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四章 ばあちゃんが見た“もしも”の夜

その夜は、風の強い日だった。

雨はとうに上がっていたけれど、路地のどぶ板にはまだ水たまりが残っていて、電柱の影をゆらゆら映していた。

家の中も、どこか落ち着かない。障子がときどき、風に押されて小さく鳴いた。


わたしは布団に入って、しばらく天井を見ていた。

明日も写真館だ。

朝は早いし、暗室の仕事は目も肩も疲れる。

母には「もう寝なさい」と言われて、電気も消されている。

それでも、目が冴えていた。


頭の片すみで、さっきまで触っていた箱のことを考えていたからだ。

昼間、押し入れの整理をしていたら、あの箱が出てきた。

しばらく忘れていた、露店で買ったフィルムの箱。

「珍しいやつだよ」と言われて、つい財布を開いてしまった時のことを、まだ覚えている。


どのカメラにも、たぶん入らない。

でも、店の男は笑って、「あなたになら使いこなせる」と言った。

じいさんにあげようと思っていた。

写真が好きな人だから、きっと喜ぶ。

そう思って、何度か手に取っては、元の場所に戻してきた。

どのカメラにも入らないかもしれないものを、「どうぞ」と渡す勇気が、わたしにはない。


だから箱は、何年も押し入れの奥で眠っていた。

布団の中で寝返りを打つ。

天井のしみに、昼間の光景が重なる。

写真館のカウンター。

暗室の赤い灯り。

隣の店のラジオの音。


佐伯さんが通りを歩いていく背中。

「結婚」という言葉も、最近はよく耳にするようになった。

母は、「あんたも、いつまでもふらふらしていられないよ」と言う。

父は、「店のことは、無理に継がなくてもいい」と言う。

どちらにも、ちゃんと答えられないまま、日だけが過ぎていく。

「起きよ」


わたしは布団をそっと抜け出した。

畳がひんやりしていて、足の裏がびくっとした。

部屋の隅にある小さなタンスの上。

昼間と同じ場所に、銀色の箱が置いてある。

家族には見つからないように、布を一枚かけておいた。


布をめくると、箱は静かにそこにいた。

角に少し傷がついている。

それ以外は、買った日のままだ。

わたしは、部屋の真ん中に小さなちゃぶ台を引き寄せて、箱をそっと置いた。

天井の照明をつけるのはためらわれて、枕元の小さな電気スタンドだけをつける。

黄色い光が、箱の上半分だけを照らした。

ふたの縁に指をかける。


何度も試した動作だ。

いつもは、ここで何も起きない。

押しても、引いても、回しても、開かない。

「飾りだけの箱なんじゃないか」と思ったこともある。

その夜は、指先の感触が少し違った。

ぎし、と、ほんのかすかに金属の鳴る音がした。

ふたが、わずかに浮いた。

「……あれ」

声が出た。


誰かが返事をするわけではない。

隣の部屋で寝ている両親は、いびきも立てずに静かだ。

もう一度、ゆっくり指先に力を込める。

ふたが、すうっと横に滑った。

中には、フィルムが一巻き入っていた。


今、店で扱っているどのフィルムよりも、幅が広い。

穴の位置も違う。

触ったことのない種類の材質のような気もする。

「こんなの、あったかねえ」

思わずつぶやく。

写真館の人間としての癖で、目盛りや穴の間隔をざっと測ってみる。

どのカメラにも、やっぱり合いそうにない。

それでも、目が離せなかった。


フィルムは、暗い部屋の中でも、うっすらと何かを映しているように見えた。

まだ撮られていないはずなのに、遠い景色が薄く焼き付いているような。

「じいさんに……」

そこまで言って、口を閉じる。

じいさんは、今ごろ布団の中だ。


明日の朝も早く起きて、仕事に出る。

このフィルムを見せたとして、喜ぶのか困るのか、わからない。

「その前に、わたしがちゃんと見とかなきゃね」

自分にそう言って、フィルムの端に、そっと指を伸ばした。

指先がフィルムに触れた瞬間、空気が変わった。

胸の奥が、きゅっと縮む。

