Case.1 見えざる痴漢事件 3
「あら……どちら様?」
答えの分かり切った質問を、わざとらしく投げ掛ける琴星。
「そっ、その右手を返せ!」
裏返った声でそう叫ぶ男には、右腕の手首から先が存在していなかった。
「あら、この右手はあなたのものでしたの?ということは……あなたが見えざる痴漢の正体ですね?」
「うっ、うるさい!」
男が左手を前に突き出すと、その手には包丁が握られていた。
「いいからさっさと右手を返せ!さもないと……!」
「まあ、包丁だなんて……道人」
「はい」
包丁の切っ先から琴星を守るように、道人が1歩前に進み出る。
同時に道人が佐野の姿から元の青年の姿に戻ると、男は面食らった様子で仰け反った。
「なっ、何なんだお前……!?」
「馬鹿なことは止めろ、包丁なんて無暗に持ち出すものじゃない」
「うっ、うるさい!!うわあああっ!!」
男は自棄を起こしたように、包丁を振り上げながら不格好に突進してくる。
「止めろと言っただろ」
「うがっ!?」
しかし次の瞬間には、男は道人によって地面に押さえつけられていた。
道人が蹴り飛ばした包丁を、琴星が拾い上げる。
「さて……この道を通りかかる大学生の女性に痴漢行為を働いていたのは、あなたで間違いありませんね?」
道人に腕を捻り上げられて脂汗を書いている男は、琴星の質問に視線を逸らした。
そのあからさまな態度は、自分には疚しいことがあると喧伝しているも同然だ。
「もう1度お尋ねします。この道で痴漢行為を働いていたのは、あなたで間違いありませんね?」
「そっ……そんな証拠がどこにある!?」
男は琴星から視線を逸らしたまま、金切り声で反論する。
「俺が痴漢をしているところを誰か見たのか!?俺がやったっていう証言でもあるのか!?」
「……確かにあなたがやったという証拠はどこにもありません。切り離した右腕を遠隔操作して痴漢を働くという犯行を、法に則って立証することは不可能と言ってもいいでしょう」
「そっ、その通りだ!」
道人や琴星、それからこの男のような特殊な能力を持つ者の存在は、公には認められていない。故に特殊な能力を用いて罪を犯したこの男に、司法の下で裁きを下すことは不可能だ。
男もそれが分かっているからこそ、取り押さえられて尚強気な態度を崩していないのだ。
「おいお前、分かったらさっさと右手を返せ!それから早く俺を解放しろ!今のお前がやってることは暴行罪だぞ!」
男は自らを押さえつけている道人に対し、逆に暴行罪をちらつかせて脅迫する。痴漢行為を働いた上、包丁を持ち出して道人を襲っておきながら、何とも身勝手な言い分である。
だがこの現場を警察に見られた場合、罪に問われるのが道人の方であるのもまた事実だ。
「道人。右手を彼に返してあげて」
「いいんですか?」
「ええ」
道人が右手を解放すると、右手は独りでに空中を移動し、男の右手にくっついた。
「そうだ、それでいいんだ!」
男はだらだらと脂汗を流しながらも、右手が返ってきたことにニヤリと笑みを浮かべる。
しかし道人が男を組み伏せたまま動かないでいると、すぐにまた表情を歪めた。
「何をやってるんだ、早く俺の上から退け!暴行罪で捕まりたいのか!?」
「……あなたは何か勘違いをしているようですね」
琴星が一見優しげな微笑みを浮かべながら、言い聞かせるような口調で男に話しかける。
「私達は初めから、あなたを警察に突き出すつもりはありません。あなたが罪に問われることが無いのは分かり切っていることですから」
「何……!?」
「特殊な能力を用いた犯罪には、警察では対処することができない。特殊な能力を持つ者は、法の裁きを受けないのをいいことに、時として我儘な王様のように好き勝手に振る舞います。そしてそんな彼らに対し、正当な裁きを下す手段は存在しない……」
琴星は鋭い犬歯を覗かせ、まるで悪魔のように悪辣に笑う。
「ですから私達は、我儘な王様に対して不当な裁きを下すのです。彼らが特殊な能力を持つが故に裁かれることが無いように、私達の私刑もまた誰にも裁くことはできない……」
「ひ、ひっ……!」
琴星の言葉の意味、そして自らに待ち受ける末路を想像したのか、男の喉から引き攣るような悲鳴が漏れる。
そんな男の視界を覆い隠すように、琴星は右手で男の頭を掴んだ。
「さあ……私刑の時間です」
「うっ……うわああああああっ!?」
瞬間、男がまるで激しい拷問を受けているかのような絶叫を上げる。
「あらあら、大袈裟ですね。痛みはないでしょうに」
「やめろっ、やめろぉっ!?何をしてるっ!?やめろっ、盗るな、盗るなぁぁぁっ!?」
盗るな、と。男は狂ったように何度も繰り返し叫ぶ。
琴星は薄く笑顔を浮かべたまま男の頭に触れ続け、10秒ほどで手を離した。
「はい、これでひとまず終わりです。言われずとも分かっていると思いますが、あなたの記憶をいくつか奪わせていただきました。具体的には、あなたが痴漢行為を働いた際の感触などの記憶ですね」
「ああ……ああ……」
男は魂の抜けたような表情で、言葉にならない呻き声を漏らしている。
男の脳内からは、痴漢行為の経験の記憶、具体的には被害者の体の感触などの記憶が、綺麗さっぱり消え去っていた。
残っているのは「自分は痴漢行為を働いた」という漠然とした事実の記憶だけだ。
