199、細胞の一つまで
テストめんどい……
しばらくはむりぽです……
クララの視界がグルリと回る。
天が下に、地が上に。
コトンという軽い衝撃が頭蓋骨から伝わって、辺りには赤色が散乱としていた。
土の匂いが強制的に鼻孔に入ってくる。
一部は口の中に入り込み、ジャリジャリとした感覚と匂いが口内を支配し、気分が悪い。土を舐めさせられると、昔しごかれていた時代を思い出すからだ。
舐めさせられた屈辱より、とにかく昔のことが浮かんで来る。
たちの悪い呪いのように離れない。
未練や、後悔という名の無数の見えない手が、張り付いて、引き込もうとする。
きっと、これで後ろを向くのは良くないことだ。
余計なことを考えて、無駄に意味を求めたのなら、行動に健全性が無くなっていく。
動きは鈍り、思考は弱まる。
文字通り囚われて、動けなくなる。
だが、それでも後ろを向かねばならなかった。
敵を確認するために、必要だった。
だから、すぐにクララは振り向こうとした。
相手の予想などついているが、ひとまず確認する必要があったからだ。
どれだけ無様な姿になったのか、を。
男の最期の姿を、収めようとした。
けれども、想像通りでバレバレの下手人の顔を見ようとしたのだが、どうにも出来ない。首から下が切り離されたかのように、何も感じないのだ。
いや、ような、ではない。
実際に胴と首が繋がっていない。
痛みすら感じない致命傷だ。
当然自分の意思で動かせない、動けない。
だが数秒、動きだけはこの物理法則で保証された。
ゴロゴロと転がり、それから止まる。
ちょうど後ろがよく見える位置だ。
嫌味なくらいに、クララの首を断った者の姿がよく見えている。
「はあ……」
溜息が漏れる。
息を吐き出すための肺はないが、何となく、気分的に出たものだ。
実際は溜息と言えるほど、はっきりしない。
だが、呆れの感情はしっかりある。
無様を嘲笑ってやろうと思ったのだが、そんな気も失せてしまった。
嘲笑うべき無様も、過ぎれば呆れて、本当に何も言えなくなる。
見ただけで、未練と後悔と失態が分かった。
呆れて、驚いて、軽蔑していた。
姿かたちや覚悟や信念や、願いや苦しみも。
「アホらしい……」
空気は送られない。
舌や喉、唇は言葉の通りに動いたが、音にならない。
言葉としては未成熟で、形にもなっていない。
とても小さくて、か細くて、無形のもの。
けれども、言った相手にはきちんと通じてしまっているようだ。
表情や空気の流れ、さらにはクララの隠しきれない嘲りの想いを、感じ取ったようだ。
理性を溶かして戦う力を得ている彼に、その憤怒を抑えるすべはない。
ドカン、と音が鳴る。
グシャリ、と弾かれる。
眼球一つだけ、遠くにポンと飛んでいく。
最後の瞬間に焼き付いた光景は、
「BOOOOOOOOO!!!!」
暴牛と人が混じり合ったような、化け物が居た。
※※※※※※※※※※※
「そんな……」
知らなかった、とは言えない。
元から怪しいと感じていた上に、クララにその怪しさを気付かれた事で、彼を守りに来たのだ。
何を言っても、きっと言い訳になる。
だから、当然といえば当然だ。
この光景を見ても、驚きが出ない。どちらかと言えば、納得や失態の意が強かった。こうなるだろうな、という予感があって、だから、しまったと思ったのだ。
先が見えていたなら、避けられたはずだ。
いくつも道筋があって、情報があって、こうならないための対策もあったはず。
けれども、こうなってしまった。
だから、しまった、なのである。
自分の怠慢だと信じてやまないマナは、状況を全て呑み込むより先に自分を責めていた。
「…………」
首を斬れば、生物は死ぬ。
死に方の種類を人に尋ねれば、候補として一つか二つ目には出て来るだろう。
死への近さで見れば病気や毒、内臓破損などの比ではなく、こうなったら瞬間的に死へ叩き込まれる。どうあっても不可逆であり、戻す事は叶わない。
基本的には。
頭部を一気に切り離せば、しばらく頭だけで生きている。
その間であれば、まだ間に合う。
最高位の神官ならば、首を繋げ直し、死から引き戻す事が出来るのだ。
死のラインが曖昧になっているからこそ可能な、神の奇跡と呼ぶべき偉業である。
しかし、
「こう、なっては……」
牛人は、クララの頭を踏み潰した。
怒りに支配されて、ぐちゃぐちゃになった肉片にすらも攻撃を続ける。
何度も何度も地を叩き、地響きが鳴り、巨大なヒビが出来上がってもだ。思い通りにいかない幼子のように、めちゃくちゃに、デタラメに、無作為に。
理性など欠片も感じない暴力で。
こうなれば、復活も回復も、なにもない。
脳の破片の一つ一つが思考を有しているのか?
