005 異形と魔術
「お前には優れた素質があるのだ」
日の光の射す部屋の中で、椅子に座った幼いエフリールは、男が話すのをじっと聞いている。
男の顔は、逆光のせいか、はっきりとは映らない。
「教団も魔術協会も駄目だった。私自身ですら届かなかった。だがお前は、お前の母と私の血により、耐えうる器を持ち合わせた」
エフリールは、目を瞬かせて男を見上げる。
男の語る話の意味が分からないからだ。
「余計なことは考えなくていい。いずれ来るべき時へ備え、お前は健やかであればいい、息子よ」
男の手が肩に置かれる。
エフリールは、かけられた期待と言葉をただ茫洋と受け入れ、こくんと頷いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「…………」
微睡んだ意識が浮かび上がってくる。
エフリールが目を覚ますと、そこはどこかの建物の一室だった。
古びた壁やテーブル、擦り切れた絨毯、何年も使われた形跡のない暖炉、欠けた姿見鏡、絵の収まっていない斜めの額縁など、所々荒れ果てている。
鏡を見ると、ソファに寝かされ、丁寧に毛布まで掛けられている自分の姿が映っていた。
エフリールはそこで初めて、自分の顔を認識した。
闇に溶け込むような漆黒の髪と、ルビーのような赤い瞳。肌は平均的な白人種より少し濃い。顔立ちにはややあどけなさが残る。
毛布に包まれた姿は、雨を凌いでじっとうずくまる動物のようだ。
これが自分、と呆然となる。
「エフリール様っ、お気付きになられましたか」
振り向くと、すぐ傍にグレースが立っている。
彼女は慌てて水の入った器と濡れた布とをテーブルの上に置いた。
水も布も赤く染まっていた。どうやら気を失っている間に血や汗を拭ってくれていたようだ。
グレースは屈み込み、エフリールの怪我や体の具合を診てくる。
「どこも異常はありませんか?」
グレースの柔らかな手が触れる。特に怪我をした脇腹の辺りを何度も確かめる。
エフリールも視線を落とす。
(……治ってる)
不可解なことに、骨まで取り外したはずの怪我はどこにもなく、グレースより濃い色の肌が綺麗にそこにあるだけだ。
疑問符の浮かぶエフリールだが、それ以上は考えず、ただ傷はないという事実だけを受け止める。
「……うん。多分、大丈夫」
「本当に? ご気分が優れなかったり、熱っぽかったりはしませんか? 脈が早いとか、ここでない風景が見えたりとか」
まくし立てるグレースの声は、微かに震えている。
切実なまでの――いっそ異常なほどの――心配振りだった。
エフリールは彼女の執拗さを不思議には思うものの、特に驚きはせず。
「平気だよ」
と素直に答えた。
起きる前に夢を見た気もするが、よく覚えていなかった。
「そうですか。良かった……本当に……」
グレースはようやくほっとした様子で手を引っ込めた。
納得したところで、今度はエフリールがグレースへ聞く。
「グレースの方は? 傷、大丈夫なの?」
背中にひどい怪我を負っていたはずだ。
自分は何故か治ってしまっているが、彼女もそうだとは限らない。
「ええ、問題ありません。私はここで死ぬようなことはありませんから」
グレースはにこりと微笑む。
だが改めて見ると、その顔色はとても青白い。
気丈に振る舞っているが、決して具合がいいわけではないようだ。
「座らない? 聞きたいこと、あるし」
気遣うつもりで言うと、しかしグレースは首を振る。
「主のおられる室内でメイドが軽々しく休むわけには参りません」
エフリールは戸惑う。どうやら従者としてのプライドの問題らしい。
少し考えた後に、ならばとグレースへ告げる。
「じゃあ命令するから、座ろうよ」
命令というよりは、お願いに近い調子だった。
強く言い渡されなかったことに対し、グレースはやや困り顔ではにかむものの、それ以上は反論せず、頷いた。
「承知いたしました。失礼させていただきます」
ようやく腰を下ろしたグレースは、折り目正しくしながらも、ほっと小さく息を吐いていた。やはり疲労はあったらしい。
一拍間を置いてから、エフリールはグレースへ尋ねていく。
「ここって、最初のあの屋敷?」
「はい。お見苦しい箇所が多いのは、どうかご容赦ください。何分、古いので手が行き届かず」
「平気だよ」
答えつつ、エフリールは夢の中で見た光景と照らし合わせる。
