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二章 東京の部屋と、フレンチプレスと

東京に戻って、三日たった。

新幹線を降りて、乗り継いで、いつもの最寄り駅に着いたとき、駅前のコンビニの看板がやけに明るく見えた。実家のあの暗い蔵の匂いが、まだ鼻の奥に残っていたせいかもしれない。


アパートの階段を上がって、二階の端の部屋の鍵を開ける。ドアを押すと、冷えた空気がふわっと足元に流れてきた。

誰もいない部屋の匂い。洗いかけのマグカップ。乾きかけの洗濯物。出かける前と何も変わっていない。


靴を脱いで、カバンを床に置く。実家から持ち帰ったのは、着替えと、お菓子の詰め合わせと、父さんが押しつけてきた地元カレーのレトルト数個だけだ。蔵の〈もしも〉の缶は、置いてきた。あそこにあったほうがいい気がしたし、勝手に持ち出したらいけないような気もした。

「ただいま」


一応、声に出してみる。返事はない。自分の声が、薄く響いて、すぐ天井に吸い込まれていく。

コートをハンガーに掛けて、キッチンに回る。フレンチプレスをシンクから引っ張り出す。ガラスに水跡が残っていたので、スポンジで軽くこすってすすいで、布巾で拭く。


電気ケトルに水を入れて、スイッチを押す。湯が沸くまでのあいだに、棚から豆の袋を出す。出張前の日に買った深煎りの豆。封を切ると、チョコっぽい香りがふわっと立ち上がる。


手動のミルに豆を入れて、がりがりと回す。この単純作業が、ぼくにはちょうどいい。音に意識を預けている間だけ、仕事のことも、実家のことも、少し遠くに行ってくれる。


ケトルがカチッと鳴る。フレンチプレスに挽いた豆を入れて、お湯を注ぐ。粉がふわっと膨らんで、表面に泡が浮かぶ。スプーンで一度だけかき混ぜて、フタをして、タイマーを四分にセットする。

四分。


ぼくの部屋の夜は、だいたいここから始まる。

スマホを手に取って、ロックを解除する。仕事のメールアプリの未読バッジを横目で見て、開かずに通り過ぎる。SNSのアイコンをタップすると、タイムラインが流れ出す。


誰かのラーメン。誰かの自撮り。誰かの「仕事つらい」。似たような投稿が、似たような速さで画面を通り過ぎていく。

親指を止めるつもりはなかったのに、一瞬、スクロールが止まった。

見覚えのあるアイコンがあった。


パステルカラーの髪の女の子のイラスト。ユーザー名の横に並ぶひらがな。

頭で読むより先に、「あ」と声が出そうになる。

──真咲ちゃん。

プロフィール名は下の名前だけ。でも、自己紹介欄の一行目に、中学のときと同じあだ名が書いてある。写真の雰囲気も、投稿の文の癖も、全部合わせて考えると、ほぼ間違いない。

「……まじか」


小さくつぶやいて、スマホを持つ手が少し汗ばんだ。

アイコンをタップする。プロフィールページが開く。

「低浮上」

「A型作業所通所中」

「アニメとマンガが好き」

短い自己紹介文。


昔から、あんまり長く語らないタイプだった。中学のころも、日記とか書いても三行で終わりそうな人だった。

固定されたポストには、猫の写真が載っている。毛布の上で丸まっている白い猫。キャプションは一言、「かわいい」。


最近の投稿には、こたつの写真、深夜アニメの実況っぽい文章、自分の手だけ写した紅茶のカップ。

写真の撮り方が、なんとなく丁寧だ。背景に散らかっているものがあまり写っていない。必要なものだけを残して、それ以外はフレームから外している感じ。

タイマーが、ピピピと鳴った。


現実に引き戻される。

フレンチプレスのハンドルをゆっくり押し下げる。粉とお湯が分かれて、ガラスの中にコーヒーだけが残る。マグカップに注ぐと、さっきの豆の香りが少し濃くなって部屋に広がった。


