五章 好きと苦手のぶつかる場所
真咲ちゃんと会うのは、これで三回目だった。
最初は、ぼくからだった。実家から東京に戻って、ラジオをつけたままスマホをいじっていた夜。中学のころと同じあだ名をプロフィールにぶら下げているアカウントを見つけて、何日もフォローボタンを前に指を止めて、そのあとようやく押した。
「え、もしかして……みーくん?」
返ってきた最初のDMは、それだけだった。
そこから、少しずつやり取りが増えた。最近見ているアニメの話。真咲ちゃんが通っているA型作業所のこと。ぼくの仕事の愚痴。
何通かやり取りしたあと、「久しぶりに会ってみる?」と言ったのは、真咲ちゃんのほうだった。
一度目は駅前のカフェで。
二度目は、映画館でアニメ映画を見た。
そして三回目の今日は、昼から地元のカレー屋に行くことになっている。
カレー屋を提案したのは、ぼくだ。高校のころから通っている店で、地元の友達には「またそこか」と言われるくらいには常連だ。
真咲ちゃんに「地元カレー食べたい?」と聞いたら、「食べたい!」と即答が返ってきた。
待ち合わせは、駅前のロータリー。
少し早めに着いて、ベンチの端に座っていると、向こうから手を振る人影が見えた。
「みーくん」
声を聞く前に、口の動きだけでわかった。
真咲ちゃんは、膝までのグレーのコートを着ていた。下は黒いタイツとスニーカー。髪はゆるく巻いて、耳のところだけピンで留めている。
中学のころより少し大人っぽくて、でも笑ったときの目尻の下がり方はそのままだ。
「久しぶり……ってほどでもないか」
「でも、ちょっと久しぶりな感じはするね」
一週間ぶりくらいだ。
画面越しでは毎日のように話しているのに、実物の距離感はまだ測りきれていない。
「店、駅から近いの?」
「歩いて五分くらい。商店街の端のほう」
「了解〜」
並んで歩き出すと、真咲ちゃんは自然にぼくの歩幅に合わせてきた。
それだけのことが、少しうれしい。
「作業所、最近どう?ってかなんかあったの?」
ぼくが聞くと、真咲ちゃんは「んー」と少し考えてから答えた。
「ぼちぼち。相変わらず、細かい作業多いよ。ビニール詰めたり、シール貼ったり」
「大変そう」
「大変っていうか……“疲れるけど、前よりマシ”って感じかな」
「前よりマシ?」
「前の職場が、わりと地獄だったからね」
言い方は軽いけれど、その「地獄」の中身は軽くない。
DMでも少しだけ聞いたことがある。
「セクハラとパワハラとモラハラのセット、みたいな?」
「そう、それそれ。全部盛り」
「……よく生きてたな」
素で言うと、真咲ちゃんはふっと笑った。
「ね。あのまま働いてたら、たぶん今ここ歩いてないと思う。でも鬱やっちゃって。」
商店街のアーケードに入る。
八百屋の前を通って、古い文房具屋の前を通って、その奥に小さなカレー屋がある。
木のドアを押して入ると、カレーと揚げ物の匂いがいっぺんに襲ってきた。
カウンター席がいくつかと、四人掛けのテーブルが二つ。昼少し前で、まだ客は少ない。
「いらっしゃい」
エプロンのおばちゃんが顔を出す。
ぼくは軽く会釈して、窓際のテーブルに座った。真咲ちゃんは、カバンを膝に抱えながら腰を下ろす。
「ここが、みーくん御用達のカレー屋さん?」
「そう。高校のときから来てる」
「へえ。推しカレーだ」
メニューはシンプルだ。ビーフカレー、チキンカレー、カツカレー、日替わり。
ぼくはいつものビーフカレーの辛口にする。真咲ちゃんは、少し迷ってから「チーズカレー、中辛で」と言った。
注文を済ませて、水を飲む。
店内のラジオから、ローカル局のジングルが小さく流れてくる。ぼくはつい、どの番組かを耳で探す癖がある。
「みーくんってさ」
真咲ちゃんが、ストローの袋をくしゃっと丸めながら言った。
「昔から、変なとこだけこだわるよね」
「どこ?」
「ラジオとか。豆の挽き方とか。カレーの辛さの段階とか」
「ディスってる?」
「褒めてる。たぶん」
たぶん、をつけるあたりが真咲ちゃんっぽい。
しばらく、別の話をした。
映画の感想。最近ハマってるゲームの話。地元の変わってしまった店の話。
カレーが運ばれてきて、湯気が立つ皿がテーブルに並ぶ。
一口食べると、舌に辛さより先に玉ねぎの甘さが広がった。
「……おいしい」
真咲ちゃんは素直に言った。
「でしょ」
「ルーがちゃんと“カレー”って感じする。わかる?」
「わかる。語彙力ゼロだけど伝わる」
そんな他愛もないやり取りのあとで、真咲ちゃんが少しだけ真面目な顔になった。
「でさ」
「うん?」
「今日、ひとつだけ言いたいことあって」
「こわ」
「こわがらない」
チーズを伸ばしながら、真咲ちゃんは視線を皿の上から上げた。
「この前さ。DMで、あたしが推しバンドのMV送ったときあったじゃん」
「ああ……」
