9、騎士
彼の母はいつも言っていた。
『弱い立場の人間の事を考えなさい』と。
だから、彼はそうしたし、これからもこの言葉を胸に、事を成していくのだろう。
彼、フィリップ・サドレーは騎士だ。
大陸東部に位置する大国、リスフィア王国の中にある領の一つ、サドレー領。
サドレー領、領主の次男坊。
領主、カール・サドレーの三番目の妻の長子だ。
だが、彼に貴族としての力はない。
彼は先程も述べたが、三番目の妻の子。
立場と権力こそ貴族としてはあるものの、それも最低限。
領主の気まぐれで拾ってきた女に、気まぐれで孕ませた結果だった。
つまり、平民の子。
人権を与えられる事自体が奇跡に近い。
生まれる前に縊り殺されても、おかしくはなかった。
彼が生まれて来れたのは、領主の気まぐれと、当時の男児の少なさから。
要は、長男のスペアが足りなかったから、取り敢えず生かされた。あと一人男児が生まれていれば、放り出されて死んでいたはずだ。
まあ、生まれたからといっても、尊重されるなんてことはない。
腫れ物のような、誰も触れたがらない人種である。
だから、彼は常に、嘲笑われる側の人間だった。
貴族に必要な力はなく、扱いも悪く、家の端に追い込まれ続ける。家督相続なんて夢のまた夢の話であり、味方は彼自身の母だけだ。
領主である父とは、片手で数えられるほどしか話をした事はなかったし、使用人からは無視され、他の兄弟からは虐げられる。
そこから時間が経って、ある程度成長してからも育てられたのは、彼が才能を持っていたからだ。
一応、才能だけはあったのだ。
一通りやらせれば、一通り何でもできた。
算術、政治に剣術、魔術までなんだってである。
教育についてはそれなりだったのだ。
ここは必要最小限ではなく、そこそこのほどほどに行ってもらえた。
彼はそのまま、彼のままで成長していく。
剣も魔術も、他の兄弟よりも遥かに優れていた。
彼自身の心根には貴族の傲慢さはなく、どこまでも他人に対して真摯であった。
家督は継げず、能力はあり、人に優しい。
奇跡のような積み重なりによって、物語に出て来るような、絶滅危惧種の騎士はできた。
何かが違えば、こうはならない。
誰もが苦しい環境の中で、ひたむきにいられる訳ではないのだ。
腐る事が一番楽だった。
自分なんて、と全部を諦めていれば良かった。
けれども、頑張って足掻いた。
自分が価値を示せば、その分母を生かせると思ったから。
『弱い立場の人間の事を考えなさい』
その言葉を聞いて、一番に思い浮かぶのは母の事。
妾という立場で、常に蔑まれてきた。
押し込まれ、追い込まれ、体を悪くした。
病の末、ろくな治療を与えられる事もなく、彼にそれだけを言い遺した。
口癖のように言っていた、この言葉。
常に母は変わらなかった。
一人になった所で、長くこの言葉と向き合い続ける。
長い、本当に長い時間をかけて。
※※※※※※※※※
向き合いながら、騎士になった。
そもそも何でもできたのだ。
だから、騎士になるのは簡単だったし、周りもその道を進んだ方が都合が良いと止めなかった。
騎士になって、その言葉を思い出しながら過ごす日々が続いた。
派遣されて、魔物を斬った。その結果、とある村を守った。
盗賊団の殲滅の任務を得た。その結果、行商は安全を得た。
街で迷子を親元へ帰した。その結果、感謝された。
色々な善行を積み重ねた。
努力もしないのに出世しようとしている同僚や先輩から、無茶な任務を任された事も多かったが、問題はなかった。
彼にとって、一番大切だった母の言葉を守るためなのだ。
むしろ、感謝しているくらいだった。
たくさん感謝された。
たくさん救ってきた。
何度か、何十度目か、何百度目か分からないくらいの感謝を受けたとき、彼はコレを続ける事こそ使命と胸に刻んだ。
ある時、ようやくハマったのだ。
こうして人を助ける事を、愛した。
貴族街に、本町に、領の端にと渡り、事をなす。
片っ端から、何でもやってきた。
