013 黒血の展覧会
胸の鼓動が激しい。呼吸がしづらい。視界が明滅していく。
あの巨大な雄山羊の異形を目にした途端、エフリールはこれまでにない変調に囚われた。
雄山羊が、人間のように二本足で突進してくる。一挙に間合いを詰めると、前足を振り上げる。
「危ない!」
エフリールの危機に、グレースが蔓で引っ張り、自身も跳躍しながら回避する。
目標を失って叩きつけられた前足は、元々ひびの入っていた床を完全に砕いて散らした。凄まじい威力だ。まともに受ければ、人間の体など木端微塵になる。
「……大丈夫ですか? 戦えますか?」
着地したグレースが、隣で膝をつくエフリールに声をかけた。
「……やってみる」
平気、とは返さなかった。じっとりと汗を浮かべながら、エフリールは〈杭〉を形成する。
主の姿を心配そうにうかがいながらも、あくまで戦う決意を尊重し、グレースも構える。
雄山羊が動く。野太い咆哮と共に両前足をその場に叩きつける。すると衝撃が波となって床を抉り、二人に迫った。
エフリールたちは左右に散って攻撃をかわすと、挟み込むように接近する。
グレースが先んじて蔓を伸ばす。雄山羊の右腕と右足を抑え込み、更にもう半身へも蔓を伸ばそうとする。
雄山羊は前足を振り回して蔓をちぎる。しかしその間にエフリールが懐まで潜り込んだ。
「はあっ!」
心臓狙いの一撃は、惜しくも左腕に防がれる。厄介なことに〈杭〉が深く突き刺さって抜けなくなった。
反撃が来るのを見越して、エフリールはすぐさま後方へ離脱する。
ダメージが大きかったのか、雄山羊の攻撃はなく、貫かれた腕からぼたぼたと黒い血を流しながら唸っている。
エフリールは次の〈杭〉を生み出しにかかるが、ここまでの道のりで蓄積した疲労、間を空けずの生成、何よりあの異形を目にしてから起きる変調のせいで、スムーズにいかない。
雄山羊はグレースの拘束から抜け出すと、床に垂れた自身の血から、何かを描き出す。
突き出した口に生える禍々しい牙、黒い体毛に覆われた強靭な四肢とそこから伸びる鋭い爪、鳴り響くけたたましい遠吠え。見る見るうちに、血の絵の具から人狼が生み出された。
「こいつ、手下を……!?」
グレースから動揺の声が上がった。
雄山羊の描き出しは止まらない。更に二匹、三匹と、これまで見た別の異形も生んでいく。
エフリールはその光景を見ながら、別の風景が頭の中に流れ込んでくるのを感じた。
『――坊ちゃん、絵は――好きな物を、もっと――』
これは、誰の声だ。
心臓が早鐘のように脈打っている。息も吸えず、ただただ目の前が真っ赤に染まる。
「あああああっ……!?」
脳が沸騰しそうだった。覚えのない思い出が、記憶の底からせり出そうとしている。
「エフリール様! くっ、邪魔をするな!」
増えていく異形たちを前に、グレースは主へ近づくことを許されない。
十分な壁を作り上げたところで、雄山羊がエフリールへ差し迫る。
豪脚が振るわれる。エフリールに避ける術はない。全身がバラバラになりそうな衝撃を受けて、祭壇まで叩きつけられる。
「……ごほっ!」
生きているのも、意識があるのも、不思議なくらいだった。
血反吐を撒き散らす。エフリールは痛みで返って呼吸を取り戻した。手足が痺れる中、〈杭〉を再形成しにかかる。
「っ!?」
頭痛が走り、ぐにゃりと風景が歪んだ。意識が遠のきそうになる。
今のダメージのせいで、余力が体の再生へと注がれている。〈杭〉を形成できない。
慌てて力を込めるのを止める。ここで意識を失えば死は確実だ。
(けど、どうすればいい?)
雄山羊の追撃が走る。エフリールは身体ごと投げ出して避けた。
床にもんどりうって転がりながら、呼吸を整えようとする。それを邪魔するように、記憶が蝕んでくる。
グレースは食い止められたままで、エフリールは戦えない。状況は最悪だった。
何か手はないのか。エフリールは弾け飛びそうな意識の中、必死に考えを巡らす。〈杭〉の時のように、ヒントになるものがないか目を凝らし。
しかし無情にも雄山羊がエフリールの元へ追いつき、止めの一撃を構える。
瞬間、風が吹き荒れた。
教会の扉が豪快な音とともに開き、一陣の疾風が駆け抜ける。
風はグレースの前に立ちはだかっていた異形たちをずたずたに切り刻み、更に雄山羊の元まで伸びる。
雄山羊は跳躍して風を避けるが、エフリールが傷つけた左腕だけが回避し切れずに巻き込まれ、切り裂かれた。黒い血液が、床にぶち撒けられる。
雄山羊と一直線にいたエフリールは、自身も巻き込まれるかと身構えたが、直前で風は消失した。
「教会で異形共が晩餐とは。えらく賑やかだな」
皮肉気味な男の声が響く。
エフリールが目線を向けると、壊れた扉をくぐってひとりの人物が教会へ足を踏み入れた。
ブラウンのテンガロンハットとトレンチコートを身に付けた、痩身釣り目の男だ。
「俺に信仰なんてものはないが、ちょうどいい。送り届けてやるから、主に会って、説教されてこい」
男はにこりともせず、片腕を飛ばした雄山羊を睨めつけた。