表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

三章 虫食いの日記をスクラップする

スクラップ帳を作ろうと思ったのは、東京に戻って二週間くらいしてからだった。

その日はたまたまシフトが早番で、夜の九時には家にいた。

コールセンターのフロアのざわざわと、クレームの残響が、まだ少し耳の奥に残っていたけれど、いつもみたいにラジオのアーカイブを再生する前に、やることがある気がした。


押し入れの下段から、実家から持ってきた段ボールを引きずり出す。ガムテープを剥がすと、古い紙の匂いがふわっと広がった。

中身は、蔵から持ち帰った虫食いの日記と、父さんが「いるなら持ってけ」と言った古い写真、よくわからない領収書の束。段ボールの中だけ、まだ実家の空気が残っている。


日記は、ところどころ穴があいて、ページの角が黒くなっている。

湿気を吸って波打った紙は、そのままめくるとぽろっとちぎれそうだった。

このまま放っておいたら、たぶん本当に粉になって消える。

そう思った瞬間、「スクラップ帳」という言葉が頭に浮かんだ。


週末、ぼくは文房具屋に行った。

無印っぽい店で、クラフト紙のノートと、写真用のコーナーシール、それからスティックのりを買った。

レジ袋を断って、そのまま抱えて帰る自分が、少しだけ「ちゃんとしたことをしている大人」みたいに見えた。


その夜、ローテーブルの上に道具を並べる。

ノートを開いて、最初のページを指で押さえる。紙は新しくて、ばあちゃんの日記とは正反対に、何も書かれていない。

「どう貼るかな」


誰に聞かせるでもなくつぶやいて、段ボールから日記を一冊取り出す。

表紙には、達筆とは言えないけれど、きっちりした字で名前が書いてある。年号も書いてある。昭和の、ぼくには実感のない数字。

ページを開くと、文字の途中で紙が食われているところがたくさんあった。


──きょうは■■さんが店に来て、■■■■をほめてくれた。

──■■■くて、すこし■■■なった。


虫に食われた部分が、黒い塗りつぶしみたいに見える。

何をほめられたのか。何がうれしかったのか。ほめた人は誰なのか。

肝心なところだけが、すとんと抜けている。

そのまま読むには、穴が多すぎた。


このままページを閉じてしまえば、たぶん二度と開かないだろう。

そう思って、スクラップ帳の一ページ目に、日記の一枚目をそっと重ねてみる。

クラフト紙と、古い紙の色が、意外と馴染んだ。

「……ここからか」

のりのフタを開けて、日記の裏側の端に薄く塗る。

全部べったり貼ると、裏側の文字が読めなくなる気がしたので、上下だけにした。

ノートに乗せて、手のひらで軽く押さえる。紙と紙がくっつく感触は、思っていたより頼りない。


インクの薄い文字と、虫食いの穴が、そのまま一ページとして固定される。

スクラップ帳は、最初の住人を得た。

二枚目、三枚目と貼っていくうちに、字の癖に少しずつ慣れてきた。

若いころのばあちゃんは、びっくりするくらい普通のことを書いていた。


──朝、ねぼうした。母にしかられた。

──店の前を掃いていたら、猫がとおった。

──写真館の子どもが、またフィルムをさわっていた。こわい。


「写真館」という言葉で、初めて少し今とつながる感じがした。

じいちゃんがカメラ好きで、家にはフィルムやレンズがたくさんあった。

父さんもスマホのカメラしか使わないくせに、フィルムの話になると急にうるさくなる。


その源流が、たぶんこの日記の「写真館」のあたりにあるのだと思うと、虫食いの穴の向こう側に、見えない何かがいる気がした。

「写真館で働いてたんだな」

声に出してみる。

返事は、もちろんない。

貼りながら、気になる行だけ、スクラップ帳の端に鉛筆でメモしていく。


「写真館でバイト? 正社員?」

「父さんの実家=写真屋?」

「佐伯さん=お客さん? 近所?」