人生のほとんどを、他人のために費やしたと言えるほど、時間を使った。
自分自身の事を忙殺されるほど、働いた。
彼の顔を知らない者の方が少なくなり、期待の新星、などと呼ばれる事もあった。
今、一領の騎士でしかないが、王都から声をかけられる日も遠くはないと噂されている。
強く、優しい正義の味方。
それが行動の結果であった。
そして、手の届く範囲はもういいのではないか、と思った頃だ。
あっ、しまった
思い付いた瞬間、そう思った。
つい声として漏れてしまったくらいだ。
あまりにも自然と避けていたために、本当に分からなかったのである。
まだ、手を出していない場所があったのだ。
そういえば、下町には行った事がなかった、と。
手の届く範囲を考えれば、常識的にそこには足が向かなかったのだ。
あそこには、腐った人間しかいない、と。
母も特には言及しなかったから、考えもしなかった。
けれども、弱い立場と言えば、真っ先に彼らが思い浮かぶべきだったのに。
自分は間抜けか、と考えながら、足早に向かう。
思い付いたら、本当に一瞬だ。
やるべき事を全て最速で終わらせ、その日の内に走っていった。
そして、彼はそこの光景を一生忘れないと確信する。
その場所は、腐っていたのだ。
生きる希望を無くした者たち。
盗賊のような悪しき者たち。
基本的に、その二択だった。
まともな輩を、その日一日見なかった。
こんな場所だったのか、こんな場所に人が住むのか、こんな場所に子どもが居るのか。
衝撃は止まらなかった。
特にその日の最後、子どもの死体が片付けられることなく、そこらに捨ててあったこと。
ここをどうにかせねば、と思った事は当然であった。
根っこから善に染まっている彼からすれば、壊し、犯し、殺しが当然のようにあった場所は見るに耐えない。
それから、通うようになった。
何とかしてこの場を変えたいと思っているが、そのためには知らなければならないからだ。
通って、知って、多くを見てきた。
その中にも、理解できる道理も、理解できない理屈もあった。
優しさも、貧しさも、凶暴性も危険もない混ぜになった場所だと理解した。
そして、かなり困った。
力ばかりの彼だが、場所全体をどうこうする権力がない。
これまでのように腕力だけで解決できない問題が出てしまったのだ。
当然、途方に暮れる。
一応通い、助けられる人間は助けてきたが、根本的に解決できないか、ずっと考えていた。
その日も、何も変わらない日だ。
放っておけば死んでしまうような者たちを助けていた。
炊き出しに近い規模の食事を用意し、追い回されていた子どもを助け、盗みを働きそうだった者を止めて、代わりに食料を分け与える。
どうすれば変えられるだろうか、と悩みながらだ。
彼の生まれる前から、ずっと存在する壁。
当然分厚く、簡単には壊れない。
歩いていた。
また下町を歩いていたな、と兄に叱られるだろうと思いながら。
家に傷が付く、と喧しく言う兄だ。
幼い頃、あれだけ関わるな、と言っていたのに、今は兄の方から言葉をかけるのは皮肉なものだった。
懐かしさを覚えて、そして、
子どもを見つけた。
かわいらしい、金髪の女の子だ。
その子は何やら紙を持って、道の真ん中で立っていた。
どうやら一人らしいかった。
あんまり可愛いので、貴族の子女かと思ったが、薄汚れた姿は違うと分かる。
何にせよ、子ども一人じゃ危ない。
彼には無視するという選択肢は存在しない。
『そこの君』
『ひゃっ!』
ゆっくりと振り返る少女。
紛れもない怯えと、驚愕があった。
『ご、いや、申し訳ありません! わ、私、何かご無礼を……?』
『え、いやいや! 別にムカついたとか、目障りだったとかで声をかけたんじゃないんだ! 僕は他の貴族とは違う。顔を上げてくれ』
やはり勘違いされる。
彼が何度も起こした勘違い。
声をかけるだけで、命乞いをされる事が何度もあった。
小さな行動の一つ一つが、下町の壁を鮮烈にしていく。
