006 決意
屋敷を出る。
庭園には、最初に目を覚ました時と同じ、穂にたくさんの白色の小花を付けた植物が揺れている。
エフリールが気を取られて眺めていると、何やら鼻がむずがゆくなった。
「――くしゅんっ」
堪え切れずに盛大にくしゃみをすると、グレースが気遣うようにハンカチを差し出してくれた。
受け取ったエフリールは、鼻を押さえながら尋ねる。
「ねえ、この花、なんていうの?」
「これはベロニカグレースという花です。観賞用の花なのですが、怪物たちはこれを嫌っているようで、魔除け代わりになっていますね」
「へえ、グレースと同じ名前なの?」
「はい。私のお気に入りの花のひとつです。この庭園でなければ、もっと別の花もお見せできたのですが」
「ふうん……くしゅんっ」
再びくしゃみが出た。エフリールは眉根を寄せた。
「……大丈夫ですか? 少し離れましょうか」
主の困り顔を見て、グレースが花の咲いていない片隅へ案内する。
エフリールは特に不機嫌というわけでもなく庭園を振り返った。
「なんかむずむずするだけで、花は綺麗だよ。グレースの髪とそっくりだね」
「気にいっていただけたのなら何よりです。……本来は、この花の色はこうではないのですが」
「そうなの? 何で違うの?」
「病、と言いましょうか。この花は悪夢の影響で蝕まれてしまったのです。元々は紫の花をつけ、時期が移れば白く染まっていくのですが、今はどちらの色も失われて、灰に近い色へ変わってしまいました」
「ふうん。元には戻らないの?」
「それは無理です。長く、悪夢の中にいましたから。どれだけ手入れをしても、もう元に戻ることはない……」
憂いを帯びた瞳でグレースが庭園を見つめる。
彼女にとっては、この庭園はよほど大事なものだったのだろうか。
「じゃあ、悪夢が終わったらまた咲くってこと?」
何の気なしにエフリールが告げると、グレースは何故か息を止めるほど驚いていた。
「……ええ、ええ。きっとまた、鮮やかな色の花が生まれるでしょう」
グレースがほころんだ顔を見せる。
感じ入ったように頷く彼女の目の端には、微かに光るものがあった気がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「――<杭>」
門の傍、ベロニカの花が咲いていない庭の片隅で、エフリールは呪文を唱えた。
ずずっ、と腕の内側で骨が蠢き、わずかな痛みと共に手の平から先端が突き出てきた。
エフリールはそのまま先端をつかみ、引き抜く。先の戦いの時と同じ、不気味で美しい、白い槍が姿を現した。
手の平に空いた穴は、これも魔術の一端ということなのか、あるいはあまり深手でもないのか、すぐに塞がる。
どうやら唱えさえすれば簡単に生成できるらしい。わざわざ肋骨を折る心配はなくなった。
適当に槍を振り回してみる。エフリールの記憶にも知識にも槍の扱い方などないため、本当にただ棒を振り回す程度の練習だった。
遠巻きにグレースがこちらを見守っている。
エフリールは体を動かしながら、また彼女へ質問を投げかける。
「グレースは僕が目を覚ます前からここにいたんだよね?」
「はい、その通りです」
「じゃあそれまでは、何をしていたの?」
ともすれば不快に思わせてしまうような質問を真っ向からぶつける。
エフリールとしては、彼女に含むところがあるわけではない。
ただ、怪物に対抗する力があるならここに留まらず、もっと自由に動けそうなものだ。純粋に疑問だった。
「貴方の目覚めを、待っていました。貴方の眠りを、守っていました」
グレースが穏やかに微笑む。不躾な問いに気分を害した様子など微塵もない。
「この小さな箱庭で、ただひたすら、祈り続けました。悪夢が貴方をさらってしまわないように、必ずいつか目を開けてくれるようにと」
グレースは手を組み、胸の前へ掲げる。
「ですので、今こうして貴方が立ち上がっていることが、私は何より嬉しいのです。……記憶を失われてしまったことは、私にとっても大きな痛みですが、それでも」
告げる言葉には、強い感情が込められている。嘘や偽りが入り込む余地など、ありそうにない。
グレースが尽くしてくれるのは、単なる役割以上の思いがあるからだと、エフリールは痛感する。
同時に、若干憂鬱にもなる。
記憶のない今、グレースがどんなに強く慕ってくれていたとしても、それに応えられる自分はいない。自分の素地がない。どうしようもなく、申し訳ない話だ。
「……僕の記憶は、元に戻るんだろうか」
「……どういった形で戻るかについては、私にも分かりません。ですが、この街の奥へ進めば、必ず」
何故、記憶は失われたのか。果たして記憶を失う前の自分は、どのような人物だったのか。
グレースの仕える主人として相応しい人間だったのか。それとも全く違ったのか。
直接聞き出せば済むように思えるが、恐らくそれだけでは足りない。
沈黙を切り裂くように槍を力強く振るう。
「グレース」
「はい、何でしょう」
「ありがとう」
端的に礼を告げた。単なる行為への返礼であって、感情に応えたわけではない。今の自分に、応えられるはずもない。
「お礼の言葉など、もったいない限りです。これが私の役目。エフリール様がお気にする必要はございません」
グレースは当然のように控え、頭を下げた。
疑問は尽きないままだ。
だが、だからこそ記憶を取り戻さなければならないと、エフリールは改めて思った。
彼女の思いを受け止められる自分自身を取り戻しに行こう、と決意する。