#02
それでも、「近付くのは危険」と自分自身に警告を与えるほど、無意識に高峯凛花に目が向いて観察を続けてしまった。知りたくないと思えば思うほど、純粋な好奇心でノートには『・』と『ー』が並んでいく。
――『センスの悪いネクタイですね』……、これは日本史の先生のことだな
――『ダイエットしないとふられますよ』……、友達と楽しそうに話してなかったか?
――『お腹空きました』……、授業中にこんなこと考えてたんだ
――『男子なんてチョロイものね』……、自分の代わりにプリントを運ばせた時だ
基本的には他愛無い悪口や感情だったが、こんなことを一ヶ月近く繰り返している内にモールス信号を変換表なしで解読できるようにまでなってしまった。
ノートに書き写さなくても、高峯凛花の指先の動きを見ているだけで理解出来てしまう。
――誰にも自慢出来ない特技になったかも……
誰にも言えるはずはない。やっていることは高峯凛花を盗み見ているだけで、彼女の秘密の独り言を聞いてしまっている。毎日、止めようと思いながらも指先の動きを目で追ってしまっていた。
そんなある日、授業中に高峯凛花の指先に集中してしまう。
――『トイレ行きたい』……、えっ?
この授業が始まる前の休み時間、高峯凛花が友達から質問されてしていたのを思い出した。数学の問題についての質問だったが、その解説に時間を奪われてしまいトイレに行く時間が取れなかったのだろう。
――『手を挙げるのは恥ずかしい』『トイレ行きたい』……、まただ。……まだ授業は始まったばかりだぞ
高峯凛花は、恥ずかしさで手を挙げることが出来ないでいた。友達に勉強を教えるために休み時間を犠牲にしてしまったことが原因である。
そんな様子を見ていて可哀想になった僕は一つの可能性を信じて手を挙げてしまった。
「……先生、ちょっと気分が悪いので保健室行っていいですか?」
少しだけ体調が悪い演技も加えて言ってみた。
前回、クラスの子が体調不良で保健室に行く時、委員長である高峯凛花が付き添いに指名されたことがあるのを思い出した。ただし、その時は女子だったので確率は五分五分。
「おっ、大丈夫か?……高峯、付き添ってやってくれないか?」
「えっ!?あっ、はい」
僕は賭けに勝てたようで、狙い通りに事が運んだ。高峯凛花を教室から出してあげることさえ出来れば良かった。
保健室に着くと保険医に心配されてしまい心が痛む。
「ゴメン。……ありがとう。……もう平気だから教室に戻って」
早くトイレに行きたいだろうと思って言葉を掛けてあげた。これで目的は果たせたことになるので僕としては満足している。
「……うん。……それじゃぁ、教室に戻ります」
保険医に挨拶をして高峯凛花が出ていった後は、ベッドで横になるだけだった。仮病は元気になるタイミングが難しく、次の時間も休んでから戻ることにした。
――これで教室に戻るまでにトイレに寄れるはず
世界史と現国の授業をサボることにはなったが、モールス信号を勝手に解読している罪滅ぼしにだと考えればいいと思っている。
――こんな変態チックなことは早く止めないと
別に覗いているわけではないが、知られたくない部分を知ってしまっている罪悪感があった。
「さっきは、ありがとう」
「もう大丈夫ですか?……無理したらダメですよ」
「あ、ありがとう。授業中に付き添わせてゴメン。……もう平気だから」
教室に戻って席に座っていた高峯凛花にお礼を言うと、心配そうな表情を浮かべて優しい言葉を掛けてくれた。ただ、机の上で動いている指先からは別の声が聞こえてくる。
――『テストで体調崩してほしいな』……、本心ではそう思ってるんだ
女が怖いのか、高峯凛花が怖いのか。このままでは女性に不信感を抱いてしまいそうだった。それと同時に僕の変な性癖が目覚めてしまわないか心配になる。
周囲からは高峯凛花に心配されている姿を羨ましがられていた。これから同じ手口を使う輩が増えてしまえば、かえって迷惑を掛けることになりかねない。そんな時、高峯凛花の指先がどんな動きを見せるかも気になってしまう。
だが、そんな不安を他所にして平和な日々が過ぎていった。高峯凛花の指先は時々動いているが、軽い悪口や文句くらいでしかない。
そして一週間が過ぎ、世界史の授業中に高峯凛花の指先が動き始める。ゆっくりとした動きで、いつもより少し長く動いていた。
――『漢字テスト面倒くさい』……、えっ?次の現国で漢字テストあるのか?
先週、サボって保健室で寝ていた時に連絡されていたらしく、僕は漢字テストの存在を知らなかった。
――マジか……。全然、勉強してなかった
それでも授業中に行う小テストなので最低限の確認で十分だと考えた。
休み時間に教科書を見ながら確認だけしていると、同じクラスの友達が声を掛けてきた。
「お前、何してるの?……漢字テストは来週だろ?」
「えっ?そうなの?」
ここで気付いて上手く誤魔化すべきだった。
完璧に予習しているはずの高峯凛花が漢字テストくらいのことで指先が動くはずない。いつも悪口や文句ばかりだったことを思い出せば良かったのだが、モールス信号に慣れ過ぎてしまって内容まで気が回っていなかった。
女友達と話している高峯凛花が横目で僕を見ているような気がした。
高峯凛花を甘く見過ぎていた。『トイレ行きたい』を読み取られてしまったと考えて、僕のことを疑っていたのかもしれない。
「いや。……そんなことは知ってるけど、先にやっておいたっていいだろ?」
これが精一杯だった。自分でも苦しい言い訳だと分かっていても、言わずにはいられない。
そして、現国の授業中に高峯凛花の指先が動いたので、恐る恐る解読してみた。
――『来週だったのか』……、って。……あれ?本当に勘違いしてただけ?