『安心してくれ。僕は、君が一人で歩いていたから心配になったんだ。何度かここには来ているけど、一人の子どもは君が初めてだったし』
彼は、安心させるために必死だ。
下町というものは、立場が弱い代わりに横のつながりが強い事は知っていた。
悪意のある人間が多いからこそ、寄せ集まって過ごしているのだ。
少女に変な誤解を残したままにすれば、邪険に扱われるのが目に見えている。
あからさまな事はしないだろうが、必要な情報を与えなかったり、渋ったりはできるだろう。
『この辺りは子ども一人じゃ危ないよって、言うまでもないか……大人か、友達と一緒じゃないと』
心を込めて優しく言った。
警戒を解かせるように、優しく。
『は、はい……。でも、大丈夫なんです。仕事を見つけないといけないので。危ない所は分かってますから』
それを聞いて、やはり少しやるせない。
十歳ほどの子どもが、町をかけずって仕事を探さなければならないのか、と。
本町でも仕事の手伝いをする子供はいた。
だが、自分から仕事を探しに行く子どもは居なかった。
これまでに、彼は多くの違いを見てきたはずだったが、まだ見えない所も多いのだと知らしめられる。
『そうか……。なら、僕が少し付いて行こうか? いくらか町を探るんなら、余計に一人で歩かせられない』
『え、でも……』
『心配しなくてもいいよ』
『き、貴族様の手を煩わせるのは……』
溝は深い。壁は分厚い。
少し悲しくなったのは、仕方のない事だった。
それを見て、少女は申し訳無さそうにする。
『えと、じゃあ、やっぱり、お願いします……』
単純だが、彼はそれだけで嬉しい。
頼ってもらえる、助けられる、そして、溝が埋まった気がする。
下町は、横の繋がりが強いのだ。
ここで真摯に、そして親切でいれば、彼女の仲間には悪い印象を持たれないはずだ。
彼は環境を変えたいと思っているが、少しはその助けになるはずである。
『あ、あの、ならコレに書いてあるお店っぽい所に』
『ん? 手作りの地図かい? ちょっと待って……』
そして、
『こ、これは君が書いたのかい?』
運命の瞬間がやって来た。
※※※※※※※
コンコン、と小気味いい音が鳴る。
大きな屋敷の奥の奥。一番豪華で、綺麗な装飾が施されたドアからだ。
日も暮れ始め、薄暗くなってきていた。
そろそろ、部屋の主も仕事を終えようとしていた所だった。
これから休もうとしていたのに、新たな要件を持って来られた事に苛立ちを覚えてか、ドアの外の人物に、やや乱暴に『入れ』と言った。
ドアが開かれ、男が入る。
外はやや暗くなっていたが、明るさを保つ魔術を込めた道具が部屋にはあるのだ。
だから外の男の顔はよく見える。
そして、少し機嫌の悪い男、カール・サドレーは入って来た男を見て少し驚いた。
「お前が来るとは珍しいな、フィリップ」
「お久しぶりです、領主様」
カールは親しげに言うが、フィリップはあくまでも上司に対する態度だ。
親に対する情は無い。
その表情はあくまで硬く、変わらなかった。
「で、どうした? 私をあまり好かんお前から来るのだ。よほどの事があったのだろう?」
「話が早くて助かります。では、これをご覧ください」
分かっていたのだ。
フィリップは、父であるカールの手駒でしかない、と。
彼が幼少期に育てられたのは、その才能があったればこその話だ。
もしも彼が凡庸であれば、放逐された事は間違いない。
昔から、人を見抜く技術は凄まじい男だった。
そのお陰で今、フィリップは生きているし、フィリップが騎士になって活躍する事で大きな利益を得ている。
カールには父として振る舞う気はない。
追求するのは自身の利、だけだと知っていた。
だから、彼に言うのだ。
ここは放っておけないだろう、と予想が付くから。
フィリップは地図を広げた。
昼間に少女から見せてもらった、尋常ならざる地図。
一度じっくり眺めれば、そのまま暗記する程度の記憶力はある。
記憶の通りに写してある、完璧な模写だ。
