82、何もない平穏な日
なんの変哲もない民家がある。
屋根は赤色、二階建てで、まあそれなりに大きいが特別目を剥くほどの豪邸ではない。立地も広い道に沿っていて、良くも悪くもないだろう。
何も目立ちはしない。
おかしな所など何もない。
では、何故こんな場所を取り上げたのか?
それは、住民が変哲もありまくるからだ。
住民の一人であるフィリップは、頭目に『転移』させられたのを確認する。先程までの暗い空間から、一気に明るい室内へと視界が切り替わった。
目がぼんやりとするが、見えなくはないし、すぐに慣れる。フィリップは確かな足取りのまま、ゆっくりと慎重に、足音を建てないように歩いた。フィリップの技術をフル活用した隠形であり、見抜ける者はそうは居ない。
「…………」
目的地は決まっている。
そろそろ夕飯時で、家の台所に位置する場所から香ばしい匂いが漂っているのだ。
一言も発さずに、少しずつ少しずつだ。
そうして歩いていると部屋が変わって、一人の女性の後ろ姿が見えた。
蛇が獲物を狙うように静かに。
フィリップは慎重に女性に近付いて、
「ただいま」
「ひゃっ!」
声をかけると、女性は小さく悲鳴をあげた。
料理の最中だったのだろう。女性は驚いた拍子に包丁を落としかけた。
それから、憎らしい目を背後に向けて、
「ちょっと! 何するの!」
「あはは、ゴメンゴメン。やってみたかった」
「もう……。普通に帰ってきてよ、普通に……」
やや頬を膨らませて、不満そうに女性が言う。
フィリップにとってはとても可愛らしく、そんな顔をされても彼が喜ぶだけだ。
女性も男とはそれなりの付き合い。そんな事は分かる、というか、フィリップの顔を見れば大概分かる。
緩みきった頬を、女性は全力で引っ張った。
「いひゃいいひゃい。わふかったっへ」
「反省しなさい」
責める女性と、甘んじるフィリップ。
短いやり取りの中にも、二人が信頼し合えている事は推して知れる。
仮にフィリップの知り合いが居たとすれば、あの真面目を絵に描いたような男がここまで緩むか、と啞然とするだろう。完全にデレデレだった。
女性はあいも変わらず効果はなさそうだと呆れながら手を引いた。
フィリップは赤くなった頬をさすりながら、
「いやあ、ゴメンね?」
反省したのかどうか分からないトーンだ。
きっと次も機会があればやる。
女性は呆れて物が言えない。出会った当時はこんな事をする人とは思わなかった。女性は、フィリップの事を頼りになる人だと思ってはいるが、どうにも結婚してからは吹っ切れた事をするようになった。
だが、そういう所は嫌いではない。
女性はフィリップを気遣うように言う。
「もっとかかると思っていたわ」
「僕の足ならここまで一週間もあればね?」
「はいはい。化け物化け物」
いつもと同じやり取りだ。
少々冗談を言うくらいが健全だ。女性にとって、フィリップの人外のストーリーは聞き慣れている。二人が微笑む空間は、どこか明るく見える。
「何か変わった事もなかったかい?」
「強いて言えば、料理の途中に真後ろから謎の男に声をかけられたくらい」
「なに? そんな事が?」
「なんと、今さっき起きたのよ」
女性は包丁をまな板に置く。
それから小さく笑って、
「で、何があったの?」
突然変わった口調に、フィリップは浮かべていた柔らかな笑顔を崩す。
フィリップのやや暗い笑みを見て、女性は何を思ったのだろうか?