希望の光が差し込んできたような感じが油断は禁物。その後も、
――『分かり難い説明』……、先生に文句言ってるだけか
完璧な高峯凛花が僕にバレていることを知ったまま、モールス信号を使って文句を言うとは考え難かった。
――『お菓子食べたい』……、友達との話に集中してないな
こんな状況が続いたので漢字テストの件は単なる勘違いだと分かったが、あの時に感じた恐怖は忘れられない。
――さすがに、あの一度だけで僕を疑うなんてことはないか……
やはり他人の裏の声を聞くのは良くないことで、本当にボロが出て気付かれてしまう前に止めることが得策だった。高峯凛花から白い目で見られるのは耐えられそうもない。
こんな事をしていた影響で、期末テストの順位は高峯凛花に負けてしまった。
――まぁ、わざと負けたわけじゃないけど、結果的には良かったかも
それほど順位には拘っていない僕は、2位でも十分過ぎるほどに満足していた。周囲も一番上に高峯凛花の名前があることに納得している。
テストも終わり夏休みを待つばかりの中、ある情報が飛び込んでくる。
「高峯さんの家の和菓子屋が夏休みでバイトを募集してるんだけど、学校のヤツも何人か面接受けてるみたい。……でも、誰も採用されないんだって」
「へぇ、条件が厳しいのかな?」
興味がなかった僕は軽く聞き流してしまった。他の皆のように夏休み中も高峯凛花の近くにいたいと願う気持ちはなく、僕はモールス信号と離れられる夏休みを心待ちにしていた。
文化祭実行委員に推薦されてしまっていた僕は放課後の会議に参加することになった。
夏休みの期間も使って準備を進めるらしく、そのための注意事項を確認するための会議だったが思ったよりも遅くまで拘束された。
「……あれ?……まだ誰か残ってる」
教室にカバンを取りに戻った僕は教室の中にある人影に気付いて、それが高峯凛花だと分かった。
「あっ、文化祭の会議終わったんですか?」
「うん。今終わったんだけど、……高峯さんは何してるの?」
「夏休みで使う課題のプリントをまとめる手伝いをさせられてたんです。先生に捕まっちゃって」
可愛らしく微笑む姿を見ていると、いつも指先が発している言葉が信じられなくなってしまう。間違いなく文章に変換出来てしまうモールス信号も、自分の解読が誤っている可能性を考えたくなっていた。
「……あっ、それなら手伝うよ」
「本当ですか?まとめる作業は終わったので、先生のところに持っていきたいんですが重くって……」
「いいよ。僕が持ってくから」
以前、『男子なんてチョロイ』と指先が語っていたのを思い出したが、だからと言って無視することなど出来るはずもない。
僕は少しだけ暗くなった教室で、机に載っている紙の束に向かって歩いていた。
だが、机まであと二、三歩のところで何かに躓いてしまう。『ガンッ!』と大きな音と共にバランスを崩した僕は、あろう事か高峯凛花に倒れかかってしまったのだ。
完全に倒れるまではいかなかったので、高峯凛花と一緒に倒れ込む惨事は避けられた。避けられてはいたが受け止められた体勢が最悪だった。
僕が高峯凛花に覆いかぶさるように倒れており、彼女に抱きついてしまっていた。ある意味で大惨事になってしまっている。
「ゴメン!大丈夫だった!?……本当にゴメン」
慌てて体勢を立て直し、高峯凛花に謝罪した。事故であったとしても女の子に抱きついてしまった衝撃は大きかったし、相手が高峯凛花であれば尚更だ。
「ううん。大丈夫ですよ。……夏目君は平気ですか?」
「……あぁ、本当にゴメン。何かに躓いたみたいで。……ゴメン。……そのプリントを運べばいいの?」
「そんな何度も謝らなくても大丈夫ですよ。……でも、運ぶのは少し待っていてくださいね」
そう言うと高峯凛花は教室の前に歩き始めて、黒板に立て掛けてあったスマホを手に取った。
――えっ?……なんでスマホが黒板に立て掛けてあるんだ?
不自然な場所にあるスマホも気になったが、足元を見て何に躓いたかを確認した僕は少しだけ怖くなる。机の脚のところに紐が渡してあり、躓くようにしてあったのだ。
――それで大きな音がしたんだ。……これって転ばせるように仕掛けてあったのか?
不自然な状況が発見しても、そんなことをする理由が分からない。もし誰かが仕掛けたとすれば、高峯凛花以外には考えられなかった。
そして、その高峯凛花は黒板の前でスマホを確認している。