017 残る意志
グレースが書庫の入り口脇に取り残されてからしばらく後、カイルが本を片手に一人戻ってきた。
エフリールの姿はない。奥にいるままのようだ。
「どうかされましたか?」
「どうもこうもない。ロクなことしないな、あいつは」
カイルは帽子をかぶり直して、呆れた表情を作る。
「内容が分からないからっていちいち聞いてくる。それはまだいい。まあその質問も基本的な単語すら知らないっていう幼稚じゃ済まないレベルだが。その上、本の山崩すわ、内容より挿絵に夢中になるわ、余計な手間ばっか増やしやがる。どうなってるんだ」
「……ど、どうもすみません」
愚痴られた内容は、グレースにとっておおよそ予想してしかるべきものだった。
主人に代わり、頭を下げる。
「別にお前に謝らせようと思ってきたわけじゃない。……おい、駄メイド。あいつは本当に記憶喪失か?」
グレースはぎくりとする。
カイルは声を潜めていた。
エフリールには聞かせられない話だからだ。
「……あいつの記憶喪失はおかしい。普通、自分のことを思い出せないなら、もっと慌てふためくもんだ。なのに、この異常な悪夢のことを受け入れているし、何より過去を知っているはずのお前に対して一向に食い付かない。まるでわざと避けているみたいにな」
カイルは、知り合ってたかだか一時間程度しか経っていない相手の違和感に、もう気付いていた。
「それは……彼が鍵であり、記憶がなくともこの悪夢のことを本能で知っているからでしょう」
グレースは膝の上で両手を固く握り締め、言った。
「ふん……質問を変えようか。何故あいつに過去を話さない? お前は知っているんだろう? あいつを鍵とやらと断じるほどだ。とっとと教え込んで、事態の解決を早めりゃいいじゃないか」
「……それは出来ません。あの方に悪影響を及ぼす危険があるからです。いずれ取り戻す記憶だとしても、今教えるべきではないと考えています。もしほんのわずかでもエフリール様を守るものが崩れたら、その瞬間に彼を狙う者が見つけに来てしまうかもしれない」
今いるのが、現実の世界ならばグレースも悩みはしない。
だがここは悪夢の中なのだ。
いつ、あの男がエフリールの存在に気付くか分からない。
事情を知らないカイルが、苛立たしげに舌打ちする。
「あのな、分かっているのか? お前がもうついて来られないってことは、話す機会は二度とないかもしれないんだぞ?」
「知っています。……でもいいのです。私の役割は、もう終わっているのですから。いいえ、終わったものを無理矢理に動かし続けているだけ。ですからもう、同じことなのです。何も残せないのも、傍にいられなくなるのも」
カイルが目を瞠る。
真相がどうあれ、彼にも伝わったことだろう。
グレースという少女の現実の命はとうに尽きている。
ここが悪夢の中であるからこそ、意識だけはまだ保っている。
そして、もし悪夢が終わればどうなるか。その先は言うまでもない。
「ですから、カイル・ノート。どうか私に代わってエフリール様を」
「……くだらない。役目が終わっただと? ふざけているにも程がある」
グレースはぎょっとした。
カイルは怒っていた。それも、異形との戦いの時に見せていたような敵意や殺意ではなく、もっと根本的な怒りだった。
「いいか。お前はまだここにいるんだろうが。例えこの先ついて行けなかろうが、何の力にもなれなかろうが、くたばっていようが、お前の意志はまだなくなってない。本当に終わった時っていうのはな、自分の残した証が、世界から全部失われて、初めてそう言うんだ」
静かに、しかし燃え立つように荒々しくカイルは言った。
何が彼の怒りに触れたのか、グレースには分からない。
ただ、カイルの抱える事情と深く関わりのある言葉を、知らずに口にしたのだということだけは分かった。
「あいつを少しでも心配してるんなら、もう終わった、なんてことは二度と口にするな。でなけりゃ、俺もあいつと一緒に行くのはやめるぞ」
「……分かり、ました」
グレースは目を伏せ、頷く。
確かにこの身も意識もまだ失われてはいない。
例え現実の自分がどうあれ――否、現実の自分がエフリールを守りたいと思ったから今ここにいるのだ。
この先何も出来ることがなくとも、自分は主のために祈り続けなければならない。悪夢を終わらせることを願って。