8、もしや明日は
アイリス視点
「そこの君」
「ひゃっ!」
声をかけられた。
若い、男の声だった。
恐る恐る振り返ると、そこには騎士様が居た。
部分的に鎧を纏い、剣を腰から下げている。
背は高くて、見上げないと顔が見えないくらいだ。
下町の住民とは違ってとても清潔そうで、明らかに私たちとは違う人間だと分かる。
騎士に任命されれば貴族位を与えられるのだが、目の前の青年は間違いなく貴族だ。
見た目だけの話ではない。
どことなく、彼には余裕を感じる。
この辺りの大人たちは、なんというか余裕がないのだ。
大抵、目がギラついているか、ぼんやりしているかの二つで、彼のような寛容さみたいなものはない。
でも、貴族が何の用だろう?
ここには貴族なんて上流階級どころか、普通市民もあんまり来ないのに。
いや、というよりも、
「ご、いや、申し訳ありません! わ、私、ご無礼を……」
「え、いやいや! 別にムカついたとか、目障りだったとかで声をかけたんじゃないんだ! 僕は他の貴族とは違う。顔を上げてくれ」
いいのだろうか、という疑念が強い。
だって、貴族様は私たちを気に入らないからって殺せるってシスターから聞いている。
わざわざ声をかけられるなんて、私が知らない内に、貴族様にとんでもない事をしたのではないか、と思ってしまった。
貴族様の命令は聞かないといけない。
常々言われてきた。
そうじゃないと、殺されるからって。
シスターからも、クララからも、もう卒業したお姉さんやお兄さんからも、口を酸っぱくして。
だから、とても怖かった。
けど頭を上げろ、と言われたから、上げないと。
「安心してくれ。僕は、君が一人で歩いていたから心配になったんだ。何度かここには来てるけど、一人の子どもは君が初めてだったし」
困ったような瞳で見つめる騎士様に、恐れを抜かれた。
なんというか、優しい。
皆が言うような、悪魔のような貴族像とはまるで違う。
「この辺りは子ども一人じゃ危ないよって、言うまでもないか……大人か、友達と一緒じゃないと」
「は、はい……でも、大丈夫なんです。仕事を見つけないといけないので。危ない所は分かってますから」
騎士様は頬を掻き、困ったような顔をする。
また、どことなく憂いているようにも見えた。
会ったばかりのはずなのに、なんというか、同情されているのかもしれない。
「そうか……なら、僕が少し付いていこうか? いくらか町を探るんなら、余計に一人で歩かせられない」
「え、でも……」
「心配しなくてもいいよ」
「き、貴族様の手を煩わせるのは……」
そしたら、騎士様の顔があからさまに変わった。
なんというか、悲しそうな、切なそうな。
小さな声で『そんなつもりじゃないんだけどね』と、やはり元気なさげに。
まるで私が悪い事をしているみたいだ。
それに、下町に住む下級市民の私をここまで気にかけるなんて。
正直、優しいのだと思う。
この人に対して、悪い感じはない。
シスターには、さんざん自分たちよりも上の町に住む人には関わってはいけない、と言われてきた。
彼らは基本、こちらを見下しているから、関わっても嫌な思いをするだけだと。
だが、この騎士様からはそんな風には思えない。
……少しくらい、いいかもしれない。
「えと、じゃあ、やっぱり、お願いします……」
そう言うと、騎士様はパアっと明るい顔をする。
頼られる事を本当に嬉しそうにしていた。
この人なら、少しだけ信用できそうだった。
クララから知らない人を信じてはいけない、と言われているのだが、こんな変な人はそうそう居ないのだ。
騎士様はこちらに寄って来る。
だが、少し距離を取って、本当にすぐ近くには来ない。
多分だが、私を警戒させないようにしているのだろう。
確かに、こんな大きな人が目の前にいるなら、ちょっと怖いかもしれない。
やはり態度の一つ、行動の一つとっても、悪い人には思えなかった。
「あ、あの、ならコレに書いてあるお店っぽい所に」
「ん? 手作りの地図かい? ちょっと待って……」
クララの地図を見せてしまったのも、思っていたよりも私が騎士様に気を許していたからだ。
普通なら、あの目がギラついている大人たちにならしなかったけど、この人になら大丈夫だろうと思ったからだ。
それと、これを書いたクララとアレンの自慢をしたかったのかもしれない。
騎士様と一緒に歩くのなら、話す機会もあるだろう。
だから、あの二人の事を、この優しい人に話してみたかった。
地図を見せて、反応を楽しみにしていた。
きっとこの人なら、凄いと褒めてくれるだろう、と思っていたけれど、私の予想は外れる。
騎士様はずっと熱心に見ていた。それこそ穴が開くくらい真剣に。
様子がおかしくて、話しかけても良いだろうか、と悩んできたところ、騎士様は震える声で言う。
「こ、これは君が書いたのかい?」
「いえ。私の兄妹が書いたんです。妹が持っていたのを勝手に持ってきちゃって。私は字があんまり読めないし」
どうしたのだろう?