細胞の一つ一つがまだ生きているのか?
まだ死んでいないのか?
全て、ノー、違う、だ。
人間はそもそも、首を斬られれば死ぬ。
治せる者もほんの僅かな一握りほどは居るが、本来ならばそれは不可能なはずのもの。
さらにそこから、まだギリギリ生きている頭を潰されたのなら、もうどうしようもない。どれだけ手練れでも、天才でも、神の使徒でも、覆せない。
マナから見て、クララは確実に死んだのだ。
圧倒的だった最凶の化け物は、一瞬の油断と、致命的な計算外に殺された。
救うべき対象は、居なくなった。
己のミスで、己の間違いで。
完全に終わった。
守れなかった。
そして、こうなれば先も見えてくる。
「このままでは……」
明らかに暴走している。
街から離れた場所ではあるが、その存在を嗅ぎつけて、人々を殺戮しないとは言い切れない。
いや、必ず殺すだろう。
魔物の面が、人の面を陰らせた。
人らしさなど全て無に帰して、ただ暴れて、ただ壊すだけの存在になっている。
マナの言葉は、まず届くことはない。
ここまで来れば、諦めるしかない。
一人では止められない。
街に辿り着く前に殺すしかない。
もしクララを戦力として数えられたのなら、彼が正気に戻るまで時間稼ぎも出来たかもしれない。
だが、マナ一人に、しかも手負いの状態でそんな事をする余裕はない。
勝てるかどうかも怪しい。
殺すつもりで戦うしかない。
その結果、善良な彼は、マナによって殺される。
マナにとって、それは屈辱であり、身を抉り出すかのような苦痛だ。
「街が……でも……」
迷うのは、仕方ない。
動くことを忘れたのも、仕方ない。
自分の失態と、それによってもたらされる損失の可能性、死の重さで頭がいっぱいになっていた。
幸いなことに、牛人はまだ動かない。
いや、意味ある行動は起こしていない。
まだ狂ったように、クララの頭部だったモノを踏みつけ続けている。
…………
今なら、殺せるだろうか?
「もしかすれば、」
気を取られている。
先程、クララがそうであったように。
今ならば、きっと出来てしまう。
躊躇するのならば、きっと数え切れない人間が殺され、救いきれない後悔が発する。
そこに流れる涙は、禍根の味がするだろう。
何で助けてくれなかった、と、彼女の脳の中でけたたましく叫ばれるだろう。
これはただの被害妄想で、未来予想だ。
特に後半は被害妄想の色が強い。
けれども、この可能性を放置できるほど、能天気な頭をしていない。
今決めるしかないのだ。
友人を殺すか、民を見殺しにするか。
「く……そ……」
愛を、マナは知っている。
向けられることは重く、良いものなのだ。
尊いものを向けてくれた彼に対して、マナは刃を向けなければならない。
マナが愛に応えなかったとしても、無碍に、おざなりに、適当にあしらえるものではない。
意識にこびり付いて、離れない。
どこかで、躊躇があるのを自分で感じている。
何もかもが足りない。
時間、力、覚悟。
この瞬間に欲しいもの、全てが足りない。
「クララ」
居てほしくなかった。
戦いたくはなかったから。
心苦しくて、申し訳なくて、痛い。
こんな事をさせるために、こんな状況を作り出すために、戦ったのではないのに。
蹲って、泣いてしまいたい。
ことごとく、目指したモノとはかけ離れた状況に陥っている。
心が折れそうで、とても辛い。
死なせてしまった事も、これから死ぬことも、これから死をもたらす事も、全部が全部痛いこと。
辛い記憶をなかったことにしてしまいたい。
「BOOOOOOOOO!!!!」
「…………」
もう、辺りはめちゃくちゃだった。
何故か偶然、マナの近くに影響が出る暴れ方をしていなかったようだが、他は対象外だ。
見るに堪えない景観に変わっていた。
土も、木も、草も、生き物も、何もかもがデタラメに混ぜられている。
元の風景など、遠い記憶の中にしかない。
それは冒涜と暴虐の地獄だ。
放っておけば、もっと酷いことになる。
