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89、手を胸に当てて


 残念ながら、フィリップはクララに勝てない。

 どれだけ惜しくとも、ロウの翼が太陽に届かないように、クララという人外の領域に足を踏み込む事は決してない。

 それは個人の才能どうこうではなく、理の話だ。

 本当に残念で悲しい話だ。


 まあ確かにフィリップは強い。

 フィリップを主人公にした何かの物語があるのなら、きっと彼は誰にでも優しく、強く負けない人間として書かれることだろう。そうされるだけの要素は、本当に探せばいくらでもある。

 フィリップは立派な人間だ。

 人間らしく誇りを持ち、人間らしく理不尽に足掻き、人間らしい強さを有している。そしてそれは尊く、金剛石のように砕ける事はない。

 フィリップは強いのだ。

 誰が何を言っても、この事実は変わらない。

 

 しかし、強いのは人間としての範疇の話。

 一部の本物の化け物については、悲しいことにフィリップの敵う範囲ではなかった。



「ゴああああああ!」



 クララのスピードはどんどん上がる。

 その死にかけの体を無理矢理引きずりながら、血肉を散らして走り回る。

 これまでと速さもパワーも変わらない。

 そのボロボロの体でどうやって力を維持しているのか、見る者からすれば疑問でしかないだろう。

 

 だが、そこには確かな理がある。

 

 こぼれ落ちる肉体だが、落ちる肉の量に関わらず、クララの体は未だに真っ赤のまま変わらない。もう既に骨の白色が見えてもおかしくはないというのに、だ。

 神聖術がちゃんと効いている証拠だった。

 クララは体を動かすのに必要な筋肉と骨を見極めて、そこだけを治している。皮膚も筋肉も溶けている、悍ましいゾンビのように見えるが、それは表面だけの話だ。実際のところ、体の奥底はかかり続ける神聖術によって万全の状態を維持されている。

 数十という神聖術をかけながら、万全を維持して戦っているのだ。フィリップの事で忘れそうになるが、クララも技という面ならそんじょそこらの人間には絶対に負けないほどに高まっている。

 だから、そんな彼女の特攻を、フィリップはいなし切る事が出来ずにいた。

 

 

「く、うぅぅ!」



 何よりも毒が厄介すぎる。

 あらゆる物に侵食するそれから身を守るために意識を割かなければならない。薄く毒を防ぐ結界をはる程度。だが、クララとの戦いにおいてその隙は致命的だ。

 クララの踏み込みは、大地を叩き割る。そして、ついでに飛び散った脚の破片が辺りに滲みて侵されていく。

 まさに生きる厄災だった。

 ただそう在るだけで、クララは世界を壊すのだ。



「ボグがら、逃げらるとでも!?」



 血の涙を流しながら、クララは戦った。

 咆哮と共に、喉の肉と血が飛び散る。

 グロテスク極まりない姿を見せながら、クララはあちこちに飛び回った。

 白い雪に紛れて、赤い雨を振らせていく。

 ありったけの呪いをフィリップにぶつける。



「ごろず!」



 クララは戦う。

 ただ、一人を殺すために死にかける。

 何よりも恐れる死に対して、自ら近づくクララの殺意の深さが分かる。

 クララは不必要なほどに荒ぶっていた。

 

 剥き出しの神経に雪が触れる。

 その寒さはただ寒いだけではなく、嫌なくらいにクララに苦痛を与え続けた。想像を絶する苦痛のはずなのに、クララは鈍ることなく戦い続ける。その痛みを紛らわせるために叫んでいるかもしれない。



「ぎぃぃいィィ!」 


「!」



 グズグズの腕でメイスを振るう。

 これまで途轍もない速度とパワーで行われてきた攻撃だが、この戦いが始まってから最も強いものだった。

 メイスに付いていた血が、まるで矢のように弾き飛ぶ。最低限しかなかった薄い結界では、重さを感じるほどの威力だ。だが、これは攻撃の余波である飛び散った血によるものだ。ただ弾け飛んだ液体に抱く感想ではない。

 

 クララの攻撃は猛毒を纏う。

 掠るどころか、必要以上に近付く事も許されない。

 これまで、ずっと救いを与えたいと思っていた彼女に対して、全力で避けるしかない。

 クララの全てが化け物だった。

 その強さも、その執念も、何もかも。

 