本当に怖い顔をしている。
なにか、マズイ事が起きている気がしたけれど、私にはどうしようもない。
もしかして、あの二人は実は悪い事を?
騎士様に殺されてしまう、二人の姿を見た。
背筋が凍る。
恐る恐る騎士様を見る。
すると、騎士様は明るく笑っていた。
「ごめん。付いて行くって言ったけど、ちょっと用事ができちゃった」
「あ、あの騎士様……。な、なにかあったのですか……?」
「あった。あったけど、悪い事じゃない。君の兄妹には感謝しないとね。地図、返すよ。もう覚えたから大丈夫」
騎士様は本当に優しい声で、優しい態度でいた。
不安そうな私を慮ってくれたのだと分かる。
それに、私が思っていたような事にはならないだろうと思うと、騎士様の優しさも相まって、安心がジワリと胸に広がった。
「それ、誰にも見せないようにしてね。今日は真っ直ぐ家に帰るんだ。最初に見たのが僕で良かった。あと、君の兄妹によろしく言っておいてほしい」
騎士様はそれだけ言うと、走っていった。
すぐに見えないくらい小さくなって、私はその姿をずっと見ていた。
アレンが来たのは、そのすぐ後の話だ。
※※※※※※※※※
「騎士?」
訝しみながら首を傾げる。
アレンからの報告を聞いたクララは、疑問符を浮かべるしかなかった。
意味が分からない話だ。
二人の常識からして、下町に住む人間の立場は低い。
そして、立場の高い人間から受ける、立場の低い人間への扱いは良いものではないのだ。
本町へ住む中級市民は、下町の下級市民を心から見下している。
汚い動物としか見られず、白い目で見られるのは当然だ。
下級市民が本町の店へ足を踏み入れれば、ほぼ間違いなく入店を拒否される。
それが貴族街の上級市民になればもっと酷い。
完全にゴミとしか思われない。
彼らは、下級市民をどうしたとしても法律上、責任を取られることは無いのだ。
だから、殴られても、犯されても、殺されても、下級市民は文句を言えない。
その上級市民である騎士が、下町へ?
そんな馬鹿な、と言われるだけの失笑話だ。
「鎧は着てたし、剣を持ってた。しかも、明らかに金持ちだったってさ。多分間違いないんじゃないか?」
「……そもそも、上の市民がここに来るのがおかしい。ボク等のことはゴミ扱いが基本でしょ? ちょっと信じられないね」
疑問しかない。
魚が水の中から出て来ないのと同じだ。下級市民は下町からでないし、上級市民は貴族街から出て来ない。
中級市民には多少例外があるが、この二つはほぼ絶対である。
それくらい、自分の領域を出ることはあり得ないのだ。
まあ、もしあるとすれば、
「その騎士に、貴族のつもりが無いんじゃない?」
「? どういう事だ?」
「だからさ、皆おんなじ人間なんだから、こうして差があるのはおかしいだろー、みたいな。そんな人なんじゃない?」
クララの言い分に、アレンは疑問符を出す。
この国の常識として、そんな人間が居るとは思わないのだ。
貴族は貴族らしく、踏ん反り返って他人を下に見る。
会ったこともない人種だが、そうだと生まれた時から教えられてきた。
だから、その貴族像以外にはいまいち想像が付かない。
これはアレンだけでなく、下級市民全員に言える事だ。
それとは逆を言うクララも、半信半疑である。
だが、そうとしか思えない。
誘拐なら、わざわざ優しく声をかける必要がない。
元々好き放題が許される立場なのだ。
強引に腕を掴んで引きずったとして、止められる人間は居ないし、止めようとも思わない。
止められれば無礼討ちで殺せばいい。
もっとも、必要がないだけで、良い人を演じて絶望に叩きつけるのが趣味の変態かもしれないが。
「つまりは、本当にただの良い人って事か?」
「う〜ん、あり得なくはない、かな?」
「なら、その良い人はあの地図を見て、どう動くと思う?」
クララは考えていた。
良い人ならば、いったい何をするのか。
階級に分け隔てなく接するような、優しさ。階級が下だからといって、子どもが労働しなければならない環境に怒る、正義感を持つとする。
そして、貴族としての立場も、権力も、金も持っている。
その上で、推測通りの良い人だとすれば、
「地図に載ってる犯罪組織を叩く、とか?」
正義感で動くのなら、そうだろう。
麻薬の流通、所持することに資格が必要な危険物の保管に、領内への不法侵入、密輸入。
そういう事を裏でしているものを書いていた。
表は良い顔をして、裏でごっそりと儲けるつもりの汚い者だ。
居るだろう、と思われていても、実際に見つけるには難しい。
隠れ方が上手い所は、子どもを雇うような優しさを見せる。
見せかける。
表で裏と同じくらいちゃんとしている。
だから、見つからない。
