003 衝動
「【人狼】……! こんな場所にまで!」
変貌した怪物に気を取られていると、グレースがエフリールをかばうように前に立ち、身構える。
彼女の指の間には、どこから取り出したのか、花を剪定するための小刀が数本握られている。
「ガアアアアアアッ!」
人狼が凄まじい速度で突っ込んでくる。
グレースは反応して小刀を投擲するが、目標を見誤って地面へ突き刺さる。
否、見誤ったのではない。
「ガッ!?」
人狼の動きが止まる。
突き立った剪刀から蔓のようなものが伸び、足に絡みついている。
蔓はさらに人狼の全身へと巻き付き、やがて花を咲かせる。
見覚えがあった。エフリールが起きた洋館に咲いていた花。あれと同じものだった。
「グウウウアアアァァァ……!」
締め付けが強くなり、同時に人狼が脱力していく。
グレースは花を操りながら、とどめを刺そうと剪刀を構える。
一方でエフリールは、怪物から目を離せずにいた。
胸の奥がざわつく。心臓が早鐘のように鳴っている。
視界がちらつき、赤く染まる。何かが呼んでいる。
それは遠吠えとなり、あるいは深い淀みの底から這い出るような唸りと化し、エフリールの心を掻き立てる。
「っ、かはっ……!? あぐっ……」
「リ――エフリール様!?」
胸を押さえるエフリールに気付き、グレースが振り返る。
生まれたほんのわずかな隙、エフリールの異常に呼応するかの如く、人狼の気配が強まる。
人狼が縛めを引きちぎった。そしてエフリールに向けて襲い掛かる。
避ける間もなく吹き飛ばされる。
風景が幾度も回転し、やがて速度を落として止まった。
腕や足が擦れ、息が詰まる。
だがそれらの痛みよりもはっきりと伝わってきたのは、圧し掛かる誰かの重みと、鮮烈な血の匂いだった。
ぬるり、と手に感触が走る。
「ご、無事、ですか……」
苦しげな様子でグレースがこちらを見下ろしていた。
エフリールは、彼女が自分をかばったことに気が付く。
傷は、見るまでもない。グレースの背中は大きく怪物の爪によって引き裂かれていた。血の匂いに混じって、弱々しい花の香りが届く。
驚いている間にも、グレースは立ち上がり、再び構える。
あふれる血が、ぼたぼたと地面に滴る。
「屋敷まで、お逃げ下さい。あそこならば怪物どもは入って来られません」
肩で息するグレースは、離れた位置にいる人狼を屹然と睨む。
「で、も」
エフリールは手についた血と、彼女の傷とを交互に見る。どう考えても瀕死の重傷だ。
地面には爪で抉れた跡が残っており、怪物の膂力の凄まじさが察せられた。
このままひとりで逃げる? 彼女を置いて? 本当にそれでいいのだろうか?
「大丈夫……私は死にはしません。貴方が夢から生きて帰るまで、決して」
グレースが微笑む。痛みを押し殺してまで安心させようとするその姿は、悲壮にすら映った。
人狼が迫る。グレースは短刀を、今度は二本投げる。
数の増した花の蔓が人狼の体を捕縛する。
だが怪我の影響か、蔓を重ねてもなお拘束は人狼の力と拮抗している。
グレースは、より強く花の操作に集中するが、その度に背中から血を流す。
このまま長引けば、怪物より先に彼女が力尽きてしまうのは、火を見るより明らかだった。
どうしたら、いいのか。
分からない。何も分からない。
あの怪物が一体何なのかも。
グレースの奇妙な能力も。
彼女が自分を守ろうとする理由も。
何もかもが分からない。どうすればいいのかなど、少しも。
(――考えるな)
不意に、何も浮かび上がらない記憶の海面から、その思考が飛び出した。
(分からないことは、余計なことは、考えるな)
胸を掻きむしるような焦燥が、沈んでいく。
動揺でぼやけていた視界が、鮮明になる。
鼓動は強く響き、手足に熱を伝わせる。
ここがどこで、自分が何者であるか。
取り戻さなければいけないものとは何なのか。
悪夢とは、狼獄とは、鍵とは、自分自身とは――それら一切が今は関係ない。
ただ自分を守ってくれたグレースを守るため、エフリールは立ち上がった。