165、その先には
遅れました、申し訳ない。
「君の意見は良く分かったよ」
変わらぬ微笑みで、カールは言う。
まるで劇でも見ているかのような、興味深く、それでいて面白そうにしている。
クララの嫌いな、不愉快な目だ。
数百の羽虫に集られるが如く、隠した素肌に鳥肌が立ち、受け入れられぬと神経が逆立つ。
この男の事は、クララは昔から嫌いだった。
された仕打ちは既にどうでもいい。
コイツさえ居なければ、何でこんな奴がのうのうと、死んでしまえばいい、などとは考えた事もない。
ただの一度とて、悪しき日を引きずった事はない。
だから、単純にこの男の性質を受け入れられる度量が、クララにはなかったのだ。
嫌いなものを嫌いだと、理解はついぞ一度たりとも出来なかった。
「でも、語るべきはもう一人居る。君はまだ、ただいまも言っていないだろう? なら、まずは家に帰るべきだ」
「…………」
「これは常識というやつだよ。こんな事も出来ない君の願いなど、聞くわけがないな」
「……不愉快だ」
「だろうね」
嫌味、皮肉、そして道理である。
こうなる事は決まっていたのだろう。
クララが自分の主張を曲げず、どうしても孤児院へ行こうとしない場合だ。最終的にこういう流れになって、一番クララが断らないだろう言い方をする。その道筋を、カールが思い付かないはずがない。人心の掌握については、クララよりも遥かに長けているのだから。
クララの返答も、きっとカールの予想通り。
彼女が不愉快になる言葉を知っている。
淡々と、神経を逆撫でし続ける。
「だが、流石にそれはないだろう? 君の事を想う人間は、実はとても多いんだ。彼らの想いを蔑ろにするのは、良くないことだぞ? 君の想いは通したい、だが他人の願いは全て壊すなど、道理に合わない」
「……貴方が、そんな正論を本心で吐く訳がない。」
「まあ、そう思うだろうね」
気持ち悪かった。
目の前のヒトガタが、ただの爺に見えなかった。
もっと深くて、違うカタチをしている。
クララが心底嫌う、超越の素質だ。
「私も人の親という事さ。孤児院で、君たち三人を待ち続ける彼女を不憫に思っただけだよ」
「嘘だ。どうせボクに媚びるより、アレンとアイリスの方に恩を売った方が良いってだけだろ?」
「それもあるかな?」
損得しか、そこにはない。
クララも物事に生まれる損得は常に考えるようにしているが、ここまで自然ではない。人間は、損得抜きの考え方をしない事を美徳とする。だが、これは損得でしかモノを一切見れない性だ。
人間性など皆無でしかない。
関わりたくない人種なのは、分かっていた。
「結果はどうあれ、私がこうして引き止めたなら、あの二人はきっと私に理解を示す。それに、こういうのはあとになって苦しくなるものさ。ちゃんと大人が言っておかないと、ね?」
「……万一ボクが意地を張るのを止めたら、それはそれで恩を売れる?」
「なんだ、気付いてたのか」
「信用を集めるのがそんなに大事か? 自分の人格全部を偽り続けても」
少し聞いた事を後悔した。
こんな事を聞いても、クララの予想通りの答えしか返ってこないのに。
「何を言うかね、当たり前さ」
「…………」
それもそうだった。
生き方にまで染み付けば、それは呼吸するのと何も変わらないのだ。
人を騙し、人を信じさせて、利を生む。
海千山千の政治の怪物がコレだ。
醜い化け物は、小綺麗な怪物が気持ち悪い。
昔から、ずっと彼のような人間は相容れない。
「君が考える事は分かってる。だが、私は君の思い通りにはならない。その方がずっと良い方向に転がるからね。だから、自分の手で持っていきなさい」
「嫌だね。そんな事しても何もならない。誰にも会わないし、すぐに出ていく」
人を殺せるほど鋭く、クララはカールを睨む。
だが、機械のようなカールには通じない。
冷や汗一つかかず、顔色も変わらない。
「子供かね? 嫌な仕事を笑顔でこなすのが、大人というものだよ、小娘」
「これは仕事じゃない。ボクの仕事は神から与えられた使命の事だ。履き違えるんじゃない、老害」
二人は何も変わらない。
恐ろしい、底知れない空気感で包まれる。
「大体、ボクらの給金をいくら渡してると思ってるんだ? もう十分借りになるくらいはあるだろ」
異端審問官として得た給料のほぼ全ては、アレンが仕送りに当てている。