間違いはなく、正確。
そして、カールを動かすには十分な情報である。
「……これを何処で?」
「ある情報筋から。私も昼間に知りました。一部は確認しましたが、間違いはないかと」
カールは唸った。
今持つ、最も有用な道具であるフィリップが言うのだ。
性格は真っ直ぐで、嘘は吐かないと知っている。
領に溜まる膿の事は分かっていた。
一部の有用な裏仕事は別として、麻薬や危険物違法取り扱いなどの、害にしかならないものは排そうと考えてはいたのだ。
だが、そういう類を扱う輩に限って、隠れるのが上手い。
カールの有する人材が微妙なのもあって、尻尾も掴めなかったのが今までだ。
浮浪者のフリをさせてもすぐにバレる。
大人の、金持ちの客を演じさせても同じ。
なら、疑わしきは罰せよの精神で、一気にガサ入れを行った事もあったが、結果は芳しくなかった。
捜査というものに敏感らしく、すぐ場所を移されて、また同じ商売をされるの繰り返しだ。
連中は強い者に対してよく観察し、研究する。
領主であるカールは勿論の事、貴族街の人間はほとんど調べ上げている。
相手が油断する、それこそ子どものような弱者でなければいけないのだ。
だが、捜査をするには技術が足りない。
フリをするのも、相手を知るのも、上手くできなかった。
これまでは決して叶わなかった事だ。
そして今、長年鬱陶しく思っていた存在の一部を、締め出す事ができる。
願ってもない。
だが、
「お前、それはどこから得た?」
ここは見逃せない。
「…………」
「不思議だな。私はそれなりに人を見る目はあるつもりだが、お前にはその手の能力は無いはずだ。だというのに、どうしてこんなものを知れる?」
フィリップは言い淀む。
彼が汚い手を使うのは、性に合っていないのは確かだ。
あくどい手というものは、思い付きもしない。
普通の貴族が行うような腹芸や、黒い部分はどうしても彼の才能の及ばない所である。
まあ、つまりは、頭の回転が速い訳ではない。
上手い言い訳が咄嗟に思いつかない。
「どこから得た? お前の答え次第では、情報筋を見つけ出さなければならんかな?」
「…………!」
フィリップの顔が露骨に歪む。
カールはここが弱みと確信する。
すると共に、疑問も出てきた。
フィリップが情報筋をここまで庇う意味が分からない。
約束は守る義理堅い男であるが、こんなに嫌がる理由が見つからなかった。
ただの約束なら、淡々としていればいい。
しかし、フィリップの反応は顕著だった。
カールは顎に手を当て、考える。
「ふーむ、興味深いな。私が手を焼いていた問題の糸口を掴んだ人物。それに、お前が守るべきと判断した相手か……」
「領主様……」
「それなりに頭がキレるだろう。ここまで探るには、危険を見分け、踏み込み過ぎない判断力が必要だ。そしておそらく、女か? 庇護の対象として、それが妥当だな」
「領主様」
「住処は下町だろうな。ここまで調べるのに、相応の時間はかかる。それに本町や貴族街からの手合いはバレる。下町に十分慣れた、密偵らしくない人物か……」
「領主様!」
推測に待ったがかかった。
カールは面白そうにフィリップを見る。
すると、彼は深く、深く頭を下げて、懇願していた。
「お願いします……」
言葉はそれだけだ。
だが、全てが込められていた。
「……分かった。推察はここまでにしよう。この情報を提供してくれた件もあるしな」
「ありがとうございます」
それだけ言うと、フィリップは踵を返した。
足早に、一刻も早くここから去りたいと訴えるように。
荒い態度ではあったが、ドアを閉める時はとても静かで、音はなかった。
怒りを覚えていても、ちゃんとわきまえているのだ。
本当に使いやすい道具だ、とカールは感心する。
アレを殺さずにいて、良かったと。
「いや、それにしても」
興味は尽きなかった。
ここまでの情報を得られる相手。
できれば、自分の手元に置いておきたいと願いながら、カールは仕事場を後にした。