すぐ思い出した。真咲ちゃんが「最近ずっと聴いてる」とリンクを送ってくれて、ぼくはそれを途中まで見て、「こういうシャウト多めのやつ、ちょっと苦手なんだよね」と返してしまった。
「覚えてる?」
「覚えてる。あれ、やっぱまずかった?」
「“まずい”ってほどじゃないんだけどね」
真咲ちゃんは、スプーンを一度皿に置いた。
「“それ苦手なんだよね”って言い方さ。中学のころから変わってないなーって」
「そんな昔から言ってたっけ」
「言ってた。給食のときとか、“それ苦手なんだよね”ってよく言ってたじゃん。ピーマンとかゴーヤとか」
「あー……たしかに」
言ってた気がする。
「嫌い」って言うより角が立たないと思って、多用していた。
「あとさ。誰かの趣味の話になったときも、“そのジャンル、苦手なんだよね”とかさ。
別に悪気ないんだろうなってわかるんだけど」
真咲ちゃんは、そこでいったん言葉を切った。
カレー屋のラジオが、ちょうど曲紹介に入る。
「頭では、“あ、みーくんはそれ得意じゃないんだな”って処理できるの。
でも、心のほうがさ、“あたしの好きなもの、一個バツつけられた”って、ちょっとだけ感じちゃうときがあって」
「……」
「わかりやすく言うと、“好きなものリスト”の中に、赤ペンで細かく×マークつけられてく感じ?」
それは、思っていたより重たい比喩だった。
「ごめん。そこまで考えずに使ってた」
素直に謝る。
言ったあとで、「ごめん」だけじゃ足りない気がして、続けた。
「教えてくれて、ありがとう」
真咲ちゃんは、一瞬目を丸くして、ふっと笑った。
「それ、それ」
「それ?」
「“ごめん、ありがとう”セット。中学のころからやってたよね、それ」
「昔から?」
「先生に注意されたときとかさ。“ごめんなさい”って言ったあとに、“教えてくれてありがとうございます”って、ちょっと小声で付け足すやつ。
見てて、“あーなんかこの人ちゃんと聞いてるんだな”って思ってた」
「変なとこ見てるね」
「いいとこ見てるんだよ」
そう言ってから、真咲ちゃんは少し表情を曇らせた。
「でね、“苦手”の話に戻るんだけど」
「うん」
「たぶん、あたしのほうが“苦手”って言葉に過敏になってるのもある」
「前の職場のせい?」
「そう」
真咲ちゃんは、水を一口飲んで、グラスを指で回した。
「前の上司もさ、“それ苦手なんだよね”って言い方よくしてたの。
“そういう喋り方、ちょっと苦手なんだよね”とか、“そういう服装、職場的にあんまり好きじゃないんだよね”とか」
それはもう、「苦手」の形をした拒絶だ。
「で、“じゃあどうしたらいいですか”って聞くと、“自分で考えなよ”って返されるの。
“お前の存在そのものが、私の好きじゃない枠からずれてる”って、すごく柔らかい言葉で刺され続けてた感じ」
「……それは、きつい」
「だからね、“苦手”って単語自体に、ちょっとトラウマついてるのかも」
真咲ちゃんは、スプーンでルーをすくって、また皿に戻した。
「あたし、アニメとかゲームとか好きじゃん。
それを“きっつ”とか“そういうのムリなんだよね”って言われ続けると、自分の“好き”までぜんぶダメ出しされた気になるの」
「うん」
「みーくんが“苦手なんだよね”って言ったときも、“頭では違うってわかってるけど、体のほうが勝手に反応しちゃう”みたいな」
「そっか……」
ぼくは、スプーンを持ったまま止まっていた。
自分の口癖が、そんな地雷の近くに落ちていたとは思っていなかった。
「ごめん」と「ありがとう」では、たぶん足りない。
「じゃあさ」
少し考えてから、口を開く。
「これから、“苦手なんだよね”って言いそうになったら、“今はあんまり知らないんだよね”に変えるの、どうかな」
「“知らない”?」
「うん。だって、実際そうでしょ。
真咲ちゃんの推しバンドも、ぼく、一曲目のMV途中までしかちゃんと聴いてないし。
それで“苦手”ってラベル貼るの、たぶん雑だったなって」
真咲ちゃんは、しばらく黙っていた。
カレー屋のラジオが、どうでもいい天気予報を読み始める。
「……それ、ちょっと好きかも」
「ほんと?」
「“知らない”って言われるとさ、“じゃあこれも見てみてよ”って次出せるんだよね。
“苦手”って言われると、その話題ごとドア閉められたみたいな気持ちになる」
「たしかに」
「だから、“今はまだわかんない”って言ってもらえたら、たぶんあたし、もう一歩踏み込める気がする」
「わかった。これからは、“今はあんまり知らないんだよね。よかったら教えてほしい”って言うようにする」
「長いな」
「口癖修正するには、そのくらい派手にやんないと」
「ふふ」
真咲ちゃんは笑って、それから少し真剣な顔に戻った。
「ただね」
「うん?」
「あたしも、みーくんに対して“苦手だな”って思ってたとこ、実はある」