「『フレア』!」



 第五階梯魔術『フレア』


 極大の熱を発生させ、敵にぶつける魔術だ。

 発生させた強烈な熱は人間の体など容易に溶かし、骨も残さない。

 雪が一気に溶けてなくなり、白と赤の世界が茶で染め上げられていく。

 この魔術を選んだのは、フィリップの淡い期待ゆえだ。もしかすれば、この熱で毒が飛んでくれないか、この熱で傷付いた体を全て治してくれないか、というもの。

 フィリップはとにかく、クララを受け入れる事が出来なかった。凄まじい狂気に満ちた彼女から、ただの無情な彼女に戻って来てほしいと願ってのもの。

 フィリップは、別の意味でクララとはもう戦いたいと思わなかった。



「ぞんな、でいどでぇぇ!」


 

 淡い願いは叶わない。

 骸骨寸前にまで肉が削がれて焼けたクララが、グチャグチャに再生しながらフィリップに詰め寄る。

 ほんの少しだけ人間らしくまで戻りはした。しかし、すぐにまた顔の皮膚が腐り始める。

 フィリップは、クララの異常さを言葉にする事も出来なかった。

 身も凍えるほどの狂気に囚われる。

 フィリップの心を蝕んでいく。

 


「あぁがあああ!」


「……っ! 『アイスランス』『鉄鋼堂』『グレイドール』!」



 壊して、壊して、止まらない。

 氷の槍の雨だろうが、鉄の檻だろうが、灰で出来たゴーレムだろうが関係ない。

 クララの肌は既に脆く、中に氷の槍は突き刺さる。だが、その下にある健全な多少の肉と骨は壊れない。鉄の檻などクララの膂力を封じ込めるには時間稼ぎにもならず、灰の人形はメイスの一薙ぎで吹き飛ばされた。


 クララの体自体は、神聖術に即座に直るために窺う事は出来ない。しかし、体も既に溶け落ちている部分が多い。骨が透けて、内臓がこぼれ落ちそうになれば最低限治していく。

 痛い以外の感覚がない。

 痛くない場所がどこにもない。

 クララには、殺害に対する情熱はなかった。

 けれども、クララはフィリップを殺すためにかつてないほどの労力を払っている。世界最高クラスの猛毒を浴びたのも、フィリップが敵だからこそだったのかもしれない。

 


「ゲハっ!」



 クララの吐血が視界を塞ぐ。 

 フィリップは何もしていないのだが、ただクララが毒に侵されているために吐いた血だ。フィリップには通じるはずもなく、保護の結界に血は阻まれて、それ以上はない。

 だが、クララの攻撃を視覚に頼らずに捌かなければならなくなったのは大きい。



「ヂィィ!」


「う、おおおお!」



 フィリップは天才だ。

 だから、常人には理解も出来ないような事を、平然と成し遂げてしまう。

 クララの凄まじい破壊力を有する蹴り。それを腕で受け流した。猛毒混じりの、触れる事も許されないはずの攻撃を、受けてしまった。

 だが、それで終わりではない。

 即座に、体に毒が回る前に、クララに触れた部分の服を切り落とした。


 クララはその対応に内心ほくそ笑む。

 これまでの攻防で、フィリップに余裕が無いことは明らかだったのだ。タイムリミットは一週間から多少短くはなっただろうが、それまでにクララが押し切る事が出来る。

 僅か十数分しか経過していないのに、フィリップは苦し紛れとしか思えないような策を弄した。

 打開策がない事は目に見えている。



「クララ! 止まれ!」


「グギィィイ!」



 歯を食いしばれば歯が壊れる。

 歯茎の形が大きく崩れ、舌には喉の奥から漏れ出たものか、口の中から流れ出たものか分からない。毒のせいで血の味などもう分からない。

 追い詰めている方が死にそうに見えるなど、冗談にしても馬鹿げている。

 必死というものが文字通りに思える。

 身を賭して、異端を殺そうとしている。



「し、ねえ、え」



 意地でも、何が何でも。

 クララは絶対に止まらない。



「そこまでする義理がどこにある!? アイリスを神に取られた事がそんなに辛いか!?」


「ぎり、など、ない!」



 クララは絶対に止まらない。

 止まってはいけない。

 自身の存在そのものを賭けて、異端のために止まる事など許されない。

 だから、というのもおかしな話だが、クララはフィリップの意思に否を叩き付ける。

 フィリップには理解出来ない感情の全てを、血でいっぱいの言葉を吐き出して、



「ボグは、がみが、のぞむどおりに、動く! だが、ぞごにぎりなんでものばない! あんなクズがいだかがら、アイリずは、『聖女』になっだんだ!」


「なら、何故付き従う!?」



 アイリスという、クララにとって一番大切な宝を奪われた。

 だが、クララは唯々諾々と神に従う。

 そこには義理も忠誠もない。あるとするなら、奪われた事への深い憎悪と、取り返せないという諦念だ。

 この二つの感情が、クララをここまで駆り立てる。あらゆる苦しみを、痛みを受け入れてしまうほどに、クララの想いは強くて、許せてしまう境界線が恐ろしく緩い。 

 