それを記した地図を見つけたのだ。
犯罪の温床を叩けるチャンス。
良い人なら、この機会を逃す手はない。
「なるほど……。じゃあ、良い人じゃなかった場合は?」
「……これで色々としょっ引けるなら、出世のチャンスって事くらいかな」
もしも良い人に見せかけただけだったとしても、このチャンスは逃さない。
これを領主に報告すれば大手柄だ。
一部の中級市民が領主に会おうとすれば、許可の手続きやらで時間がかかるし、手続きを終えても会ってくれない。だが、騎士は領主の直属であるため、報告するのに手間はかからない。領主の部屋にノックをすれば、それだけでいいのだ。
だから、情報を持て余す事もない。
けれども、
「良い人にせよ、そうじゃないにせよ、間違いなくガサ入れが起きると思う」
「……そりゃそうか。でも、何か問題が?」
「領主が来るかは分からないけど、騎士は絶対来る。最低でも二人。戦力として冒険者を雇うだろうから、実際はもっと来るかも」
まあ、そうだろう。
人を雇うのに、冒険者は良い。
冒険者とは、いわゆる何でも屋に近いのだ。
害獣駆除、遺跡の探索に、子守りや家の手伝いまでこなしてくれる。
しかも、大半は職業柄として実力主義であり、戦闘能力が必要なためにちゃんと強い。
きちんと金さえ払えば、それに見合った、力を持つ荒くれ者が味方をしてくれる。
それに、彼らはほとんどが平民の出だ。
ランクが高い冒険者には貴族位が与えられる事もあるが、それは本当に一握り。
わざわざそんな実力者を雇う必要はない。
つまり、
「その日、その時、女や子どもが居るなら、攫われる可能性はなくはないと思うよ」
可能性として、無くは無い話だ。
クララもアレンも見た事は無いが、町の外には魔物という生き物が居る。
人を襲う、強大な化け物だ。
一般にその魔物を倒すのも、一応騎士の仕事だが、騎士がまともに魔物を倒すことは少ない。
騎士と言っても、本当に力を持っている者は数えるほどしかいないのだ。
ましてや、首都から離れた一辺境の領には。
ほとんどは、家督の継承権がない貴族の次男、三男がおこぼれで配属させてもらっているだけ。
仕事はさぼり、昼間から酒を飲み、戦闘は人任せ。
吟遊詩人が語るような話に出て来る、真っ直ぐな正義漢は砂漠の中の一粒の砂金。
二人は、孤児院を卒業した兄貴分たちがそう言っていたのを聞いている。
冒険者になり、世界を見てきた先輩たちだ。
彼らには経験があるし、信頼もできる。
貴族の話になった時の苦い顔を見ていた二人は、まず本当の事だろうと考えている。
つまり、派遣される騎士はほとんどが腐った貴族と言う事。
やりたい放題されるかもしれない。
そしてその時、逆らったら殺される。
冒険者を雇っているなら、彼らは騎士の言いなりだ。
そんな化け物と日夜戦う戦士と、幼い子どもが追いかけっこを行えば、負けるのはどちらか目に見えている。
もちろんその時、周囲の者は助けてくれない。
「…………」
「祈るしか無いかもね。騎士たちがこっちに来ない事を」
アレンは悔しげに唇を噛む。
クララも、目を瞑るだけだ。
最悪の場合もあり得る。
クララにとっては、自分もしくはアイリス、ついでにアレンが魔の手にかかってしまう事。
アレンにとっては、その対象が孤児院全体だ。
なんにせよ、被害が出る可能性はゼロではない。
「大丈夫、かな?」
「……外に出なければ、多分。変に彷徨い出たら、かなり危ないと思う」
外に出ない、出さない。
これしか対処法がなかった。
「今度から、コレはやめよう。ちょっと調子に乗ってた。危ない所に入らないために、危ない所を間近で調べるなんてバカだった。だろう?」
「文字にすれば、そうだよね……。なんで気が付かなかったんだろう? 思い付いた時は天啓かと思ってたよ……」
人と違う事をしている事に、優越を感じていたのかもしれない。
クララは最後まで本末転倒な手段だと、気付けなかった。
アレンは気付いていても、有用だからと目を逸らした。
そして二人共、間違えても自分の責任だから、と思い続けていた。
愚かな子どもだったと悟っても、もう遅かった。
自己嫌悪でいっぱいいっぱいだ。
二人は、これ以上まともな事を話せる気がしなかった。
「……アイリスにはどう説明する?」
「ボクが適当に言っておくよ。店の情報をまとめただけで、そんなに大した物じゃないって。あとその騎士は、道に迷っていただけって事にしよう。そうじゃないと、どうして貴族様が下町へ来るんだってさ」
ろうそくの火を消す。
トボトボと部屋に戻っていく彼らの足取りは、とても重かった。
後に尾を引く結果になるとは思いもしない。
一種の、運命の瞬間になるとは。