のっぺらぼう
のっぺらぼう。顔の無い妖怪である。
言い伝えには、夜、道端でうずくまっている女に声をかけると、振り返った頭部に顔がない。驚いた男は一目散に逃げる。
逃げた先に出ていた蕎麦の屋台に駆け込み、店主に先ほど見た光景を興奮気味に伝えると、「それは、こんな顔でしたか」と、顔の無い顔を見せてくるという。
これはお話としてよく出来ているが、実際江戸の町は、こういった怪談が多く残っている。今よりも夜の闇が深く、しんと静まり返る静寂が耳に痛い時代だ。
ある夜、侍が道を歩いているところ、往来にうずくまっている女を見つけた。はて、具合でも悪いのかと心配し、声をかける。
「どうした、そこの女。急病か。それなら、知り合いの医者を呼んでくるぞ」
女はそのままで、ただ首を振るのみ。
「喋れないほど苦しいのか。これはいかんな。医者を呼んでくる。しばしそこで待っておれ」
そう言われ、やっと女は振り返る。そこにあったのは、顔のまったく無い、異形の存在であった。
声の出ないほどに驚いた侍だが、その異形が三味線を持っていることに気付く。
「お前は三味線をやるのか」
尋ねると、異形はこくりと頷く。実はこの侍、三味線や舞踊、芝居など、芸事がめっぽう好きであった。恐怖などどこかへ吹き飛び、ぜひ一度聴かせてくれやしないかと頼み込む。
異形はうろたえながらも、侍の望み通り、『すががき』を弾いてやった。神妙な顔で頷く侍。基礎はしっかりしているし、なによりも、弾く姿に華がある。これは磨けば光るかもしれない。
「どうだ。俺の知り合いで、芸事に長けたものがいる。今は弟子はいないが、なかなかの腕前だ。その男に師事し、技を磨いてみないか」
異形は少し考えた末、恥ずかしそうにこくり、と頷いた。
「ようし。そうとなっては善は急げだ。今から行こう。なに、夜? 関係あるものか。やらなくてはいけないことに、理由をつけて先延ばしにしているとバチがあたるというものだ」
それから彼女の、三味線修行が始まった。最初は驚き腰が引けていた師匠も、彼女の腕前に惚れ込み、親身になって、ときに厳しく、ときに優しく教えた。
一ヶ月ほど経ったころ、侍が様子を見に来る。
「どうだ。あの女は上達したか」
「もともと演奏は上手いし、そのうえ勉強熱心でさぁ。遊郭のお座敷どころか、あの子ひとりで舞台を張れる。それどころか天下の人気者になれるはずだ。才能が違う」
師匠は嬉しそうに答える。
「あの子を売れさせなきゃ、合わせる顔がねぇや」