クララは自分の分はアレンに預けているので、二人合わせてかなりの額が送られているだろう。アレンはカールにまず送っているのだ。アレンの意図を、この貴族生活が芯まで染み付いた男が分からない訳がない。
相当、懐に入れたはずだ。
多すぎる金を調整するように、この男は。
クララは睨む。
軽く歯ぎしりして、その白い歯を獣のように見せつけながらだ。
だが、カールはまだ余裕そうである。
クララの言葉は確かに正論だが、それでもだ。
もう十二分の利益を得ているであろうし、そのツケをコレで払えと言われても頷く他ない。
だが、カールはクララに微笑みながら、
「何の事かな?」
「あ?」
「私はアレンの分しか貰っていない。きっと、君の想像している量の半分以下さ」
カールの言葉に、嘘はない。
魔術で今調べた上に、抽象的な言葉で誤魔化されている訳でもない。
頭の中ではてなが浮かぶ。
だが、整理出来ていない内にカールは言う。
「確かにそれなりに儲けたが、結果としては利益は微増だ。返せたとすれば、あの日君が壊した館の改修費、怪我人たちの治療費、孤児院の増築費、ここ七年の孤児たちの生活費、といったところか? 私に何か命令したいなら、もう少しだけ金がいるな」
「…………」
「異端審問官の給料もシケテる、と思わないでもなかったが、まさかアレで一人分にすら満たないとは。ああ、そういえば即金で払えるか? 額次第で、君の言う通りにしてやらんでもないぞ?」
「金は、お小遣いくらいしか持ってない……」
そんなまさか、と言いたい。
二人でかなりの金を支給されたが、二人共金を使い込むような事はしなかった。
一般的に見るなら、金を完全に騙し取られている。明らかに詐欺で、黒は間違いなくアレンだ。
その事実に、クララは呆然とする。
裏切られたショックもそうだが、どこにあんな金を使い込む要素があったのかという疑問もあった。
「お小遣いか、可愛らしい。露店でお菓子でも買って来るかね、お嬢さん?」
「いや、でも、そんな……」
上手く言葉がまとまらない。
確かにクララは、アレンが裏で何をしていたのか、考えもしなかった。
目に届く範囲で怪しい行動はなかった。
目の届かない範囲は、彼の事を深く信頼していたから、監視などはしなかった。
聞くしかないが、きっとはぐらかされる。
クララよりもアレンの方が話し方が上手いから、もしかすれば何一つ辿り着けないかもしれない。
ぐるぐると思考が巡る。
どうして、ふざけるな、嘘でしょ、あり得ない。
こんな、なんの解決にもならない言葉だけが回っては消えていく。
弱々しく、少し泣きそうになっている。
黒い髪をイジって、考えるのに忙しそうだ。
それをカールは満足そうに頷いて、
「まあ何にせよ、君はあの孤児院に行くしかない。君の本当にやりたい事のためにはね」
「…………」
未だに忙しそうだが、カールの言葉に咄嗟に頷く他はなかった。
どうにも想定外すぎたのだ。
アレンの動き、これまでの彼の行動。
不自然な所は何一つとしてなかったはずだ。しかし、こうして聞いた限りではおかしすぎる。
聞いてみたい気もするが、怖くて聞きたくないという気持ちも強い。
だが、クララにカールは配慮しない。
気にせず、傷を抉り続ける。
悪意しかない笑顔で、何の躊躇いもなく。
「さあ、行き給えよ。君の願いは悪いが聞けない。続きは母親としてきなさい」
未練を刺激する言い方だ。
厳しく、苦しく、卑怯な言葉だ。
「私は彼女に、恩を売っておきたいからね」
※※※※※※※※
投資をする時、当たり前だが実入りが良い方を選んで資材を投げかける。
投げたモノよりも多くのモノを得たいから、期待を込めて一時自分のモノを他人に渡すのだ。より多くの利益が欲しいから、沢山の楽が欲しいから、賭けをする。
時々で、どれが一番良いかを見極める。
良いものには沢山賭けて、悪いものには一銭たりとも使わない。
これが当たり前の法則だ。
当然なのだが、分かっていて泥舟にモノを与えるような物好きはまず居ない。
カールもそうだったというだけの事だ。
(はあ……)
クララではきっと、駄目だったのだ。
カールとはとことん性質が合わなかった。
破滅的で破茶滅茶で、とてつもなくリスキーなクララの株を買おうと思えないのだ。
カールは堅実で、現実的かつ確実に元手を増やしていくタイプである。
なるほど、アレンを選んだのは適している。
それに、今回の件で思っているほどカールに嫌悪を抱いてはいない。
納得がクララの感情を鎮めるのだ。