 アイリスのため。


 その理由さえ絡んで来れば、クララはどんな拷問でも笑顔で耐える。

 クララが猛毒で苦しむ事もそうだ。

 他人からすれば目を覆いたくなるほどの苦痛も、問題にはならないと思っている。


 クララのメイスはフィリップの剣に受け流されて、地面に衝突した。

 轟音と共に大きく地面を揺らす。

 フィリップに攻撃が通用しなかったように見えただろう。しかし、クララはちゃんと気付いていた。フィリップの受け流しだが、メイスとの接触時間が短くなっている。

 クララの猛毒に触れたくないから?

 それは正しい。その猛毒が人体に腐蝕をもたらすのはクララを見れば分かるが、人体以外の、例えば金属にも同じ効果を発揮しないとどうして言えるのか?

 フィリップはちゃんと見抜いている。

 ジリ貧になって負ける、と。

  

 

「アイリスのだめ!」


「そればかりか!」



 クララには、どんな問答も無駄なのだ。

 どうして、何故、と問われても、クララにとってはただアイリスのためとしか言えない。

 それが全てで、それ以外は蛇足だ。

 フィリップも分かっている。

 分かっているからこそ、クララのどうしようもない愚かさに怒りを募らせる。


 フィリップの結界がクララを襲った。

 盾を前に敵に体当たりをするように、凄まじい硬度の結界がクララを轢いたのだ。

 だが、クララは二本の足で踏ん張った。

 片方は無色透明で実体がなく、もう片方は腐りかけでグズグズの足だ。

 そのままクララは全力でメイスで結界を壊す。

 第二、第三の結界が次々とクララを襲うが、クララには有効打とはならなかった。



「君も! 分かっているだろう!? 君がどれだけ彼女のためと足掻いたとして、それを彼女が望むはずがない!」


「じっでる!」


「アイリスが『聖女』になってから、あの孤児院には定期的に金が入ってきている! 聖国からな! これが、どういう意味か分からない君ではあるまい!」


「わがっでる!」



 知っている。

 アイリスが『聖女』になってから、彼女は金を孤児院に送り続けている。

 アレンとクララも金を領主カールに送っているが、直接孤児院に届けているのはアイリスだけだ。 

 クララはアイリスの善意を知っている。

 アイリスは、孤児院の皆が幸せ、不自由なく暮らせるように気持ちを送っていた。


 神から聞きたくもない話を聞かされた。

 嗤われながら、どんな気分か聞かれた。


 アイリスが仕送りをしているのは、孤児院を想っての事である事は確かだ。

 だが、その想いの大部分はそうではない。

 手足が不自由なクララの事が心配で、自分に出来る最大限の思いやりを行ってきた。アイリスは、クララの事を遠く離れた地で、長い時間を想い続けた。

 そのクララが、優しいアイリスのために裏で殺しをしている。

 その皮肉な事実をどう思うか聞かれた。

 しかし、クララの答えは変わらない。


 

「ボクの願いは変わらない」



 その一言に、クララの心が込められていた。

 どんな事象も、想いも、クララの願いを曲げるには足りはしない。

 それがアイリスの想いを踏み躙ったとしても、クララのアイリスへの願いは変わらない。


 フィリップの魔術がクララに突き刺さる。

 いくつもの鉄が、炎が、氷が、闇が、光が、クララの体を壊そうと襲う。

 けれども、クララには通じない。

 ノーダメージという訳ではないが、というか、強化と再生を諦めていた部分は全て抉れて無くなったが、クララが膝を付くほどではない。

 クララはフィリップに向けて駆ける。



「君は、アイリスの願いを踏み躙っている!」


「わがっでる!」


「彼女は君の安寧を望んでる! 自分のために君に身を削ってほしいなんて、アイリスは思っていない!」


「しっでる!」



 フィリップは剣を使うのを躊躇う。

 修復のための魔術を使わなければならないし、ある程度直るまでは剣は使えない。折れれば確実に形勢は悪化し、クララに殺されると分かっている。

 だが、この瞬間だけは絶対に、剣を使わなければならなかった。

 魔術を基本に戦況を立て直そうとするフィリップだったが、クララの速度を見誤ったのだ。

 クララの疾走は凄まじく、役割を終えたかのように千切れた脚が、どれだけの力が込められたか分かる。これまでとは比較にならない速度に、魔術では対応が間に合わない距離まで詰められた。