佐伯さん、という名前は、日記のあちこちに出てきた。


──きょうも佐伯さんが、通りの角で会釈してくれた。

──佐伯さんの話は、母はあまり好きでない。

──写真を撮るときの顔が、すこしこわい。


微妙に距離のある人、という感じがする。

家族がよく知っている近所の人で、でも、家族にはあまり歓迎されていない。

彼の存在だけは、虫食いの穴にも負けずに、何度も紙の上に浮かんでいた。

日記は、あるページで紙質が変わった。

少しだけ白くなって、インクの乗り方も違う。

そこに、例のフィルムの話が出てきた。


──じいさんに、なにかあげたくて、■■■■でフィルムを買った。

──露店の人が、「珍しいやつだ」と言っていた。

──どのカメラにも入らないかもしれないと言われて、すこし不安になった。

──でも、「あなたになら使いこなせる」と笑っていた。


虫食いはあるけれど、大事な単語は残っていた。

じいちゃんにあげるために、露店でフィルムを買った。

珍しいやつ。

どのカメラにも入らないかもしれない。

「あなたになら使いこなせる」。


ぼくが蔵で見つけた〈もしも〉の缶と、ここでつながる。

その行をスクラップ帳に貼りつけてから、ぼくは少しだけ手を止めた。

脳内で、ばあちゃんの若いころの姿を勝手に作り始める。

写真館で働いて、カメラやフィルムの話を覚えて、露店で珍しいフィルムを見つけて、


「これをじいさんに渡したら、どんな顔をするかな」と想像している人。

「じいさん」という呼び方のせいで、ちょっと距離があるようにも感じる。

それでも、そのフィルムの行だけ、ペンの力が少し強くなっている気がした。

──これは、あとで使う。


その一文だけ、虫に食われないで残っていた。

「あとで」が、どのくらい「あと」を指しているのかは、書かれていない。

スクラップを進めていくと、日記の時間はゆっくり進む。

家族の愚痴。

仕事の疲れ。

たまに、佐伯さんの話。


──佐伯さんは、町内会の集まりで、いつも一番さいごまで残っている。

──写真を撮るとき、息を止める癖がある。

──あの人は、遠くを見ているようで、近くを見ている。


「遠くを見ているようで、近くを見ている」という言い方が、妙に引っかかった。

地元でたまに顔を合わせる、近所の佐伯さんのおじいさんを思い出す。

庭の掃除をしている背中。


父さんと立ち話をするときの、ゆっくりした声。

どこからが「同一人物」で、どこからが「別人」なのか、はっきり線は引けない。

でも、日記の佐伯さんと、今の佐伯さんの間に、一本線を引いておきたくなって、スクラップ帳の端にまた鉛筆で書き込む。

「佐伯さん=今の佐伯さん? ばあちゃんの初恋?」

「?」を二つつけておく。


決めつけるには、情報が足りない。

ページをめくっていくうちに、虫食いがひどくなる。

湿気の多い年だったのか、日記を書かなくなった時期なのか、紙の色が急に暗くなって、インクも薄くなっている。

そのあたりのページは、貼ろうかどうしようか少し迷った。


──もしも、■■■■■■■■■■■■■■■。

一行丸ごと、ほとんど読めない。

かろうじて、「もしも」という最初の二文字だけが残っている。

「もしも」

鉛筆の芯でなぞってみる。紙が負けて破れそうになるので、あわてて手を引っ込める。


ここが、ばあちゃんが「もしも」という言葉を初めて日記に書いたページかもしれない。


そこから先の文章は、虫の食事の跡みたいな穴だらけだ。

──もしも、□ □ □

□で埋めたところに、何が入っていたのか、あまりにも想像の余地がありすぎて、頭が空回りした。

佐伯さんのことかもしれない。

じいちゃんのことかもしれない。

写真館のことかもしれない。


まったく関係ない、雨の日の洗濯物の話かもしれない。

どれだとしても、もう当人に確認することはできない。

「ここ、ちゃんと読ませてほしかったな」