なるようにしてなったと思うと、冷静な部分で理解してしまう。
(嫌だ嫌だ、本当に嫌だ……)
状況の理解だけは無駄に出来る。
嫌というほど、思い知らされる。
サンサンと照り付ける太陽は眩しく、広がる青空は美しく、鳥たちの鳴き声は耳に響き、チラホラ花が咲いている。
なるほど、とてもいい日だろう。
なのに、クララの気分だけが沈んでいる。
どんよりとした空気が流れているのが、きっと他所から見ても分かるはずだ。
下を向いて、とぼとぼ歩く姿の言い訳は出来そうにはない。
(何でこんな事になったのか……)
予想外すぎる事が起こったのだ。
裏切られたと思った。
アレンは無意味な事はしない、合理的な男だ。それでいて、とても優しい男だとも知っている。
クララと付き合いは長く、クララの意を正しく汲み、クララのフォローも上手くしてくれる。
クララが唯一、寄りかかっても良い人間だ。
その理由は、他でもないクララ自身が、彼を深く信じているからだ。
だが、その前提に綻びが生まれた。
金という、とても分かりやすい原因で。
クララとアレンの非凡さに見合わなすぎるほど、ありふれた理由で。
それがとても嘆かわしい。
(アレン……)
笑い飛ばすのが、相応しいのか?
気にしないのが、それらしいのか?
ウジウジ悩む自分に嫌気が差す。
けれども、考えずにはいられない。
とてもナイーブになっている。
最近、知人を信頼せずに殺したからかもしれない。もし彼が裏切ったらと思うと、フィリップの時よりもずっと深くショックを受けるだろう。
クララは、自分はアレンを殺せてしまうだろうもと感じてしまった。
この事を悲しいとも、おかしいとも思えない。
だが、自分が間違っているのではないかと、漠然と考えてしまう。
(気が滅入る……この状況も……)
歩けば歩くだけ、足が重くなる。
そういう呪いは受けた事があるが、今のこれはとても似ている。
鉛の塊が一つずつ増えていくのだ。
重苦しい事は、普通にストレスでもある。
分かりやすい不穏な雰囲気と合わさって、クララはこれ以上ないほど触れ難いはずだ。
まあ、前を歩く青髪の女は、きっとその事に気付いてはいないのだろうが。
「ほら、あそこを見てください! あの建物は最近できたんです! 雑貨屋さんって珍しいですよね!」
「…………」
「あ、ほら、あそこも! アレは二年前かな? 喫茶店っていうのもあんまり無いじゃないですか!」
「…………」
クララは押し黙る。
そして、マナは喋り倒す。
寝ている赤子を起こさないように、体術と魔術の全てを使って完璧に眠れる環境を作りながら。
小器用な事に、マナはその手の才能は強い。
そして、クララに赤子を任せられて、そのクララを気遣うくらいに人柄も良い。
だが、彼女は利口ではない。
悶々とするクララに、マナは空回りしている。
とにかく話を盛り上げようと必死なだけに、良い方向に転びそうにはない。
「み、見てください、猫ですよ!」
「はあ……」
「い、犬が居ました、ほら、犬です!」
「はあああ……」
「犬猫、き、嫌いでしたか……?」
回さなくてもいい気を回されて、クララは余計に憂鬱である。
マナという人間の善性は理解しているだけに、何と言うべきかも迷う。
ポンコツすぎて放っておいてもいい事に首を突っ込むし、しかもポンコツだから上手く状況を良い方に向けられるほど器用ではない。
カールはマナをフィリップの後継としたが、フィリップと違ってマナは不器用すぎた。
性質が、根っこが違いすぎる。
「ええと、お茶でもしますか? ほら、あのお店って結構美味しくて……」
「…………」
「ご、ごめんなさい、睨まないで……」
気が弱い訳ではないが、少しクララが威圧的すぎるようである。
足は止めずにそそくさと進む様子が、やはり彼女らの周りの空気が重いのだと知らしめる。
コレの影響を受けないのは、スヤスヤとマナの腕の中で眠る赤子だけだ。
「構いませんよ、別に」
「ご、ごめんなさい、ずっと怒ってるみたいだったから、なんとかしたくて……」
「それ、聞かれてもないのに言いますか?」
クララの溜息に肩を震わすマナ。
そこまで怯えずとも良かろうに、気まずそうにして目を逸らす。
悪いと思っているのか、それともどうやって会話を盛り上げようか考えているのか。
「ボクは別にどうもしてません」
「いや、でも明らかに屋敷から出る前と雰囲気が違うし。なんというか、弱ってる?」
