169、言い訳
「ボクは、貴女に預けます」
そうするしか、彼女には出来なかったのだ。
彼女には、そうするしかなかったのだ。
異端審問官の性質は、いわば嵐である。
近付くものを全て吹き飛ばす、無敵の災害。
もたらすモノはあくまでも裁きであって、慈悲も赦しもそこにはない。
全てを壊す事しか能がない。
クララの隣に居れば同様に傷つき、後ろを歩けば悲劇ばかりを見る事になる。
近くに置くことは絶対に出来ない。
クララは、自分は何かを守る事には向いていないと思っている。ただ生きているだけで、周りに厄災を撒き散らす害悪だと認知しているのだ。
自分に何よりも厳しく、冷たい。
己という存在の定義がぶれないから、自分に対する物事への妥協がない。
揺れる原因は、ことごとく消しておきたい。
クララの全てであるアイリスや、半身とも言うべき相棒であるアレンとは違う。
側に置いてはいけない、普通の存在だ。
この世界にうじゃうじゃと溢れているその他大勢と同じ事で、決して自ら触れてはいけない弱い存在だ。
だから、こうするのが正しい。
逃げるように誰かに全てを丸投げして、二度と目を向けないようにするしかない。
何を言われようとも、その選択に間違はない。
どんな誹りを受けようとも、この放棄は絶対に選ばなければならない。
「あの子を、ボクが抱える資格はない。こんな人殺し、関わっちゃいけない」
当たり前の話だろう。
殺したのだから、殺した相手のその家族に生涯近寄らない事を選ぶのは、一つの選択肢だ。
被害者当人が何も知らず、何も覚えていなかったとしても、この道を選んだ。たとえ物心が付いていたとして、それでも変わらずにここへ足を運んだだろう。
クララには、贖罪など出来ないから。
何をどう間違えたとしても、その被害者のために自分の人生を使うつもりなどまったくなかったから。
「殺すのは、異端だけ。災いをもたらすのも異端だけ。ちゃんと、線引してる。だから、預けるしかない」
一番の幸福を考えたのだ。
いずれは、言葉を話すようになるだろう。
それから足を広げて歩き回り、多くのものに触れ、多くのものについて考える。その中にはもちろん人もいて、仲良くなったり、喧嘩をしたりする。
働くようになり、恋愛もして、結婚もする。
子供を作るだろうし、孫も出来るだろう。
そして、最後には必ず、死ぬときが来る。
クララでは、そんな所まで幸せの保証は出来ない。
だが、人生のはじめの部分、そこをつまずかないように、整えてあげられるくらいだ。
その一手が、人に預ける事だった。
そして、その上で信用できるのが、カレンだった。
別にカールでも良かった、というか、カレンと会うのが気まずいからカールの方が良かったのだが、結局アレがクララの期待通りになるはずなかった。
「人並みに、幸せを願ってるんです。殺す相手は不幸を、そうでないなら、せめて幸せを。その子は、ボクと無関係ではありませんしね」
愛してはいない。
別に好きでもない。
だが、放っておいて何も感じないほど、遠い存在でもなくなった。
せめてもの義理立てに、こうしようと思った。
真に願うからこそ、恩人を巻き込んだ。
自分勝手に滅茶苦茶することなんて、今さらだ。
クララはやると決めたら必ずやる。
自分がブレるような事は、決してしない。
「お願いします。勝手なのは分かってますが、何とか受け入れてはくれませんか?」
「…………」
カレンは、ただ聞いていた。
無言で、クララに言葉を重ねる事はなかった。
聞きたい事なんていくらでもあるだろうに、黙ってクララに喋らせただけだ。
表情からは感情を汲み取れない。
怒っているかもしれないし、悲しんでいるかもしれない。クララでは、カレンを推し量れない。推し量りたくないから、分からないのかもしれない。
「申し訳ない。勝手な子で、申し訳ない。貴女に育てられたのに、こんなロクでなしになって申し訳ない」
「…………」
「預けたら、すぐに出ます。もう、ここには顔を出しません」
顔も見たくなくなるような親不孝だったはずだ。
健やかに、穏やかに過ごしてほしかったはずだ。
今の惨状を見てしまえば、縁を切りたくなっても不思議ではない。
殺めた人間は、千では利かない。
よくもまあ、たった七年でここまで殺せたものだ。
幸せを願う人間の事を想うなら、自らを彼らの遠くに置くべきだった。
「アイリスには、ボクの事を話さないでください。彼女には、ボクの事を知られたくない」
存在そのものが、他人を不幸にする。
娘が殺人鬼となったカレンの心内、どれほど複雑なものなのかは想像に難くない。
こうなるから会いたくなかった。
わざわざ、知りたくもなかった事を教えられる者の心境なんて、考えるまでもなくロクなものではないのだ。
恨みや憎しみ、怒りだけが溜まっていく。
打ち捨てられたゴミのように、結局募って募って、爆発してただ傷付く。
カレンはきっと、それを分かっている。
「どうか、どうか幸せに。幸福を逃さないよう、ただ穏やかに過ごしてください。きっと戻って来るアイリスに、幸せを分けてあげてください」