だが、建物の傷み具合が激しく、同じかどうかは分からなかった。
「それじゃ、ええと次は……あの怪物は一体何だったの?」
グレースの表情が、柔らかなものから真剣なものへと変わる。
「あれは人狼。この悪夢の中に生息する怪物の一種です」
怪物、という単語をグレースは当然のようにぶつけてくる。
とはいえ実際に目の当たりにした以上、存在を疑う余地はない。
「一種? あれだけじゃないんだ」
「はい。彼らは、終焉の御子に魅入られ、人を捨て去った異形です」
「……捨てた? 元は人間なの?」
驚くエフリールに対し、グレースが冷淡にも聞こえる調子で言い渡す。
「今は怪物です。彼らに理性はなく、こちらの言うことなど聞きはしません。先ほどエフリール様が倒した者も、そうです」
「正気じゃないの?」
「ええ。そうでなければ、私たちが襲われる道理などないでしょう?」
逆に問い返され、エフリールは、まあそうかも、と納得する。
記憶喪失の自分には、どこかに襲われる理由が隠されているのかもしれないが、例えそうであっても、あの怪物が見境なく人を襲いそうだというのはなんとなく分かる。
「ですのでエフリール様。どうかお気に病まぬよう。彼らは自ら人間性を放棄し、獣であることを選択したのです。いずれ何もかもを滅ぼそうとする怪物ならば、彼らを討つのは正しいことなのです」
「……うん。分かった」
言われて初めて、エフリールは誰かの命を――元人間だが――奪ったのだと自覚する。
正直なところ、無我夢中だったことや、相手が人間からひどくかけ離れていたせいもあり、罪悪感はあまり湧いてこない。
いいことなのか、悪いことなのか、判断は付かなかった。
「説明に戻りましょう。この街は怪物たちが闊歩する場所であると同時に、彼らを閉じ込める檻でもあります」
「出さないようにしているってこと?」
「はい。ここが悪夢として閉じている限り、怪物は外、つまり現実の世界へは辿り着けません。しかしただ待っているだけではいずれ破滅へ向かいます。怪物たちは終焉の御子を目覚めさせようと動いているからです」
「さっきも言ってたけど御子って?」
「詳しいことはお答えできません。ただ問題は、もし御子が目覚めれば怪物たちはここから解き放たれ、ありとあらゆるものを食らい尽くしに向かう、ということです。そうなれば世界は破滅します」
「じゃあ、それを防ぐ必要があるってこと?」
「はい。そしてそれが出来るのは、貴方だけです」
「ふうん。どうして……あ、これは答えられないんだっけ。じゃあ、いいや」
「……はい。申し訳ございません」
頭を下げるグレースへ、エフリールは首を振る。
「いいよ。聞けないことや分からないことは、今は考えないから」
「それは……いえ、承知いたしました。今はまだ、その考え方が貴方を守ってくれるでしょう」
顔を俯かせながら、グレースが意味ありげに呟いた。
エフリールは、特に気には留めず、次の疑問を投げかける。
「あの骨の槍や、怪我が治ったのは何でだろう」
「それは魔術の類です。エフリール様が持っている力の一端が、自然と漏れ出たのでしょう」
再び常識を超越した単語が飛び出してくる。
エフリールは驚くより、むしろ面白がった。
「へえー、魔術。グレースのもそうなの?」
「……私のは少々毛色の違うもの、だと思います。すみません、私は魔術にはあまり明るくはないので」
「でも使ってたじゃない」
「私には、本来ああした力は備わっていないのです。この悪夢の中だけで許された異能ということですね」
「ふーん。僕の方は元からあるんだ」
エフリールは両手を開き、確かめるように視線を落とす。
見かけは普通の人間と何ら変わらないが、先の戦いの力に加え、重傷さえ跡形もなく治癒してしまった以上、疑う余地はないだろう。
ふと、エフリールはあることに思い至って顔をしかめた。
「どうかなさいましたか?」
「……うん。えっとさ、グレース。これからあの街の中心へ向かうっていうことは、また怪物と戦ったりするんだよね?」
「ええ、恐らくは避けられないでしょう」
「だったら……僕は毎回あばら骨引っこ抜かなきゃいけないのかな? ちょっと大変」
エフリールは至極真面目に言った。
主のどこかズレた発言に、グレースは呆気に取られるものの、すぐに提案を口にする。
「えっと、外で練習、してみましょうか?」
エフリールは、遊びに向かう子供のように快諾した。