214 地龍 壱
カイルが違和感を感じたのは、その龍を見た瞬間だ。
その龍は、転移によって突然した彼自身と、どうしようもなく重なって見えた。
いきなり飛ばされたために出る、大きな困惑。
何故こうなったか? 誰がやったか?
理解不能、だが、そんなものが分かるはずもなく、警戒をするしか出来ない。
カイルも、老婆という前提を知らなければ、まず間違いなく龍と同じ状況に陥っていた。
どんな天才でも、熟達した戦士でも、出来るのはそういう簡単な対処だけだ。それだけ特異で、どうしようもないものだった。
それだけ、老婆のやり方が反則だった。
龍という最強の生物であるにも関わらず、初手を相手に譲った理由だ。
「…………!」
だが、初手を譲ったから何だという話だ。
龍の土色の鱗は割れ、体に槍の先が僅かに刺さる。
初手を取った割に、弱すぎる成果だ。
本来ならば、腕を切り落とすくらいの事はしたかったはずだ。
だが、それ以上は出来なかった。
龍が刺激を感じた部分を睨んだ瞬間に、カイルは龍の爪の範囲から、その三倍以上は距離を空けた。
極限まで研ぎ澄まされた本能が、そうさせた。
逃げこそが、最善の手と教えた。
鋭く、刃物のように視線を尖らせる。
槍の柄を、全力で握る。
ドッシリと根を張るように腰を落とす。
震えないように、逃げないように。
恐怖と、勝てないという予知じみた確信を隠して、抑えつけるために。
しかし、これは意地の領分だ。
構えたのは戦うためではなく、逃げないため。
どんな相手にも逃げず、勝ってみせるという意思表示であり、だからといって龍に勝てるというものでもない。
力の差は歴然だった。
マトモにやり合えば絶対に負ける。
そんな無情な事実だけが、横たわっている。
「マジぃな……」
『ふむ、そういう事か……』
カイルは、龍の言葉を聞いた。
驚くべき事なのだろうが、ただでさえ薄い自分の勝ちの可能性をこれ以上薄められない。
カイルの精神は、限りなく透明になった。
敗北必定という事実すらも掻き消すように、個人の生み出すブレを消そうとしていた。
だから、カイルは、迂闊を晒さない。
一部の隙もなくならなければ、勝ちはない。
自分の中の最大を出し続けなければ、何もできずに終わってしまう。
龍の言葉には、反応を示せない。
そこに気を取られれば、殺されるからだ。
『我らが王の絶望が、ついに来たか』
反応はしない。
一瞬の判断の遅れが死に繋がる。
意味を問いただす事に旨味も感じない。
だから、このままでいい。
普段は荒い気性を、この一時だけは封じ込め、感覚だけを尖らせ、集中する。
どんな言葉にも揺らいではいけない。
波紋一つない水面のように静かに、そこに映ったものに完璧に対応しきる。
カイルは、唯一の正解に辿り着いていた。
負けないための、最も効果的なやり方に。
『……いつかは、来ると思っていた』
龍が攻性に移れば、即座にコレを叩く。
出鼻という刹那だけは、考えるまでもなく力で大いに負けているであろう自分が優位に立てると気付いた。
注意深く、カイルは龍を観察する。
鱗に囲われていて見えないはずの筋肉の動きが見えるほど、深く、沈むように集中する。
『五百年、平穏とは言えなんだが、滅びとは遠かった。百居た同胞も、ついに片手で数えられるほど少なくなった。我らは増えず、貴様らは増える。こうなるのは、道理であったか……』
龍の独白だけが続く。
昔を懐かしむそれには、酷い哀愁が漂っている。
敵と対峙しているというのに、龍は一向に戦う構えを見せようとしない。
カイルの存在を無視しているのではなく、取るに足らないと見下しているのでもなく、認知したからこそ、強いと感じたからこそ、嘆いている。
静かに、だが不思議と響く想いだ。
精神を限りなく透明にしていたカイルが、僅かに、ほんの少しばかり、困惑を覚えるほどに。