目の奥がじんわり熱くなる。

耳の中で、いつもと違う音がした。

電車の音。


聞き慣れないアナウンス。

家の前の細い道では、絶対に聞こえないようなざわざわ。

わたしは思わず目を閉じた。

目を閉じてから、もう一度ゆっくり開ける。

そこは、見たことのない場所だった。

舗装された広い道。


両側には、背の高い建物がずらりと並んでいる。

看板が眩しい色で光っている。

聞いたこともない店の名前が、横文字で並んでいる。

夜なのに、街は暗くない。


空の上のほうに、白い月が小さく見える。

足元を見ると、自分の足があった。

でも、履いているのは、いつもの下駄ではない。

白いスニーカー。

足首までの、動きやすそうなズボン。

「え……」

声が出た瞬間、

「どうしたの?」

隣から、男の声がした。


振り向くと、男の人がひとり、わたしと並んで歩いていた。

顔ははっきり見えない。

輪郭だけが、ぼんやりとわかる。

肩幅と、背の高さ。

歩くリズム。


首から下がっているカメラ。

ストラップについた黒い箱に、どこかで見た形のレンズがくっついていた。

だけど、側面に彫られた文字は、知らないメーカーの名前だ。

男の人は、当たり前のように続ける。

「子どもたち、もう疲れてないかな。あんまり歩かせても悪いし」

「こども……?」


わたしは反射的に、後ろを振り向く。

少し離れたところに、小さな影が三つ四つ。

色とりどりの服を着た子どもたちが、わたしたちのあとをついて歩いている。

ひとりが、わたしのほうを見て言う。

「おかあさん、アイスは?」

その言葉が、自分に向いていると気づくまでに、一拍かかった。

「あとでね」


どうしてかわからないけれど、そう答えた。

口が、勝手に動いた感じがした。

男の人が笑う。

「さっきもアイス食べたでしょ」

「もう一個」

「だめ。今日はもうおしまい」


男の人は、子どもの頭を軽くなでて、それからまた前を向く。

その横顔が、ふと、見慣れた誰かに似ている気がした。

写真館に昔から通っている誰か。

商店街の角で、よく会釈をしてくれる誰か。

名前を呼ぼうとした瞬間、舌が止まった。

ここで口に出してはいけないような、変な予感だけが残る。

場面が変わる。


今度は、家の中にいた。

さっき歩いていた街の、どこかの部屋だろう。

広くて、明るいリビング。

床は畳ではなく、つるつるした板。

壁には写真立てがいくつも並んでいる。

子どもたちが写っている写真。


さっきの男の人が、カメラを構えて笑っている写真。

わたしに似ているような、そうでもないような誰かが、そこにいる。

テーブルの上には、丸いケーキのようなもの。

その横に、紙の箱。

箱の中には、フィルムではなく、色とりどりの小さなお菓子が並んでいる。

「ねえ」

わたしは、椅子に座っている男の人に話しかけた。

「もしもさ」


男の人は、読みかけの書類から目を上げる。

「ん?」

「もしも、違うほうを選んでたら、どうなってたんだろうね」

わたしの言葉に、男の人は少し首をかしげて、それから笑った。

「急になに?」

「なんとなく」

「そうだなあ」


男の人は、天井のほうを見てから、ゆっくりと言った。

「違うほうを選んでたら、きっとここにはいなかったろうね。

 この家も、この子たちも、今の仕事も」

「そうだね」

「でも、そのかわりに、また別の“なにか”があったんだろうさ。

 会ったことのない誰かとか、行ったことのない町とか」

男の人は、そう言いながら、テーブルの上のカップを手に取る。

コーヒーの匂いがした。


写真館の暗室で嗅ぐ薬品の匂いとは、違う、苦い匂い。

わたしは、カップの底を見つめる。

「怖くない?」

「なにが?」

「“もしも”を考えるの。

 こうじゃないほうの自分を考えるの」


男の人は、一瞬だけ真面目な顔になって、それから肩をすくめる。

「考えすぎると怖いけどな。

 でも、考えたからって、今が消えるわけじゃないだろ」

「そうかな」

「そうさ」