「弱ってません」
「意地を張ってる?」
「張ってません」
「悲しんで「ません」
歩く速度が速まった。
執拗に図星をつかれて、流石にクララも居心地が悪くなったのだ。
また機嫌を損ねたとマナは焦るが、実はこれが正解の選択だった。
彼女は下手に慰めるより、尻を蹴っ飛ばされた方が力が入る。
カールが取ったやり方と同じだ。
違いは、本人に悪意があるかどうかだけ。
クララを挑発に近いかたちで言葉を吐く。
「ええと、私はあんまり頭が良くありませんし、貴女が何を考えてるか、よく分かりません」
「…………」
「でも、なんというか、逃げてる気がしてなりません。 方法はあるのに、怖がってて、そんな自分が嫌になっているというか」
「…………」
「それくらいしか、イライラしてる理由も、悲しんでる理由も思い付かないんです」
全部当たりである。
ここまで全部、マナの言う通りである。
歩く速さが高まっていく。
競歩に近いくらいの速さで進む。
周りの人間たちを追い抜き、置き去りにして、それでもマナは後をつける。
話はまだ終わっていないから。
モヤモヤに決着をつけさせたいから。
「ね、ねえ! 出来れば、何があったか話してくれませんか? きっと私なら力になれますか、」
「うるさい」
クララは、面倒に思っていた。
だから、気が付けば走り出していた。
全力でではないが、普通の人間では追いつけないくらいの速さだ。
誰にも当たらず、スルスルとすり抜けるように。
だが、それにはマナもついて来る。
「ま、待ってください。私は、」
「いいから、構わないでくれませんか?」
今度は家の屋根に飛び乗った。
さらに速度をあげて、屋根から屋根へ存分に軽業を発揮しながら進んで行く。
マナも遅れて同じ道を通るが、既にそれなりの距離が空いていた。
「本当に、待って! 私、放っておけなくて!」
「ボクに構うより業務に戻っては? カール様の騎士様はそんなに暇なんですか?」
「私も孤児院に用があるんです! それと、私は今日から三日は非番です!」
走る、走る、走る。
お荷物を抱えたマナがギリギリ追いつけないくらいの速度で、屋根から屋根へと飛び移る。
「ボクの事はいいから、喋りかけないでください。黙っていればいいんです」
「そういう、訳には、いきません!」
「無駄な事をしないでください」
「無駄じゃ、ありません!」
走る、走る、走る。
少しずつ二人に距離が出来始める。
「逃げられたら、追いかけます! こんなの、当たり前でしょう!?」
「良いじゃないですか、別に。放っておけば勝手に解決することもあります」
「わた、私は、そんなに、悠長ではありません! 自分の手が届けば、その問題も、すぐに解決するかもしれない!」
風の魔術で声を届けるクララ。
そんな余裕は一切なく、大声で訴えかけるしかないマナ。
二人の差はとても大きい。
「解決しないかもしれない。全部無駄かもしれない。そういう事例はあります」
「私は、まだ、何もしてない! なら、無駄かどうかも、分からない!」
「無駄ですよ。ボクは、貴女の事も、自分の事もとても良く分かってますからね」
「それでも、やるんです!」
目的地が近付いてきた。
五分もしていないが、案外すぐに着く。
いや、クララの足が速すぎるからか。
「フィリップさんなら、そうします!」
「!」
無意識的に足をさらに速める。
屋根を踏み潰して、足跡を残すくらいに踏み締める。
力の加減を完全に間違えた。
その名前に、思わず反応した。
「きいて、ください!」
「…………」
「ねえ! クララ!」
「…………」
「クラ、」
「うるさいよ」
一歩、全力で蹴った。
流石に全力は屋根なんて足場では出来ないから、空中に蹴り出して、風の魔術で足場を作った。
後ろのマナを無視して、全力で進んだ。
パリン、という音がする前に、クララはその場から完全に消え去った。
ド オ オ オ オ オ ン !
着地。
肉体に傷はなし。
地面にはクレーター。
そして、目の前には孤児院。
全て、予想通りだ。
「…………」
ただ、予想と違ったのは。
「あ?」
「だ、誰ですか、貴女は?」
目の前には、男が居た。
クララの存在を事前に察知し、その上で目の前に来るように備えていたかのように、居た。
見知らぬ、誰か分からぬ男だ。
「誰だ、お前?」
クララの知らない人間が居た。
面白ければブクマ登録お願いします。
下の☆も埋めてくれると嬉しいです。