『我らは龍。いつだって、個の力で負けたことはない。だが、それも今日までと言うことか……』
そのまま、座り込んで眠ってしまいそうだ。
龍の嘆きは、疲れにも見える。
目を閉じ、動かなくなっても不思議ではないほどに、穏やかで、それでいて弱っている。
コレを、何と表現するか、カイルは知っていた。
龍は、心が摩耗している。
もう動きたくないと思うのは、これまでを全力で生き抜いてきた証だ。
魂の内の活力の全てが、もう費やされた。
龍の表情など人間に判別出来るはずもないのだが、その時、カイルは龍の顔が、年老いた男の顔に見えた。
『数で負け、志で負け、そして、最後には勝っていたと確信していた力で負ける。なるほど、我らにはお誂え向けの、趣味の悪い物語だ』
カイルは、観察を止めなかった。
龍が何を言おうと、どれだけ疲れを見せようと、敵として目を離さない。
少しでも情報を得ようと、必死だ。
だから、この僅かな時間でも分かる事は多い。
例えば、爪。
かなり硬そうだが、傷も多い。
鋼鉄よりも遥かに硬い龍の爪だが、使われればその分、磨耗もする。鈍り、殺傷力を失ったところで、何度も研がれ、その度鋭く変わっていったのだろう。
凄まじい量の血を吸った、偉大な爪だ。
例えば、牙。
それは断じて、食料を喰むためだけのものではない。
ただ生きているだけならば、絶対に必要のない硬度と顎の力を兼ね備えている、立派な武器だ。しかも、龍の攻撃の題名刺、大量のエネルギーを口腔から吐き出し、あらゆるものを破壊する、『息吹』に耐えるために特別頑強だ。
噛み付かれれば、ひとたまりもない。
明らかに粗暴、暴力的、しかし、ゾッとするほど美しくもある。
『誰かにとっての物語でも、我らにとっては替えの効かぬ生なのだ』
カイルの付けた傷が、みるみる塞がっていく。
強力な再生能力も、当然のように備わっている。
最も強いと評されるのも、納得だ。
能力が反則級である事など、最低条件でしかない。
『死ぬわけにはいかぬ。殺されてやらぬ。我らは、断じて貴様らの踏み台ではない。運命の操り人形では……』
龍は、前足を浮かせ、少し前に沈めた。
地震が起きたと、カイルは大真面目に思った。
一歩前に進んだだけで、この大地が大きく揺れたのではと勘違いした。
凄まじい迫力に気圧された。
まるで山が向かってくるかのようだ。
龍の体高は、それとは比ぶべくもないほどに小さいのに、その何十倍の大きさを感じ取った。
だが、それだけではない。
並の使い手ならば、戦慄だけで終わるだろう。
こんな化け物に勝てっこない、と匙を投げるだけだ。
しかし、逃げないと決め、完全に足を地面に根を張らせているカイルには分かった。
龍がその気になった途端に、大地が活力付いた。
それは、盲信する王を目の当たりにした、民衆のようだ。熱狂の渦を生み出し、手足のように操る煽動者として、龍は大地の上に立つ。
『聴くが良い、我らが絶望よ。我らは、貴様らを必ず乗り越える』
「…………」
龍の宣告は、カイルにとって意味が分からない。
だが、これが全てということは分かる。
今まで生きてきた、人生の全てを言葉にしたのだ。
誰かに対する意思表示は、そのまま強い覚悟であると嫌でも伝わる。
あまりにも、人間くさかった。
こういった覚悟や信念は、人からしか感じたことのない洗練さが伺える。
研ぎ澄まされた、悲壮そのものだ。
「やってやるよ」
カイルは、察した。
確固たる覚悟を持たねば、戦いにすらならぬと。
獣ではない、呪いではない。
そして、龍ですらない。
誇り高き一匹の戦士が目の前に居る。
ならば、己も研ぎ澄ませねばと感じ取った。
「カイル。『勇者』に付き従う者の一人だ」
『「地龍」ヴァラギアス。貴様らを屠る者だ』
名乗りを上げてた後、大気が爆ぜた。
二人の衝突は、凄まじい衝撃波を生み出した。