「あるんだ」
「あるよ。人間だもん」
即答されたので、逆に気持ちよかった。
「たとえば?」
「まず、“ぼくなんて平凡でさ”ってすぐ言うとこ」
「あ……」
心当たりしかない。
「中学のころからそうだったよ。“モブだから”とか。“イベント起きないし”とか。
あたしから見たら、“自分で自分のこと、ずいぶん安く見積もるな〜”ってずっと思ってた」
「安売りセールか」
「そう。でね、当時のあたしからするとさ、“その平凡アピールしてる人にさえ選ばれないあたしって何?”って、一瞬思っちゃうわけですよ」
「……それは、刺さる」
「まあ、中学生だからさ。こっちも拗らせてたんだけど」
真咲ちゃんは、水をもう一口飲んだ。
「もうひとつは、“自分より相手を優先しすぎそうなとこ”」
「それ、いいとこじゃない?」
「いいときもある。でも、やりすぎると、自分が溶けちゃうやつ」
真咲ちゃんは、スプーンの先でルーを撫でながら言う。
「さっきもさ。DMで“シフト代われる?”って訊かれて、“断る理由がなかったから”って引き受けたって言ってたじゃん」
「言ったね」
「あれ、たぶん今はまだ大丈夫なんだけど、長期的に見たら同じ匂いするんだよね。
“自分より相手の都合優先してたら、自分の居場所なくなってました”っていう」
「……前の職場で?」
「そう。だから、人ごとに聞こえなかった」
真咲ちゃんは、少しだけ笑ってみせた。
「あたし、前の恋愛でもそれやってさ。
“あなたのこと大事にするから”って言ってくれた人が、自分のことはぜんぶ後回しにして、最後ちょっとつぶれたの見ちゃって。
“あ、これ、愛情だけじゃ回らないやつだ”ってなった」
「ああ……」
「だから、“真咲ちゃん優先したい”って言葉は嬉しいんだけど、ちょっと怖くもある、っていう話」
「それは……ちゃんと覚えておく」
「うん。
“優先してほしいけど、優先されすぎたくない”っていう、めんどくさいやつです」
「めんどくさいの、付き合うよ」
口が勝手に言った。
言ってから、少しだけ後悔するくらいには、ストレートだった。
真咲ちゃんは、スプーンを持ったまま固まった。
「……そういうことサラッと言うの、やめて」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、心の準備が……」
頬がうっすら赤くなっているように見えた。
店内はそんなに暗くないのに。
「でもさ」
ぼくは、少しだけ声を落とした。
「“苦手”って言われるのが怖いのと、“好き”って言うのが怖いの、たぶん似てるよね」
「似てるかも」
「どっちも、“自分の一部”を相手に渡すことだから」
「うん」
「だから、“苦手”も“好き”も、こうやってちゃんと話せる相手がいるって、けっこう貴重だなって思う」
真咲ちゃんは、うつむきかけて、それからこちらを見た。
「それ言われると、また好きになるやつじゃん」
「今なんて?」
「なんでもない。聞こえなかったことにして」
「無理でしょ」
ふたりとも、少し笑った。
カレー屋のラジオは、相変わらずどうでもいいBGMを流している。
「じゃあさ」
ぼくは、冗談半分、本気半分で提案した。
「これから、“苦手”出そうになったら、“今はまだよく知らないんだよね。よかったら教えてほしい”って言うから」
「長いって」
「そのくらい噛んでからじゃないと、ぼくの口癖たぶん治らない」
「ふふ。
じゃああたしも、みーくんが自分のこと雑に下げたら、“それ、あたしの好きな人を雑に扱ってるからやめて”って言う」
「それもだいぶ長いけど、いい」
「長いコンビネーションだね」
「長いほうが、ちょっと笑えていいよ」
ふたりで、また少し笑った。
カレーを食べ終わるころには、店の外の光が少しだけ傾き始めていた。
会計を済ませて、外に出る。商店街の空気が、カレーの匂いと少し混ざっている。
「このあと、どうする?」
真咲ちゃんが聞く。
「商店街、ちょっと歩こうか。
あのさ、前にラジオで話してたエッセイ本、この本屋にもあるかもしれない」
「行く」
返事は早かった。
並んで歩き出す。
さっきまでカレーを食べていたテーブルの向こう側と、横に並んで歩いている今とでは、空気の重さが少し違う。
好きと苦手がぶつかった場所を、一回通過したあとでも、
こうして同じ方向を向いて歩いてくれる人がいる。
ばあちゃんは、自分の「もしも」を見て、それでも今の毎日を選んだ。
ぼくはまだ、フィルムの「もしも」を見ていないけれど、
こうやって誰かと「めんどくさい話」をしながら歩いていく未来を、
ちょっとだけ選びたくなっていた。
商店街の先に、小さな本屋の看板が見える。
その向こうには、まだ見ていない「これから」が、雑多な棚みたいに積み上がっている気がした。




