶやいた。
「“相手を否定してるんじゃなくて、自分の体力の問題”って感じする」
「たしかに」
「“あなたの趣味、苦手”って言われるより、“今日はちょっとしんどいから、また今度教えて”って言われるほうが助かるもん」
「それ、覚えとく」
「よろしく」
会話が、生活の中に普通に溶け込んでいる。
「恋愛ゲームの選択肢」じゃなくて、「毎日の積み重ね」の中で交わされている感じ。
ぼくは、自分の指先を見下ろした。
さっきまで、フィルムに触れていた感触が、現実なのか夢なのか、わからなくなってくる。
場面が、少しだけ飛んだ。
気がつくと、同じ部屋のソファにいた。
外はすっかり暗い。
ラジオは、小さなボリュームでまだ流れている。
ソファの片側には、毛布にくるまった真咲ちゃんが、丸くなっていた。
目は閉じているけれど、完全には眠っていない感じの呼吸。
ぼくは、その隣で、スマホにイヤホンをさしていた。
さっきまでスピーカーから流していたラジオを、イヤホンに切り替えたのだろう。
画面には、番組名と、現在放送中の文字。
「みーくん」
目を閉じたまま、真咲ちゃんが言った。
「ん」
「さっきの、本当にありがとね」
「さっきの?」
「“今はまだよく知らないから、教えて”って言い方に変えるってやつ」
「ああ」
「めんどくさい女でごめん」
「めんどくさいのは、お互いさまでしょ」
ぼくはイヤホンを片耳だけ外して、少し笑う。
「ぼくも、“自分のこと雑に下げすぎたら怒って”って前言ったよね」
「言ってたね」
「だから、おあいこ」
「……おあいこって言葉、便利だよね」
「便利だね」
真咲ちゃんは、毛布の中でちょっとだけ動いた。
「ねえ、みーくん」
「うん」
「あたしさ。
もし、またどっかで潰れたら、そのときは、ちゃんと逃がして」
「逃がす?」
「うん。
“がんばろうよ”って言われるのも、必要なときはあるんだけどさ。
限界超えてるときにそれ言われると、逆に潰れるから」
「……わかった」
「みーくんのことは好きだけど、みーくんの“正しさ”に押しつぶされるのは、さすがにイヤだから」
「それはぼくもイヤだ」
「でしょ」
「じゃあそのときは、“逃げよう”って言う」
「うん。
“逃げよう”って言って、一緒にカレー作って、ラジオつけてくれたら、たぶんあたしそれだけでだいぶ救われる」
「ハードル低いのか高いのか、よくわからないな」
「高くないよ。
“世間的な正しさ”より、“今日一日ふたりで生き延びた”ほうが大事だから」
「それは、ぼくも同意」
真咲ちゃんは、小さく息を吐いた。
「そういう“もしも”なら、ちょっと見てみたいなって思うよね」
「“もしも”?」
「“あのときあの会社に残ってたら”とかじゃなくてさ。
“この先も、こうやって一緒に逃げたりしながら生きてたら、どうなってくんだろうね”っていう、“これから”側のもしも」
「……」
それはたぶん、今ぼくが見ているものの、正体そのものだった。
視界の端が、じわじわと白くかすんでくる。
コーヒーの香り。
カレーの鍋。
ソファの布の感触。
ラジオの声。
真咲ちゃんの息。
全部が、少しずつ薄くなっていく。
代わりに、天井の蛍光灯の白い光が戻ってきた。
気がつくと、ぼくは実家の自分の部屋の椅子に座っていた。
机の上には、〈もしも〉の箱。
ふたは開いていない。
フィルムも、最初に見たときと同じように巻かれている。
右手の指先に、冷たい感触だけが残っていた。
「……はあ」
ぼくは、息を吐いた。
心臓が少し早く打っている。
額には汗がにじんでいた。
夢だった、と言い切るには、細部がはっきりしすぎていた。
でも、現実だった、と言えるほどの証拠もない。
机の端に置いてあるスクラップ帳を手に取る。
表紙をめくって、最初のページの余白に、ボールペンで一行書いた。
「ぼくが見た“もしも”は、真咲ちゃんと一緒にカレーを作って、ラジオを聞いていた」
それだけ書いて、ペンを止める。
ばあちゃんの日記と違って、ぼくのページはまだ虫に食われていない。
ここから先に何を書くかは、ぼくの勝手だ。
「今の毎日を、なくしたくない」
ばあちゃんの言葉を、もう一度頭の中でなぞる。
ぼくの「今の毎日」は、まだそこまで形になっていない。
東京のワンルームで、ひとりでカレーを作って、ひとりでラジオを聞いて、ひとりで恋愛ゲームをしているだけだ。
でも、「もしも」の中で見た未来は、ひとりじゃなかった。
カレーを作る鍋が二人分で、ラジオの感想を話す相手がいて、「逃げよう」と言うときの「一緒」があった。
ぼくは箱を見下ろす。
〈もしも〉
ばあちゃんは、この箱を押し入れの奥にしまった。
それでも、「もしも」を一度見たからこそ、「今の毎日をなくしたくない」とはっきり書けたのかもしれない。
ぼくは、ふたにそっと手を置いた。
「選ぶのは、ぼくか」
声に出してみる。
ばあちゃんの真似をしているみたいで、少し気恥ずかしい。
でも、言葉にしておかないと、また何も選ばないまま時間だけ流れていきそうで、それがいちばん怖かった。
そのとき、ふすまの向こうから父さんの声がした。
「おーい。風呂、そろそろ沸くぞ」
「今行く」
ぼくは慌てて「うん」と返事をして、箱にかぶせるようにスクラップ帳を閉じた。
立ち上がる前に、もう一度だけ箱に目をやる。
〈もしも〉
蔵の奥から、ばあちゃんの部屋を経由して、ぼくの部屋にたどり着いた箱。
この先どこに置くかで、たぶん何かが変わる。
押し入れの奥に戻すのか。
東京の部屋に持ち帰るのか。
それとも、ここでふたたび忘れたふりをするのか。
答えは、まだ出していない。
でも、さっき見た「もしも結婚生活」の手触りだけは、頭のどこかに残っている。
浅煎りのコーヒーの香りと、真咲ちゃんの「逃げよう」という声と一緒に。
ぼくは部屋の電気を消して、廊下に出た。
風呂場に向かう途中、仏間の前で少し立ち止まる。
並んだ二枚の遺影が、薄い明かりの中でこちらを見ている。
「見たよ、“もしも”」
心の中でだけつぶやいて、軽く頭を下げた。
その夜、布団に入って目を閉じても、しばらく眠れなかった。
ラジオもつけていないのに、深夜番組のジングルが頭の中で鳴っている。
──未来ってね、“見せられる”だけだと、ただの夢なんです。
“自分で選んだ”って感覚がないと、現実にはならないんですよ。
どこかで聞いたような、聞いていないようなパーソナリティの声が、頭の奥でしゃべる。
ぼくは布団の中で丸くなって、もう一度だけはっきり思った。
「真咲ちゃんと、ちゃんと“これから”を話したい」
“もしも”の中の結婚生活じゃなくて、
実際に、今のふたりが選べる範囲の「一緒に生き延びる形」を。
その決心の手前で、ようやく眠気がやってきた。
ぼくは浅い呼吸のまま、ゆっくり目を閉じた。
夢の中でカレーの匂いがしたけれど、その夜はもう、フィルムはそれ以上見せなかった。