マグを持ってローテーブルの前に座る。ノートパソコンを開いて、深夜ラジオのサイトを表示する。リアルタイムにはまだ少し早いので、アーカイブを適当に再生する。

パーソナリティの声が、少しざらついた音質でスピーカーから流れ出す。

「今日も一日お疲れさまでした。ここからは、眠れないあなたと一緒に過ごす時間です」


何度も聞いた導入のセリフだ。

それをBGMにしながら、ぼくはまたスマホを見る。さっき開きかけて閉じた、真咲ちゃんのプロフィール画面。


フォロー数は少ない。フォロワーも多くない。鍵はかかっていないけれど、身内だけでゆるく回しているアカウント、という感じがする。

最新の投稿には、湯呑みとこたつ布団が写っていた。

「寒い」

一言だけ。


いいねは三つ。コメントが一つ。「こっちも寒い」とだけ返している誰かがいる。

ぼくは、画面の右上にある「フォローする」ボタンを見つめた。

押せば、真咲ちゃんのタイムラインに、ぼくのアカウント名が出る。中学時代のあだ名をそのまま使っている、ちょっと気恥ずかしい名前。

押さなければ、このまま「昔のクラスメイトの近況を、遠くから覗いているだけの人」でいられる。


コーヒーを一口飲む。舌に少しだけ苦さが残る。

胸の中にも同じくらいの苦さが生まれて、それがなかなか喉を通らない。

ラジオの中で、リスナーのメールが読まれている。

「恋人はいないけれど、恋愛ゲームがやめられません」というペンネームの男性。

セリフだけなら、自分が送ったメールみたいだ。ぼくは送ったことがないから、どこかに似たような人がいるのだろう。


パーソナリティが笑いながら答える。

「画面の中の恋もいいけどね。たまには“現実の誰か”と一緒にご飯食べるのも悪くないですよ」

悪くない、か。


ぼくは、「悪くない」どころか、それを願っている側の人間だと思う。

それでも、実際に誰かとご飯を食べるときの気まずさとか、失敗した会話のことを想像すると、画面の向こうに逃げたくなる。


スマホの画面に戻る。

フォローボタンの下に、「メッセージ」のアイコンが小さく並んでいる。押せば、 DMの画面が開くだろう。

──もしも。

頭の中に、蔵の缶の文字がよぎる。

ばあちゃんのスクラップ帳の、一文が重なる。


「選ぶのは、わたしだ」

ばあちゃんは、自分の「もしも」を見て、今の毎日を選んだ。

ぼくはまだ、「もしも」を見ていない。缶も東京にはない。それでも、「選ぶ」の順番だけは、いつか回ってくる。


「……今じゃなくていいか」

小さくつぶやいて、スマホの画面をいったん消した。

フォローも、メッセージも、今日はまだしない。

その代わり、アカウント名を頭の中で一度だけ繰り返す。

中学のころ、教室で何度も聞いた真咲ちゃんの名前と、画面の中の名前が、ぴたりと重なる。


ノートパソコンの画面に目を移す。

ラジオは、別のリスナーの悩みに答えている。

「自分の“好き”を、誰かに伝えるのが怖いです。否定されたらと思うと、口を開けません」

それに対して、パーソナリティはいつもの口調で言う。

「否定する人も、残念ながらいます。でもね、“好き”を見せたときに、“それいいね”って言ってくれる人も、ちゃんといるんですよ」

部屋の中には、ぼくしかいない。


でも、この声だけは、ちゃんと届くようにできている。

コーヒーを飲みきって、マグをキッチンに置く。フレンチプレスの中身を捨てて、水でゆすぐ。


ぼくの毎日は、だいたいこうやって閉じていく。

実家から持ち帰った紙袋を思い出して、棚の上を見る。レトルトカレーの箱がいくつか並んでいる。

「中辛」と「辛口」。地元の小さな店のロゴ。父さんが「お前カレー好きだろ」と笑っていた顔が浮かぶ。

「今度の休み、ひとつ食べるか」


カレーを食べたあとに飲むコーヒーは、いつもと違う味がする。スパイスで舌が少し麻痺しているところに、浅煎りの酸味を流し込むのが最近のマイブームだ。

ぼくの「好き」は、たぶんその程度のものだ。

カレーとコーヒーと、深夜ラジオと、恋愛ゲーム。

それが全部、「誰かと一緒に」になったらどうなるんだろう、という想像だけが、いつも頭の隅にある。


ベッドの横の棚に、ばあちゃんのスクラップ帳を立てかけてある。表紙に自分で書いた「ばあちゃんの “もしも” スクラップ」の文字が、部屋の薄い灯りの中でぼんやり浮かんでいる。

ばあちゃんは、フィルムの「もしも」を一度だけ見て、それでも今の毎日を選んだ。


ぼくがもし、真咲ちゃんと再び会う未来を選んだら、それは「もしも」じゃなくて、「これから」になるのかもしれない。

布団に潜り込む前に、もう一度だけスマホを手に取る。

通知は来ていない。真咲ちゃんのアイコンも、タイムラインの下のほうに沈んでいる。


画面を見ながら、親指をフォローボタンの位置まで滑らせる。

触れる直前で、指を止める。

押すか、押さないか。

たった一秒で決められることなのに、その一秒を伸ばすみたいに、ぼくはゆっくり息を吐いた。


「……今日は、見つけただけで十分」

強がり半分、本音半分でそう決める。

画面を閉じて、電気を消す。部屋が暗くなって、ラジオの音だけが残る。

パーソナリティが、軽い声で言う。


「“いつか連絡してみようかな”って思ってる人がいるそこのあなた。

 その“いつか”って、だいたい、自分で決めない限り来ないんですよ」

ラジオ越しに説教されながら、ぼくは布団を頭まで引き上げる。

いつか。


「いつか」を「今日」に変えるときが来るのかどうか、まだわからない。

でも、蔵で見た光と、ばあちゃんの「今の毎日をなくしたくない」という言葉と、画面の中の真咲ちゃんの猫の写真が、どこかで細くつながっている気はした。

目を閉じると、深煎りのコーヒーの香りと、真咲ちゃんのプロフィールの小さなアイコンが、暗い視界の中にじわっと浮かび上がってきた。

その夜、ぼくはフォローボタンに触れないまま眠った。

でも、「押せる場所にある」ということだけは、ちゃんと覚えたまま、目を閉じた。


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