そう言って、男の人は笑った。

その笑い方が、どこかで見た誰かに似ている気がして、

わたしは急に、ここがどこなのかわからなくなった。

視界の端が、じわじわと滲み始める。

リビングの壁。

テーブル。

子どもたちの声。

男の人の輪郭。

全部が、すこしずつ薄くなっていく。

代わりに、畳の匂いが戻ってきた。

湿気を含んだ空気。

障子の隙間から入る、夜の冷たさ。

隣の部屋の、父の寝息。


わたしは、ちゃぶ台の前に座っていた。

目の前には、さっきの箱。

ふたは開いていない。

フィルムも、最初に見たときと同じように巻かれている。

指先には、まだ冷たい感触だけが残っていた。

遠くのざわめきも、知らない子どもの声も、もう聞こえない。

「……夢?」

口に出してみる。


夢にしては、匂いも、重さも、はっきりしすぎていた。

さっき着ていた服の感触も、靴の中の足の感覚も、指に残っている。

それでも、ここが自分の部屋であることだけは、確かだった。

畳のへりのほつれ。

壁のしみ。

押し入れの前に置いた、古いトランク。

全部、見慣れたものだ。


わたしは、しばらく黙って箱を見つめていた。

さっきの景色が、本当に「もしも」の未来だとしたら。

別の町。

別の家。

別の家族。

そこにいた自分は、そんなに不幸そうではなかった。

笑っていた。

忙しそうではあったけれど、泣いているわけでもない。

それでも、「ここから、どこにつながっているのか」が、よくわからなかった。

写真館の暗室。

商店街の朝の匂い。

母の小言。

父の黙った背中。


佐伯さんの、遠くを見るような目。

あの未来には、どれもなかった。

「今の毎日を、なくしたくないな」

自然に、その言葉が出た。

誰に聞かせるわけでもない。

自分で、自分に言った。

今の毎日は、立派なものではない。


お金もないし、家も広くないし、将来のことを聞かれても、うまく答えられない。

それでも、今日まで積み重ねてきた「いつもの店」と「いつもの顔」が、

見知らぬ町の明るいリビングと引き換えになくなってしまうのは、どうしてももったいなく感じた。

「ごめんね」

わたしは、箱に向かって小さく頭を下げた。

「悪い子じゃないんだろうけどさ。

 わたしには、たぶん持て余す」


ふたにそっと手を置いて、押す。

今度は、何の抵抗もなく閉まった。

かちり、という小さな音が、部屋に落ちる。

わたしは箱を抱えて立ち上がり、押し入れの奥に手を伸ばした。

布団と、古い服と、使っていない道具のさらに奥。

普段は手を入れない場所。


そこに箱を押し込み、布で軽く覆う。

手を引っ込めるとき、指先が一瞬だけ、何か冷たいものを撫でた気がした。

それが箱だったのか、別の何かなのかは、わからない。

布団に戻る。

天井を見上げる。

さっきと同じしみが、同じ場所にある。

「選ぶのは、わたしだ」

もう一度、はっきり口に出した。

誰かに選ばされるんじゃなくて。

誰かの「こうしたほうがいい」に従うだけじゃなくて。

自分で、自分の毎日を選ぶ。


フィルムに見せられた「もしも」は、たしかに眩しかった。

でも、その眩しさに目をくらませて、今の部屋を見失うのは、いやだった。

明日の朝になったら、日記に書こう。

全部は書かないかもしれない。

「変な夢を見た」とだけ書いて、

「今の毎日を、なくしたくない」とだけ残すかもしれない。

それでもいい。

きっとそれで、じゅうぶんだ。


眠気が、じわじわと体に戻ってくる。

さっきまでのざわめきが嘘みたいに、外は静かだ。

わたしは、布団を肩まで引き上げて、目を閉じた。

その夜見た「もしも」のことを、全部忘れることはないだろう。

でも、それは押し入れの箱と同じ場所にしまっておいて、

明日はまた、写真館の鍵を開けるところから始める。

そう決めて、深く息を吐いた。


やがて、静かな寝息だけが、部屋に残った。


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