岸田ブラックホール
度重なる加速により、ついに検討は物理法則上の限界速度である光速に到達した。相対性理論に基づき無限の質量を得た岸田文雄(65)は極小ブラックホールと化し、東京を中心に地球は岸田へと崩落していった。太陽を周る大小様々な8つの惑星のうちの1つが、およそ2センチメートル弱の漆黒の球体へと変わり果ててしまった。
かつて4748回目の検討加速宣言を受けて危機感を抱いたYATO(Yellowbelly’s Abomination Treaty Organization)は地球脱出船を急ピッチで製造し、辛くも数百人規模の政治家集団を岸田ブラックホールから逃すことに成功していた。
脱出に成功した者達が安堵したのも束の間、彼らは次なる試練に直面していた。フェミニズム的視点を重視した設計者の粋な計らにより女性だけの街で建造された地球脱出船・夜逃廉号は、エンジニアの不足を補うために能力不問で女性を造船へ従事させた結果、著しい品質の低下を招いていた。今にも空宙分解しそうな夜逃廉号を前に、彼らは問題の早急なる解決に迫られていた。
すなわち、地球の修復である。
ブリッジに集まった船員達は、夜逃廉号に搭載されたAI・不学が示す方向を静かに見つめる。故郷である青い惑星が確かにあるはずのその方向には、彼らの未来を暗示するかのような暗闇が広がっていた。
「どうしてこんなことに……」
那津王が鼻を啜る音がブリッジに響く。しかし周囲が彼に向ける視線は冷たかった。
「どうしてってねアナタ、岸田総理の検討を最も止めやすい位置にいたアナタがそれ、言いますかアナタ」
怒気も顕にそう告げたのはCだ。革命のために古くから温めてきた私兵を流用して夜逃廉号を実施的に支配しているCは、閉鎖環境での必要を理由に時代遅れの社会主義制度を敷いて船員達を掌握している。老いたと言えども、かつて学生運動で暴れまわった歴戦の猛者達の鋭い眼光を前に、国会で寝ていただけの政治家連中が抵抗できるはずもなかった。
「今こそ統括が、必要かもしれませんねぇ」
「な、何を言うんですかCさん! 私が信者から集めた莫大な献金があってこそ、この夜逃廉号が完成したようなものじゃないですか! ここに来てそんな仕打ちはあんまりだ!」
「そうか。そう言われれば、そうですねぇ」
愉しそうに笑うCに、周囲で傍観していた船員達は恐怖を覚えた。この危機的状況下で他人を無意味に批判して悦に浸るとは――骨身に染みた習慣は宇宙空間でも変わらないらしい。
『皆さん、今は、内輪で、揉めている、場合、では、ありません。私達の、日本を、取り戻す。今は、それが、一番重要、だと、私は、確信するばかり、であります。まずは、是々非々で、議論しようじゃ、ありませんか』
不学の機械音声が、船員達に進むべき道を啓示する。長らく真なるリーダーの不在だった日本において、烏合の衆である政治家集団が明確な目的を掲げてそれに取り組むことは不可能に近いと考えられた。不学は、そういった不甲斐ない者たちを正しい目標に導くために、地球修復と船員の教導を任務としてプログラムされていた。
「あの、ちょっと疑問なんですが」
集団の中から控えめに挙がった手を中心に、その人物を取り巻く人々が距離を――ぴったり2メートル――空けた。ソーシャルディスタンスは宇宙空間でも普遍の礼儀であることを、彼を見た人々は思い出したのだ。
「クロン会長、なにか」
Cの態度は不遜そのものだが、政治家受けの良いクロン会長はそれを意に介さず、ニコニコと柔和な笑みで続けた。
「岸田さんがブラックホールと化した、これは観測結果からも事実でしょう。ですが、一体なぜ岸田さんはブラックホールになったのか? 私の考えるところ、どうも辻褄が合わないのです」
「なぜってそりゃ、加速したからだろう。光の速度まで」
誰かが発した合いの手に、クロン会長はうんうんと頷く。
「そうです。岸田さんは検討を加速するあまり光の速度に達した。――しかし、皆さんに問いたい。岸田さんが、実際に動いている姿を、見たことのある方はいますか?」
クロン会長のその問いかけは、水面に落ちた石ころが作り出した波紋のように、船員達の間にざわめきを呼び起こした。彼らの脳裏に、在りし日の岸田総理の姿が浮かんだ。光速などという圧倒的な速度とは正反対、むしろ絶対零度に匹敵する極限の静止状態こそが、この場の全員が共有する岸田総理像に相応しかった。
「全くおかしいのです。理屈に合わない。なぜ、物理空間に物体として存在している岸田さんが全く動いていないのに、彼はブラックホールになるほど加速したのでしょうか?」
「ブラックホールになったのは岸田じゃないってこと?」
政治家が多数を占める船員の中で、唯一乗船していたジャーナリスト、西村岳がカメラのフラッシュを焚きながら問うた。
「いえ、この指数関数グラフを見てください。岸田さんの検討加速宣言と東京都の重力場の増加は完全に比例しており、第342589波で数字は無限大へと発散しています。岸田さんの検討の加速がブラックホール化の原因であることと、岸田さんがブラックホール化したことは、間違いないと見ていいでしょう」
「岸田総理がブラックホールになったのは、岸田総理がブラックホールになった原因だったからということですね」
クロン会長の解説を横で見ていた退次郎が我が物顔で要約したが、誰もそれには反応しなかった。
「クロン会長、まどろっこしい話はやめましょう。1か0か。端的にわかりやすく、ビシッと言ってくれないと、国民――いや、民衆は付いて来てくれませんよ」
