終わりの始まり
暖かな春の日。
今日はきっと、素敵な一日になる。
「汚い手で触るなっ」
机に手を付き立ち上がろうとした夫がよろめいたので、条件反射でその体を支えただけだったのだが、返ってきたのは罵声と拒絶の態度だった。
「私はもう必要ありませんか?」
ゆっくりと訊く。
「は?必要だったことなんかあるか?今までも、これからも、お前は足手まといでしかない。邪魔者なんだよ」
「…そうですか。それは良かった」
ニッコリと微笑んだら、夫は困惑したようだった。
「お前…ついにアタマおかしくなったか!!やっぱりな」
どんな言葉も、もう気にならない。
今日はなんて晴れやかな日だ。
「こども達もみんな結婚して各々家庭ができましたし、もう私の役目は終わりましたよね。だからこれ、お願いします」
スイ、と緑色の枠の用紙とペンを差し出す。
薄い紙のそれには「離婚届」と書かれていた。
「私のところはもう記入済みなので、あなたの部分、お願いします」
「ハッ、熟年離婚とかいうヤツか。お前なんかここを出たら行くあてもないくせに。露頭に迷うのがオチだ。…いいぞ、書いてやる。後でやっぱり戻ってきたいと言っても絶対に家に上げないからな」
ニヤニヤしながら、自分の名前を書いていく。
こんな時にも、夫は自分が優位だと信じて疑わない。
「ほら、出来たぞ。あとは役所に持っていくだけだ。俺が持っていってやろうか?」
もしかしたら、夫はこの一連の流れをハッタリだと思っているのかもしれない。
本当に名前を書いたら、私が慌てふためくとでも思っているのかもしれない。
口元が緩むのを抑えられない。
なんて小さな奴だろう。
最後まで、器の小さな男だった。
もう二度と会うことはない、私にとってはもう過去の人間だ。
私は夫が差し出した用紙を丁寧にファイルに挟み、予め用意していた鞄に仕舞った。
「確かに受け取りました。役所には私が出しますので大丈夫です。…今まで、お世話になりました」
呆気にとられている様子の夫を尻目に、身を翻して玄関に向かう。
ああ、今日はなんて素敵な日だろう。
靴を履いてドアを開き一歩踏み出した瞬間、暖かな朝日に包まれた。
まるで私のこれからを祝福するように。