「道人、この男は私達の想像以上に悪質です。これまでに働いた痴漢行為の回数は100や200ではありませんし、佐野さん以外にも複数の女性を毒牙にかけています」
「そんなに……相当な下種野郎ですね」
琴星からの報告に、道人は汚いものでも見るかのように顔を顰めた。
「自宅の前の道を2階の部屋の窓から監視し、好みの女性が通りかかると能力を使って後ろから体に触れる、というのが主な手口だったようですね。ですが、それももう不可能です」
未だに呻き声を上げている男に、琴星は冷たい視線を落とす。
「痴漢行為の記憶と共に、右手を切り離して遠隔操作する能力の記憶も奪わせていただきました。これであなたはもう2度と能力を使うことはできません」
「返せ……俺の記憶を返せよぉ……」
「それは無理なご相談です」
男は涙まで流して哀願するが、琴星はそれをにべもなく斬り捨てる。
すると男は今度はぎゅっと固く目を瞑ってうんうんと唸り始めた。失われた記憶を必死に取り戻そうとしているのだ。
「無駄ですよ。あなたが呼び起こそうとしている記憶は、既にあなたの脳の中にはありませんから」
琴星が男から記憶を「消した」のだとすれば、男が再び記憶を取り戻す可能性はゼロではない。
しかし琴星は男から記憶を「奪った」のだ。男が取り戻そうとしている記憶は、既に琴星の手の中にあり、男の頭の中には存在しない。
そして存在しない記憶を思い出すことは不可能なのだ。男はもう2度と、右手を切り離して遠隔操作する能力を使うことはできない。
「うう……ふざけるなよ……返せ……返せよぉ……」
「さて、では私刑の続きをしましょう」
琴星のその言葉に、男は信じられないと言いたげに顔を上げる。
「あら?まさか私の私刑が記憶を奪うだけだと思いました?ふふっ、そんな訳はないではありませんか」
琴星は笑いながら、再び男の頭に手を触れる。
「あなたには、もう2度と悪事を働くことなど考えられなくなるような、飛び切りの恐怖をプレゼントします」
「ひっ……ぎゃああああああああああっ!?」
喉が張り裂けるような絶叫は一瞬のこと。男は程なくして口から泡を噴きながら気を失った。
「右手を切り離して動かせる男の人が……?右手だけで私を痴漢してた……?ええ……?」
翌日。琴星からの連絡を受けて再び事務所にやってきた佐野は、報告書を読んで首を傾げた。
「あの……これ、ホントなんですか?」
「ええ、本当ですよ。宜しければ証拠の映像もご覧になりますか?」
琴星はスマートフォンで撮影した、右手が独りでに動く様子を佐野に見せる。
「信じていただけました?」
「……これ、フェイク動画とかじゃないですよね?」
「ええ。わざわざフェイク動画を作成してまでこのような嘘を吐くメリットは、私達にはありませんから」
「ですよね~……う~ん」
佐野は報告書の内容に納得はできていない様子だったが、それでも一応は調査結果を受け入れた。
「痴漢行為を働いていた男は、これ以上の犯行が不可能な状態にあります。今後佐野さんが同様の被害に遭われることは無いでしょう」
「あ、ありがとうございました。それで、その……依頼料はおいくらですか?」
佐野が不安げに尋ねる。
「道人、ご説明して差し上げて」
「はい。今回の調査に要した日数は1日で、特別な経費も掛かりませんでしたので、最低料金のみをお支払いいただく形となります。佐野さんの場合は学割が使えますので、お会計はちょうど1000円ですね」
「えっ、そんなに安いんですか!?」
「ええ。ですから佐野さん、また何かお困りごとがありましたら、その時は是非姫宮最強探偵事務所をご利用ください」
無理矢理宣伝をねじ込む琴星。実にちゃっかりしている。
佐野は財布から千円札を1枚取り出し、それをそのまま道人に支払った。
「じゃあ、お世話になりました」
「ああ、佐野さん」
事務所を出ようとした佐野の背中を琴星が呼び止める。
「最後に1つだけ。佐野さん、この春から一人暮らしを始めたと仰っていましたね」
「えっ?はい、そうです。地元から引っ越してきたばっかりで」
「では覚えておいてください。今回佐野さんが巻き込まれた見えざる痴漢事件のような、普通では考えられないような『異常』は、この時生市では当たり前に起こります。そしてその『異常』は時として、人の命を容易く奪い去るのです。この街で暮らしていくのなら、努々油断なさらないよう」
「わ……分かりました」
琴星が語った内容を、佐野はあまり理解できていない。
しかし琴星が放つ異様な雰囲気に呑まれ、佐野は何度も頷いた。
「では道中お気をつけてお帰りくださいね」
「は、はいっ。ありがとうございました」
佐野はもう1度深く頭を下げると、今度こそ事務所を後にした。
「所長……」
佐野の背中を見送った琴星に、道人が背後から近付く。
「何で最後にちょっとカッコつけたんですか?」
「いいではないですか、最後くらい少し格好つけたって」
道人の意地の悪い質問に、琴星は唇を尖らせる。
「それに多少は格好つけましたが、あれはこの街に来たばかりの佐野さんには伝えるべきことでした」
琴星は窓の側に移動し、下の道を歩く佐野の姿を見下ろす。
「他の街にとっての非日常は、この街では日常なのですから」