何かあるのは明らかだ。
きっと、何かがあったのだろう。女性もフィリップがそういう組織に所属している事は知っている。それが自分のためだと言うことも、痛いほど分かっている。
女性はただ、フィリップの手を握った。
「話、してくれるんでしょ?」
「……もちろんさ」
そこを優しく慰めるのは、その女性の仕事だ。
深く愛する彼が、どんな辛い事を経験したのか知る必要がある。いつも守られている彼女がだ、その程度の事はやる。
フィリップの背中を押すのは、彼女にしか出来ない事なのだ。
だから、フィリップも甘える。
その好意をなんの気兼ねもなく受けられる。
「嗚呼、君とフィーラが居てくれて、本当に幸せだよ」
「ふふふ……。それはどうも」
それから、はたと思い出す。
言っていなかった事があるのだ。
「ただいま、ライラ」
「……おかえりなさい、フィリップ」
二人だけの空間で、二人だけの言葉が響く。
抱擁して、唇を重ねた。
愛する夫婦が会えなかった時間を埋めるように、優しく甘やかに蕩けていく。愛おしい相手が目の前に居るというだけで、甘えたくて、どこか切なくて。
それから、
「あ、鍋!」
「え?」
煮込んでいた鍋が沸騰し過ぎて、焦げの匂いが漂ってきていた。
ライラは大慌てで、鍋の下に敷いていた魔道具を止める。もう少しで中身が台無しになる所だったが、まだギリギリセーフだったようだ。ライラが胸を撫で下ろした様子をぼんやりとフィリップは眺めていた。
完全に空気がぶち壊しだ。
それから、気まずそうに目が合って、
「取り敢えず座ってまってて。ご飯するから」
「……分かったよ」
もう少しだけ、一緒に居たかった。
※※※※※※※※※
フィリップとライラは二人で席に付いた。
パンとスープ、サラダが並び、なかなか食べやすくて、栄養価の高い食事が揃えられている。
フィリップはスプーンを手で弄りながら、ライラに向けた言葉を探していた。
そして、ライラはフィリップを待っている。
何を話してくれるのか、何を溜め込んでいるのかを。そして、何をもってその重荷を取り除けるのだろうか、とこちらも言葉を探していた。
夫婦揃って似たことをしている。
だが、それもずっとではない。
流石に何時間も悩み続けるということはなく、数分後にはフィリップは話を続けた。
「クララっていう女の子が居たんだ」
「…………」
「同郷の娘でね。君と同じ黒い髪をしてる、可愛らしい娘だ。それで、中身はビックリするくらいの変人でさ。不思議な事か、とんでもない事しかしないような娘だった」
フィリップの昔話は、まま聞いている。
二人は一緒に色々な事を話す。
昔のことはもちろん、今のことも、将来の事も、なんでもない会話を何よりも楽しみにしている。
クララという少女の話も、昔一度聞いた。
だが、止めるような事もない。その少女がどんな人物か、彼が話したいから、ライラもちゃんと聞く。
「才能っていう意味なら、僕よりもずっと凄い娘だった。少し前までどこで何をしているのか知りたいくらいだったけど、この前会ったんだ」
「…………」
「それから、少し話をした。今どんな事をしてるか、どんな風に過ごしてきたかとか」
その昔話では、フィリップはクララの事を少し苦い顔で話していた。
彼の父親の話以外で、誰かを語る時にあんな顔をする事はない。しかし、根底にあるのは純然な親愛だ。妹のようなもの、と語っていた言葉に嘘はなく、けれどもライラに語れないような後ろめたいナニカがある。
不思議な少女。
その少女の何がフィリップの心を乱すのか?