ぼくはスクラップ帳の、虫食いの真上の余白に、そう書いた。

日付が進むにつれて、日記には「結婚」という単語が出てくる。

相手の名前は、虫食いとぼかしに挟まれていて、はっきりとは読めない。


──■■さんと、■■■■をすることにした。

そのあとに続く行は、比較的しっかり残っていた。

──すぐに答えを出さなくてもいい、と言ってくれた。

──でも、いつまでも「もしも」を考えていたら、どこにも行けない気がする。

──今の毎日を、なくしたくない。

その三行だけ、インクの色が少し濃い。


たぶん、ここでばあちゃんは、何かを選んだ。

誰かと一緒に生きることを選んで、その結果として、父さんが生まれて、ぼくがいる。

「今の毎日を、なくしたくない」

その文を、もう一回だけ頭の中で読んでから、ぼくは慎重にそのページを剥がして、スクラップ帳に貼った。

この三行だけは、落としたくないと思った。


作業を続けているうちに、部屋の時計の針が十一時を回っていた。

ラジオのリアルタイム放送が始まる時間だ。

ノートパソコンから、番組のジングルが流れ出す。

パーソナリティの声が、「今日も一日お疲れさまでした」と言う。

ぼくはスピーカーの音量を少し絞って、スクラップの続きをする。

ラジオの声は、もともと生活音の一部だから、消す必要はない。

一冊目の日記を貼り終えて、二冊目に手を伸ばす。


そのとき、スマホがテーブルの端で小さく震えた。

画面を確認すると、仕事のチャットアプリからのメンションだった。

「明日のシフト、入れる人いますか?」というメッセージ。

既読が何個か並んでいて、誰も「入れません」とは書いていない。

ぼくは、スマホを伏せた。

「見なかったこと」にすると、あとで自分にしっぺ返しが来るのは知っている。

それでも、いまこの瞬間は、ラジオとスクラップ帳を優先したいと思った。

「ごめん、明日考える」


誰にともなく言って、日記の束を手元に引き寄せる。

端のほうに、小さな封筒が挟まっているのに気づいた。

茶色い小さな封筒。糊付けはされていなくて、口が少し開いている。

中から出てきたのは、切り抜かれた新聞の一部と、小さなメモ紙だった。

新聞には、フィルムメーカーの広告が載っていた。

「新しい規格のフィルム、近日発売」とだけ書いてある。その横に、見慣れないロゴマーク。


メモ紙には、ばあちゃんの字で、短く一行。

──これとは違うけど、あの露店のフィルムも、「新しい」と言われた。

その下に、別のペンで砂消しを使ったみたいな跡が残っている。

何かを書いて、消したあと。

うっすらと、「すこし怖い」と読めなくもない。

「怖い?」

口に出すと、自分の声が少し響いた。

レアなフィルムを、「怖い」と感じるほど、何かがあったのか。

それともただ、「使い方がわからないもの」への漠然とした不安だったのか。

新聞の切り抜きも、メモも、スクラップ帳の後ろのほうにまとめて貼っておくことにした。


フィルムに関するものは、ひと目でわかる場所に集めておきたかった。

作業が一区切りついたところで、ぼくはペンを持ち替えた。

スクラップ帳の一番最初のページに戻って、表紙の裏にタイトルを書く。

「ばあちゃんの “もしも” スクラップ」

ペン先が少し震いそうになるのを、ゆっくりした字でごまかす。


「もしも」という言葉を、こうやって自分の生活の中に固定してしまっていいのか、少し迷った。

でも、日記を読んでいる限り、「もしも」はばあちゃんにとって、ずっとそばにあった言葉だったのだと思う。


佐伯さんのことか、じいちゃんのことか、仕事のことか、わからないけれど、何かを選ぶたびに、「もしも」が横に立っていた。

「ばあちゃんが見た“もしも”と、ぼくの“これから”」

頭の中で、勝手に副題みたいなものが浮かんだ。

声に出すと少し気恥ずかしくて、それは書かなかったけれど、どこかにメモしておきたくて、スマホのメモ帳アプリを開いて短く打ち込んだ。