 フィリップの判断は早い。

 狙うは、唯一攻撃が通用する目だ。


 だが、



「!」


「アイリスは、のぞまない……!」



 途中で剣が止まった。

 完全に止められた。

 まさか、額で受けられるとは思わなかった。



「がああ!」


「グッ!」



 クララのメイスはフィリップに触れる。

 どうしても避けられないと悟ったフィリップは、胴体にメイスが辿り着く前に、クララのメイスに手を付けた。

 先に行ったような、衝撃を殺すための数十という魔術が展開される。

 フィリップの腕はひしゃげ、だがその体にはどこにも傷が付かずに後ろに吹き飛んだ。



「…………!」



 さらに、その途中で用済みになった手を剣で切り落とした。

 毒が体にまで届かないように、最速で最適の判断を行ったと言える。

 片手だけのフィリップを、クララは睨む。

 先の攻撃のために再生を疎かにしたせいで、両目がぼとりと落ちていった。

 真っ黒な虚がフィリップを見つめる。



「気付いて、いるだろう?」


「アイリずのごとは、何でも」


「君のことだ」



 剣を構える。

 フィリップはまだ諦めない。


 今のこの状況のように、アイリスという光に焼かれて盲目になったクララは、多くの事を見落としすぎた。

 クララを愛する誰かの想いや、アイリスの想いもそうだが、クララ自身の事もだ。

 フィリップはクララを止めるために、言葉の刃をもって迎え撃つ。


 

「人殺しの理由を、アイリスに押し付けるな」



 フィリップは、言ってはいけない残酷な言葉を、クララに浴びせる。

 これだけは知らせておかないといけないと、心から思ってしまったから。



「…………」


「聞いていれば独りよがりが過ぎる。アイリスのため? それを彼女が望まなくてもするなら、ただの自己満足だ。これまでの殺しを、撒き散らした悲劇を、言い訳するな!」



 クララの足が止まった。

 フィリップの言葉が、意外にも深くクララの胸に突き刺さった。

 


「クララ! 君がしてきたソレは、決して許される事じゃない! 分かるだろう? 殺しは殺しで、それをするのはどんな理由があれ悪だ! そのための言い訳にアイリスを使うな! 彼女を穢すな!」


「…………」



 クララの眼窩が埋まっていく。

 黒く、濁った目をフィリップに向ける。

 けれども、不気味なほどにクララは反応を示さない。しかし、クララは確かに足を止めた。

 クララは、フィリップの言葉を受け止める。

 黙って、どこか悲しそうに。



「君を見れば、アイリスは悲しむぞ? それから泣いて、君を抱き締めて、謝り続けるぞ?」



 なんと残酷な言葉か。

 アイリスの幸せを、何に代えても願うクララに、アイリスがクララのせいで不幸になる可能性を叩き付けた。

 逆上して、フィリップを殺しにきても、おかしくはないだろう。だが、クララを見て、クララの言葉を聞いて、どうしても言いたくなったのだ。

 

 クララは黙る。

 図星を突かれても、クララは黙る。



「…………」


「クララ……」



 悲しい時間だった。

 驚くほどに静かで、平和的な攻撃だ。

 フィリップは顔を歪める。

 クララの胸を抉ると同時に、フィリップの心にも罪悪感という形でのしかかる。

 だが、何も言ってはいけない。

 この攻撃を否定もせずに、ただ黙って受けるクララがどれだけ哀れでも、フィリップが慰めの言葉を言ってはいけない。

 フィリップはより苦しそうに、より冷徹に、より残酷に言葉を紡ごうとした。

 

 そして、





 口から大量の血を吐いた。





「え?」


「……やっと効いたか」



 クララを見た。

 見たつもりだったが、視界がぼやけた。

 何が起きたのか分からずに、膝を付いてから、胸を抑えて倒れた。



「フィリップざん。だじかに、貴方の言葉は真実です。残念ながらね」



 クララの体が急速に治っていく。

 腐りかけの死体のようだったというのに、あっという間に可愛らしい黒髪の少女に戻っていた。

 冷たい瞳でフィリップを見下ろす。

 しかし、それとは別に悲しそうに語る。



「だから、アイリスに会いたくないんです」



 残酷を誰よりも受け入れていた。

 悲しいくらいに、クララは見通していた。


 そして、クララは無防備になったフィリップの頭にメイスを振るって、



 空を切る。




「……『転移』か。でも、どこから?」



 第三者に介入された事を即座に悟る。

 だが、魔力の痕跡が残り過ぎだ。

 フィリップやクララが行うような魔術行使には程遠く、確実にコレをやった者は弱いだろう。

 確実に追いかけて殺せる。

 だが、



「先に、やる事がある」



 クララはそれを無視した。

 一番に優先する事を、クララは間違えない。

 

 ズキリと痛む胸を抑えて、クララは走る。

 走って、走って、走る。


  

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