「彼女は、昔から変わらない。ずっとずっと心も体も強いままで、迷う事をしない。だから、彼女を勧誘したんだ……」
「……彼女に神の相手をして欲しかったの?」
「隣に立って戦ってほしかった。正直、彼女よりも凄い人間を見たことがないから。クララが一緒に戦ってくれるなら、こんなに心強いことはない」
フィリップの評価は正しい。
妹分だろうが、赤の他人だろうが、冗談で一緒に戦いに出てほしいなどとは言わない。何よりも、誰かの命のために足掻いてきた強い男だ。強く、正しくあろうとし続けている男なのだ。
クララという少女は高く評価されている。
戦闘の面で、これ以上はないくらいに。
「断られたの?」
「……ああ」
「でも、それだけじゃないんでしょ?」
目を伏せる。
どうしても言いにくいといった様子だ。
だが、一呼吸置いてから覚悟を決めたように、
「クララは、異端審問官だった」
ライラの表情が強張る。
フィリップの目をジッと見つめて、それが本当のことなのか問い正しているようだ。
その視線を受けてフィリップは、大きく、そして神妙に頷くだけだった。
「異端審問官……」
ライラの呟きには、様々なものが詰まっていた。
恨みと恐怖は確実で、その他にいくつも混じり合っているが、詳細は本人にも分からない。
「七年の内に、まさか神に付いてるとは」
「その娘は信心深かったの?」
「いや、違うんだ。神聖術については昔からずば抜けてたけど、神に命をかける狂信者じゃない」
異端審問官といえば、神のためならどんな悪逆非道も、眉一つ動かさずに行う卑劣ばかり。
そして、フィリップからすればクララがそんな事を神のために行うような性格はしていない。
理由があるとするのなら、
「クララは、『聖女』アイリスのために動いている。クララの行動の全ては彼女のためのものだ」
「…………」
「神に賛同してる訳じゃない。筆頭であるシモンと言い争いをしていた。街を巻き込むとかで、戦っていた」
絞り出すように言う。
最後の一番言いたい所が言い難い。
フィリップにとって最も大切なものを履き違えるようなもの、とクララに言われた。その生き様、誇りを詰め込んだかのような指摘だった。
それを思い出すと、言葉が詰まる。
「…………」
クララの覚悟を知った。
アレは確実に、フィリップの事を殺しに来ていた。
旧知の仲だったというのに、敵だと分かった瞬間に即座に意識を切り替えて、殺しにかかった。
その態度がフィリップに訴えているように思う。お前とは覚悟が違う、引っ込んでおくか、そうでなければ死ねと。
「フィリップ」
「…………」
「貴方はその娘を、どうしたいの?」
言葉が詰まる。
黙ってしまうのは、きっと情けないから。
フィリップにはどうも、強いクララとの差を感じ取ってしまう。そして、その差を見せつけるのが嫌だった。
クララにはある、大切なものを守る覚悟を語る資格が、自分には無いのではないかという疑問。そこを押して、恥知らずにも願いを語らなければならない。
フィリップは苦悩する。
本当に言っても良いのだろうか?
だが、ライラは、
「どうしたいの?」
「…………」
真っ直ぐにフィリップを見つめる。
強い意志がこもった目だ。
きっと、フィリップが答えるまで何度でも尋ねることだろう。是が非でも、フィリップからその本音を聞きたいと思っている。
「神の呪縛から解き放ちたい」
「助けたいの?」
「そうだ。戦いたくない。最後まで、僕はクララの事を諦めない」
ライラはフィリップを見る。
その、どこか自信なさそうな、弱気な彼を。
弱っている所を見たことは何度もあるが、ここまで苦しそうにしているのは初めてだ。
だから、ライラはその隙間を埋める。
「じゃあそうすればいいじゃない」
「…………」
さらに落ち込むフィリップ。
だが、ライラが間違えた訳ではない。
フィリップには、フィリップの考えがある事を知っている。だから、選択を間違えたのではないか、と狼狽えたりはしない。
ライラは案外、肝が座っている。
「クララに言われたんだ……」
「…………」
「自分にとって一番大切なものを間違えるなって。あの娘は、ずっと真っ直ぐなんだ。何をするにしてもアイリスのため。そのために、それ以外を切り捨てる覚悟がある」
強さに当てられた。
アレを間近で見せられて、クララの事を助けたい、救いたいなどとてもじゃないが言う気にはなれない。
クララは、勝手に自分で救われる。他者の助けなど期待していないし、求めていない。仮にフィリップが解決に挑んだとして、余計なお世話と足手まといの二つを言われるのが関の山。
一番以外を不必要と切り捨てるクララ。
なんと潔いことだろうか?