Cにも、今は亡き日本国民のことを慮る気持ちがあったのだろう。慌てて訂正したが、しかし、彼の周りに群がる獣はただの獣ではない。相手の一挙手一投足を見逃さんと目を見開き、しくじればピラニアの如く執拗に噛みつく一級のプレデターが、この場には大勢いる。やはりと言うべきか、Cの失言を彼らは決して逃しはしなかった。
「Cさん、さきほど国民とおっしゃいましたが、あなたは今の日本国民の状況がわかっているのでしょうか?」
「とても一党の主とは思えない、配慮に欠けた発言ですね」
「遺憾のイを表明します」
かつて漢字の読み間違いで失脚した間抜けな政治家のことはもちろん覚えている。だが、地球での政治活動においてCにその心配は無用であった。政策を一切顧みない支持勢力を大量に抱えていた彼にとっては、イデオロギーこそが唯一絶対にして護るべき誓約であって、その他の些事について配慮する必要はなかった。ゆえに、その気の緩みがさきほどの失言を引き起こしてしまったのだ。
『計算が、完了、しました。岸田総理の、政策、とりわけ、検討の加速について――』
絶望的な状況に陥ったCに手を差し伸べたのは、どこか懐かしい仇敵を思わせる不学の声であった。
「あ……不学、計算とはなんのことですか?」
額を流れる汗を拭いながら、藁にもすがる思いでCは言った。
『岸田総理の、物理的実体が、地球の、慣性系において、不動であるとき、岸田総理を、ブラックホール化させる、方法の、計算で、あります』
「そんなことが可能なのですか?」
『可能で、あります。岸田総理の、検討の、加速は、より低次元に、おける、加速を、意味していた、可能性が、あります』
不学の説明の内容を完全に理解した者は少なかったが、どことなく腑に落ちた顔をする者は多かった。発言の一部を切り取ってわかった気になるのは、彼らの得意とすることろだった。
『すなわち、二次元空間に、おける、検討の、加速。これこそが、岸田総理の、ブラックホール化の、原因、であり、唯一の、方法、であると、私は、確信する、ばかり、であります』
不学の声には、本来存在しないはずの自信が確かに宿っていた。
「二次元じゃダメなんですか?」
完全にオフの気分でいる舫々が茶化したが、その声は人々のざわめきにかき消されて事なきを得る。
「そうか……紙ベースでの検討の加速が、三次元空間を置き去りにした二次元空間のブラックホール化を招いたということか……」
「クロン会長! わかりやすくお願いします!」
顔を上げたクロン会長の瞳には光が灯っていた。希望を見た人間のそれだった。あるいは、古くから培ってきた人類の知性――その一端が煌めいたか。
「端的に、そう、端的に言うなら……」
ブリッジには、当初存在していた静寂が戻っていた。
「戻せます、地球」
+
青い星が人々の目に反射し、いくつもの小さな地球が宇宙空間に生まれた。
地球復活までの道のりは長く険しかった。二次元空間で加速した検討に追いつくための唯一の方法は、三次元空間での加速――つまり、行動だったのだ。
政治家達はまず、不学のアドバイスを受けながらいくつかの公約を掲げた。今までは何の意味もなかったその誓いを、彼らは死にもの狂いで実現した。暗黒の宇宙が変わらずそこに居続けたとしても、彼らは諦めなかった。より良い政策、より良い改革、ありとあらゆる無駄と腐敗を断ち切り、滅私奉公の精神の下、かつての、そして未来の日本国民のために、彼らは働いた。
彼らの偽らざる想い――日本を、取り戻す!
その想いは虚無の宇宙空間を伝播し、五世紀もの時を経て、二次元空間で加速し続ける岸田総理の元へと届いた。
「ようやく、たどり着きましたか」
ブラックホール化し、かつての姿を失った岸田総理が、敵を一切作らない笑顔を観念的に空間へ投影した。
「総理は、このために……?」
真の意味で一致団結した夜逃廉号の船員達は、一つの集団的知性へと進化していた。この問いが誰から発せられたものなのか彼らはわからなかったが、これが彼らの問いであることは間違いなかった。
岸田総理は、ゆっくりと頷いた。
「私一人の力では、日本を変えることはできません。私の加速に付いてこれる政治家が、残念ながら今までの日本にはいなかった。危機感を持ってもらう必要があったのです。この美しい日本を守るためには、全ての政治家の協力が必要不可欠だと、知ってもらう必要があったのです」
遥か彼方にあるはずの地球から、一億の声が聞こえてきた。地球を救った英雄達を称える声。
船員達の心に、熱いものが溢れた。
そうだ……忘れていた。大切なもの。何かを成し遂げる喜び、誰かの為に尽くす喜び、そして、自分達を応援してくれる人々の声と、その暖かさ……。断じて、断じて……忘れてはいけなかった。金や権力などという、造られた力に惑わされ、見失っていた。人間が生まれながらに持っているこのエネルギーこそ、何物にも代え難い宇宙の真理だ。
「皆さん、お疲れ様でした。皆さんの行動の加速により、日本は生まれ変わりました。これからは、健全なシステムと偉大なる先達の意志が、後に続く世代を導くでしょう」
「総理……」
ブラックホール化が解かれ、岸田総理の肉体を構成していた物質が分離を始めた。長きに渡るブラックホール化は強靭なる総理の体を圧縮し続け、分子間の結合をも砕いてしまっていたのだ。
そして、それは総理だけではなかった。目的を果たした夜逃連号の集団的知性は、その思考をあらゆる方向に分散させ、彼らを統合していたニューラルネットワークの崩壊を招いた。
穏やかな安らぎが英雄達を包み込み、その精神は黄昏の幻想の中に沈んでいった。
地球は青く、輝いていた。
+
『日本を、取り戻し、ました。そう、私の、手に』
完