自分よりも大きなものでも、小さなものでも、通れば混ぜられて終わるだけ。
ありありと眼に浮かんで来る。
グロテスクな映像に書き換わり、美しい景観や町並みは消えてなくなる。
死だけが、埋め尽くされた世界になる。
守るべき人たちは弄ばれて、マナの存在意義は全てゴミになる。
「今しか、ない……」
止めるには、今しかないのだ。
クララがそうであったように、マナの存在が牛人から外れているこのタイミングしか。
ボロボロの体、折れた武器、尽きかけのエネルギーで、まともにやって勝てる相手ではない。
意識の外から、首を完全に断つ。
唯一の勝ち筋にして、唯一の生存戦略。
マナが死ねば、対抗出来る人間など皆無だ。コレの存在を知らせる時間や余裕もなく、出来ても住民を逃しきれるとは思えない。
状況は既に差し迫っている。
やるという選択肢しか、残っていない。
「…………」
例え、今マナを攻撃しない事に理由があったとしても、関係ないのだ。
恋した相手を、攻撃したくないだとか。
愛した相手を、殺したくはないだとか。
そんなことは関係ない。
たったそれだけの事にしか理性が働かないのなら、もう殺すしかないのだ。
だから、躊躇ってはいけない。
守る義務があるのに、使命があるのに、人生を投げ売ってもいいと憧れたのに、それは虫が良すぎる。
中途半端になるくらいなら、自刃すべきだ。
一番は民。
二番は領主である、カール。
自分の優先順位はそれよりもずっと下だ。
だから、
「やる」
剣を構える。
折れた剣だが、鋭利さが無くなった訳ではない。
クララの肉体すら両断したマナの剣技は健在で、まだ相手は油断している。
瞬時に、密かに、全霊で斬れば。
首さえ断てば、それで死ぬ。
アレに回復の能力はあれど、回復の権能は、それだけはないのだ。
そして、
「BOOOOOOOOO!!!」
「ころ、」
「うっせえ!」
マナが飛び出す前に、牛人は叩き伏せられた。
ぐちゃぐちゃに踏み荒らされたはずの、黒髪の少女が、あっという間にブチのめした。
※※※※※※※※
「はあ、ほんと、惨めだよねぇ……」
クララは、退屈そうに牛人を見ていた。
残念そうで、憐れんでもいただろう。
くだらなくて、それでいて、つまらない人形劇を見せられたなら、操り手をこんな風に見るかもしれない。
「どれだけ必死になったって、何にも意味ないのさ。君があれだけ暴れても、ボクは痛痒とも思わない」
クララは、戦闘開始時と変わっていない。
その白い肌には傷どころか、汚れすらない。
しかも、服すらも同じだ。
穴や切り裂かれた痕はない。土や血の汚れはない。シワすらも、見当たらない。
これまでの牛人たちの攻撃を、全て馬鹿にしたような見目だった。
だが、それもそのはずだ。
クララは神官として、最高位をさらに踏み越えた領域に立っている。
クララにしか不可能な、御業がある。
「ボクはね、細胞一つからでも全身を再生できる。君たちと違って、命の見方が違うのさ。時間が来るまでは、ボクは絶対に負けない」
クララのパフォーマンスは、一週間の期限内では決して衰えない。
神聖力を許容しきれる時間まで、疲れや怪我もなく、常に全力で戦うことが出来る。
刻一刻と戦力が消費される牛人たちとは違う。
戦闘能力は、はじめから負けている。
時間とともに、差は大きくなっていく。
百六十八時間という膨大な時間を、耐えられるだけの余力はない。
容器をひっくり返したように力を振り絞っても、絶対に耐えられない。
これが、絶望だ。
超えることが出来ない、端からそうされる事を計算されていない壁の事を、絶望というのだ。
高い壁ではなく、壊せない壁ではなく、越えられない壁のことをそう言う。
「残念だったね。勝ち筋がなくて」
牛人に、最早理性はない。
ただ本能のままに暴れるだけの存在だ。
けれども、何故か、クララの説明に聞き入って、絶望しているように見える。
「B、BOOOOOOOOO!!」
「本当に、憐れだよ、君たち魔物は」
これは、時間の無駄でしかない戦闘だった。