「君とフィーラが大切だ。だから、クララと戦わないといけないんじゃないかと……」
戦いたくない。
だが、戦わなければならない。
少なくとも、クララはその覚悟はできてる。
未だに戦いたくないと駄々をこねて、他の道を無理に探そうとしているのはフィリップだ。
割り切っているクララと、割り切れていないフィリップ。どちらが良く見えるかは明らかだ。
「僕はどうしたら良い?」
「…………」
難しいことだ。
一つやれば上等だというのに、二つを得ようとすることの、なんと強欲で傲慢なことか。
フィリップの思いはそこにある。
それにライラは、
「アホ」
「!」
ライラはフィリップを引っ叩いた。
面食らったフィリップは目を白黒させて、
「な、なにを……?」
「難しいこと考えるな」
ライラは、その赤い目を神妙に細める。
どこかフィリップを責めるように、けれどもどこか悲しそうに。
それはライラにとっては、そのフィリップの悩み自体が面白いものではないからだろう。
なぜなら、
「そのクララって娘に話を付けるために、私たちはそんなに邪魔?」
「そんな、訳が……」
すぐに否定は出来ない。
フィリップは家族を守るのが第一の使命だ。
それに、クララはきっと言葉にした事をやりきる。ライラも、娘のフィーラも殺す気だ。彼女らを守ろうと思えば、クララと話し合いをするのは無理だろう。
クララが殺す気なら、フィリップも殺す気で立ち向かわなければ勝負にならない。勝負に負ければ、全員まとめて殺されて終わりだ。
「余計な事を考えたらダメ。貴方は貴方のやりたいようにやれば良いの」
「でも……」
「私は足手まといになりたくて貴方に付いて行ったんじゃない。気にしなくていい。私たちはちゃんと見つからないように逃げるから。大丈夫。慣れてるわ」
その意思は、フィリップには止められない。
クララという存在が強くフィリップの心を蝕んで、揺さぶったとしても、そのサポートになる事をする。直接一緒に戦える訳ではないが、それでもだ。
ライラはフィリップが考えているよりも強く、彼の事を想っている。
「余計なお節介でも何でも、貴方がやりたい事をしなさい。私は応援する」
「…………」
「そのクララさんも、貴方が助けてくれるのを待ってるかもしれない。そうでなくても、取り敢えずやるだけでしょ?」
いいのだろうか?
疑問しかない。
あの覚悟を決めきったクララを相手に、そんないい加減な事をしても問題ないのだろうか?
「大丈夫。望まれてなくて怒ったなら謝ればいい。それで許してくれないなら逃げればいい。相対して、剣を振り合うだけが道じゃないんだよ」
「そうか……」
背を押されて、ただ胸が熱くなる。
クララのように、一つのために他を切り捨てなくてもいい。確かにクララの一つを突き詰める在り方はカッコいいだろう。しかし、フィリップには向いていないし、似合わない。
「クララみたいにならなくても、いいか……」
「そうなりたくないなら、別に無理しなくていいよ。私は、誰にでも優しい貴方に惚れたの」
フィリップは何も言わなかった。
何も言わずに、ライラの唇を唇で塞いだ。
「…………!」
ライラは一瞬驚いて目を見開いたが、すぐに瞳を閉じて愛を受け入れた。
フィリップは、もうたまらなかった。
自分の惚れた女性が、本当に良い女だったのだ。もう好きが止まらなくなって、熱烈な行動に移っていた。
「分かった。クララの事は僕のやりたいようにする。それとついでに、君も僕の好きにしても良いかい?」
「……お昼も途中なんだけど」
「もう冷めたんだ。後で温め直して食べよう」
手を握る。
自然とテーブルから離れて、移動を始めた。
どこに行くのかは分かりきった事だろう。
昼間からだが、夜まで家に居れるかも分からないのだ。やれる時に愛を確かめ合うのも、別に悪い事ではない。
優しく、甘やかに。
二人は熱に浮かされてた様子で、
「うえええぇぇえええん!」
「!」「あ!」
二人はその声を聞いて、もう一人の家族が寝ていた事を思い出した。
先程までの空気が霧散する。
また二人は気まずそうに見つめ合った。
それから、
「フィーラが起きちゃった」
「取り敢えず寝かし付けようか」
二人は同時に苦笑いを浮かべる。
それから、平和な一日を過ごした。
とても貴重な、何もない一日だったのだ。
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