……ここが一番、言いたかったのかもしれない。
何でもよかった。
どれだけ嫌われてもいいし、どれだけ罵られてもいい。
けれども、アイリスの幸せのために、カレンと孤児院というピースは不可欠だ。
クララの存在を、そこに関わらせたくない。
これまで預けるだの、殺しただのの話をしたが、結局あまり興味はなかったのかもしれない。
ただ、幸せになってほしかった。
アイリスの幸せのために、この場所は平穏と幸福が溢れた場所になってほしかった。
害を撒くクララは、そこには似つかわしくない。
そこだけは、理解してほしかった。
頑固で真面目で、異常なクララの考えだ。
カレンは小さく息を吐く。
それから真っ直ぐクララを見つめる。
思わず体が震えるくらいに、圧倒された。
とても、とても嫌な予感がした。
「クララ」
「はい」
叱責を受けるのは想定内だ。
殴られる可能性もある。
だが、どんな事を言われても引く気はない。
カールの時は仕方がなかったが、ここ以外にまともな心当たりがないのだ。
不退転の決意が既にある。
どれだけ否を突きつけられても、必ず望みを突き通してしまおうとクララは思っていた。
だが、
「貴女はアホです」
気が抜けるほど、棘のない言葉だった。
責めている感じがしない。
悲しんでも、怒ってもいない。
ただ、呆れているのがとにかく分かる。
「昔から、ボーッとしているのに変な所で意地を張るのは知っていました。ですが、はあ……。大人になっても、そういう悪い所は変わらないようです」
「…………」
「頭にきました。再教育してあげます」
クララは混乱していた。
何を言っているのか、意味が分からなかった。
ただ、カレンの曇りのない目と、クララ自身が抱いたような意思を突き通す強さを感じた。
「拒否権はありません。しばらく、ここでちゃんと働いてもらいます」
「いや、いやいや、無理ですよ? ここにだって短い休みで無理矢理来たし……」
「ちょっとくらいその休みが長引いてもいいでしょう? 神様もそのくらいの度量はあるはずです」
クララがこれまで無理に押し通してきたような、とんでもない滅茶苦茶だ。
正直、自分の悪い所を見せつけられた気がした。
ずっとこうして、滅茶苦茶をやってきた。
そのツケが今、回ってきたきがした。
「来なさい。ここで少し休みなさい。そして、仕事を手伝いなさい」
「……休めと働けで矛盾してますが」
「何でも構いません。ここに居なさい」
これ以上聞いてはいけない。
これは、引き込まれてしまう。
「だ、駄目です。やる事は沢山残ってます」
「ここにもやる事はあります」
「他に仕事を任せられる人間が……」
「今すぐ神が死ぬ訳でも、信仰する人間全員が死滅する訳でもないでしょう?」
ここに居着いてしまいたい。
神の事なんて全部忘れて、ここに居たい。
穏やかな優しさに包まれて、ゆっくりと時間を使っていきたい。
許されざる、甘えだった。
クララの魂ごと、その甘えは強く誘惑する。
誘惑に負けそうになるなど、初めてだ。
「来なさい。二人くらい、すぐに受け入れられるくらいの蓄えはあります。どこかの誰かの仕送りのおかげで」
「駄目です。駄目、駄目、駄目です……」
「良いです。久しぶりに帰ってきたんですから、少しくらい居着いてください」
「駄目です! そんな事、神が許しません!」
必死に抗った。
自分に出来る言い訳を全て使って、この抗いがたい誘惑から逃れようとした。
気を緩めれば、視界が滲む。
油断すれば、負けてしまう。
全ての力を使って、逃れようと足掻く。
しかし、
『良いんじゃない? ちょっとくらい』
「!」
狙い澄ましたように、声をかけられる。
悪魔という言葉が浮かぶほど、クララが一番揺れるタイミングで、一番揺れる言葉を吐き散らす。
神とは、そういう性質だ。
善意とも悪意とも取れるような事を言う。
「……クララ?」
「…………」
『良いよ、別に。大仕事が終わったから、別に異端審問官の手は必要ない。それに、今は目立った異端の動きもない』
何かの罠かもしれない。
神は徹底して信用しないと決めている。
絶対に、鵜呑みにしてはいけない。
いけないのに、神の言葉に、聞いてはいけない麻薬のような言葉に、引き寄せられる。
『こういう、何もない時間はままあるさ。十年くらい纏まった休みがある時もある』
「クララ、どうしましたか?」
「…………」
『せっかくの里帰りだ。そうだな、一ヶ月くらいはいても良いんじゃないかな?』
クララにとって、それは最悪の言葉だった。
どこで、いつ殺せと言われるかを期待していたのに、その真逆の言葉が返ってきた。
本当にこれは最悪だった。
今までされてきた嫌がらせの中でも、これは類を見ないくらいに意地が悪かった。
クララの弱さに付け込む、甘い猛毒だった。
これで、言い訳は出来なくなったのだから。
ここに居るという選択しか、取れなくなったから。
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