002 狼獄の街
屋敷の脇から伸びた野道を通り抜けると、高台へ辿り着いた。
辺りは立ち枯れやしなびた植え込みがある他、落下防止の黒い鉄柵が敷かれている。
高台の端までやってくると、薄暗い空の下、水路の張り巡らされた広大な都市が一望できた。
水際から立ち込める霧の合間に、そびえ立つ鐘楼や荘厳な聖堂の姿が浮かぶ。
中心部は、遠目からでも分かるほどに整然とした街並みで、水路によって区画が外縁部と分けられている。さながら城塞に近い形で独立していた。
外縁部に目を向けると、家々は徐々に建て増されて密集し、中央と比べて雑多な印象を受ける。薄く広がる靄に紛れて、ガス灯の明かりが頼りなさげにちらついていた。
最端に至ってはもはや貧民街の有り様である。水路も細くなり、完全に流れが止まった物や、岸壁が崩れて路地と化している部分もあった。
「あれが狼獄の街【ヴァナルガンド】。貴方がこれから先、向かう場所です」
唐突に告げてくるグレースに対し、エフリールは思わず問いかける。
「向かう? あそこへ? 何のために?」
「生きるため。この悪夢から覚めるため。貴方はあの中へ、立ち向かわねばならないのです」
グレースはこちらを見ながら、何やら確信を持って言い渡してくる。
だがエフリールは首を傾げる。
「意味が分からない。何故そんなことをしなければならないの?」
「貴方は、この悪夢の中心であり鍵。この狼獄を解放することの出来る唯一の存在。貴方はこの夢を終わらせるために、そして本当の自分自身を見つけるために、戦わなければならないのです」
グレースの言葉には力があった。その場しのぎの回答ではない、真剣な口調だ。
だが内容自体は曖昧で、具体的な物事は何も語っていない。 ただ「行け」と、そう示すのみである。
空は淀み、太陽の射す隙間はない。
暗く落ちた影は、狼獄の街を更に陰鬱とした姿へ貶めている。
見続けていると、何かに引き寄せられるような、誰かに呼ばれているような、そんな感覚へと陥る。
(あの中へ?)
霧のうねる蒼然とした街並みは、訪れる者を一息に飲み込んでしまいそうであった。
悪夢とは何なのか。
どうして自分はここにいるのか。
狼獄の街には一体何があるというのか。
何故あそこへ向かうのが自分でなければならないのか。
鍵であり中心とは、どういう意味なのか。
(僕は……エフリール、なのか?)
その名前ですら何も呼び起こしてくれない。自身を支える足にならない。
「私の言葉は信用出来ませんか?」
グレースは自分の胸元に手を添え、かしずくような姿勢で聞いてくる。
彼女から漂う花の香りがエフリールの鼻孔をくすぐった。
「分からない」
エフリールは首を振った。
「そう、ですか」
グレースは一瞬悲し気な表情になる。が、すぐさま打ち消すように笑みを見せた。
「無理もありませんね。まだお目覚めになられたばかりですから。急にこのようなことを言われても、混乱なさるでしょう」
グレースはあくまで主人を気遣う態度でいる。
そしてエフリールをじっと見つめて言い放つ。
「ですが、これだけはどうか忘れないでいてください。私の命も心も、貴方の物。例え何を信じられなくとも、私は貴方の意志を守り、終わりの果てまでこの身を尽くし、添い遂げましょう」
痛切な声音――胸に突き刺さると同時に、今にも儚く散って消えてしまいそうな響き。
エフリールは心の奥底から言い表せない焦燥が湧いた。
空っぽの自分には引き出せる言葉がない。
しかしそれでも彼女に何か答えなければいけないのではないかと思い、口を開きかける。
そこへ、どさり、と。辺りの立木の陰から、誰かが音を立てて倒れ込んだ。
「ううう……」
見知らぬ男だった。浮浪者のようなみすぼらしい格好で、胸を押さえて苦悶に呻いている。
病人だろうか。エフリールは驚きながらも、つい気になって足を踏み出す。
「大丈夫――」
「っ、いけません! お離れ下さい!」
助け起こそうかと声をかけたところでグレースが叫び、エフリールを男から引き離す。
突然のことに戸惑っていると、異変が起きた。
呻いていた男がふらりと立ち上がり、その体が急激に変化していく。
ぼろぼろの衣服を引きちぎるように筋肉が爆発的に隆起し、同時に爪や牙、黒い体毛が伸びていく。
みるみるうちに男は黒狼の如き怪物へと成り果てた。
「グオオオオオオオオオッ!」
咆哮が轟く。
悪夢、狼獄――その単語を思い浮かべながら、エフリールは怪物の姿へ釘付けになっていた。