ラジオからは、リスナーのメッセージが読み上げられていた。

「親の世代の恋愛や結婚の話を聞くと、自分とは別世界のことのように思えてしまいます。

 でも、その選択の延長線上に、自分がいると思うと、不思議な気持ちになります」

パーソナリティが少し笑ってから、真面目なトーンで返す。

「そうなんですよね。

 “自分が生まれる前の選択”って、どうやっても当事者にはなれないんだけど、

 でも、その選択がなかったら、今ここでラジオを聞いてる“あなた”もいなかったかもしれない、っていう」


スクラップ帳の上に置いた自分の手を見下ろす。

指先にインクの跡と、のりの感触が残っている。

ぼくは、ばあちゃんの選んだ相手の名前を、虫食い越しにしか知らない。

じいちゃんの若いころの顔も、写真越しにしか知らない。

その二人が、どんな「もしも」を見て、何を選んだのかもわからない。

それでも、その選択の結果として、父さんが生まれて、父さんのどこかで誰かと出会い損ねて、別の誰かと結婚して、ぼくがいる。

「べつに、すごい家系とかじゃないけどな」

ぼそっと言うと、ラジオの向こうの人が、「でもそれでいいんですよ」と返した気がした。


テーブルの端に、中学の卒業アルバムが置いてある。

実家から持ち帰った荷物の中に、なぜか紛れ込んでいたものだ。

ふと思い立って、それを手に取る。

クラス写真のページを開く。


いくつかの顔にモザイクみたいな記憶の穴があいているけれど、隣の席の子や、前の席でやたら姿勢の良かった男子の顔は、ちゃんとわかる。

後列の右端のほうに、真咲ちゃんが写っていた。

髪は今より少し短くて、前髪もぱっつん気味で、笑い方も今より少しぎこちない。

でも、目の形や、口元の角度は、画面の中のアイコンと変わらない。

ぼくは、アルバムのそのページを見開きのまま、スクラップ帳の横に置いた。

ばあちゃんの虫食いの日記。


スクラップ帳の「もしも」。

中学のころの真咲ちゃんの写真。

東京のこの部屋の空気の中で、全部が同じテーブルの上に並んでいるのが、不思議だった。

「写真の中の人ばっかだな」

声に出すと、少し笑いが混じった。

ばあちゃんも、じいちゃんも、佐伯さんも、中学のクラスメイトも。

ぼくの「過去」は、だいたい紙か画面の中にしかいない。


それでも、真咲ちゃんは、今はスマホの中にいる。

タイムラインのどこかに「寒い」と打ち込んでいる。

その文字に、いつか「寒いね」と返す日が来るのかどうか、自分でもわからない。

スクラップ帳の表紙を閉じる。

クラフト紙の手触りが、少しだけ心強く感じられた。

ばあちゃんの「もしも」は、ここに貼り付けた。

ぼくの「これから」は、まだ白紙のまま、どこか別のノートのページを待っている。


ラジオの音量を少し上げる。

パーソナリティが、深夜にしては明るい声で、「ここからは音楽のコーナーです」と言った。

ぼくは、テーブルの上のスクラップ帳とアルバムを片付けて、布団の上にごろんと寝転がる。

天井を見上げると、実家の部屋とは違う、安っぽい白い天井がそこにある。

「選ぶのは、ぼくか」


ばあちゃんの日記の一文を、少しだけ自分のものとして口にしてみる。

まだ違和感はある。でも、まったくの他人事という感じもしなくなっていた。

スマホの画面を一瞬だけつけて、真咲ちゃんのアイコンが、フォローする前から変わらずそこにあるのを確認する。

何もしないまま、画面を消す。


今日は、ばあちゃんの「もしも」の整理で手一杯だ。

真咲ちゃんとの「これから」を動かすのは、もう少しだけあとにしよう。

そんなふうに自分に言い訳しながら、ぼくは目を閉じた。

ラジオの向こうで流れ始めた曲が、ばあちゃんの知らない時代の、ぼくたちの音楽だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