012 変革する力
枯れた水路へ戻ってくる。以前と同じく、薄暗い通路に霧が充満している。
エフリールは早速、ランプを掲げる。
青い光に照らされると、見る見るうちに霧が引いていき、視界が確保された。
「これで進めますね」
「うん。……でもこれ、どっちが持っていよう?」
もし水路内で怪物と出会った場合、ランプを持ったままとなると、少々戦うのは難しい。
グレースがすっと剪刀を取り出し、蔓を生やす。蔓の先端で、器用にランプを握り、掲げる。
「便利だね」
「お褒めに預かり光栄です」
「にしても、そのナイフって、どこから取り出しているの?」
「いえ、その。自分でも原理は分かっていないのですが、こう、見えないポケットがあるというか。そこから取り出しているのです」
「へえ。それってナイフだけ入ってるの?」
「いえ。布や針、なんなら茶器も運べます。椅子やテーブルまでは無理ですが」
「そうなんだ。……ひょっとして、それで明かりを持ってくれば良かったんじゃ?」
「あ」
グレースが目を丸くする。
「も、申し訳ございません……失念していました」
「いいんじゃない? 結果的にあのおじさんを助けられたし、気にしなくて平気だよ」
「はい……で、では進みましょうか」
気を取り直した様子で、グレースは先行して水路の中へ入っていく。エフリールも後に続く。
青い光は思ったよりも通路をくっきりと映し出している。密性を高めた石材の滑らかな姿が目に飛び込む。
それでも、手入れがされていないせいか、まるで人の顔のような染みがあちこちに点在していた。
水路は迷路のように入り組んでいた。度々、分かれ道が存在し、二人の歩みを迷わせた。
グレースが目印に花弁を通路へ落としながら、少しづつ探索していく。
時折、光に気付いた怪物たちが襲い掛かってくることもあった。人狼の他、蝙蝠や巨大な蝸牛の姿もあった。
水路内は戦闘に不自由しない程度の広さはあったが、どうにも似たような風景が続き、閉塞感が苛んでくる。
迷路にうんざりしてきたエフリールは、つい妙なことを口走る。
「ここで水を流されたら、大変な目に遭うね」
グレースがぎょっとしてエフリールを振り返った。
「滅多なことをおっしゃらないでください。本当にそうなってしまうかもしれませんよ」
強い口調で言い含められ、エフリールの方がかえって驚く。
「大げさじゃない?」
「……エフリール様。貴方は先ほど、あの男性と、彼の妻と子供を、悪夢からお救いなさったでしょう」
エフリールは目を瞬かせる。自覚的に助けたかはともかく、結果的にはその通りだ。ゆっくりと頷いてみせる。
「貴方は、この悪夢の運命を変えることが出来るのです。貴方の行動そのものが、悪夢の中に強い影響を及ぼしていく。ですから、お気を付けください。ふとした発言でさえ、あるいは貴方に牙を剥いてくるかもしれません」
言われて、エフリールは自然と口元へ手をやり、あの家での男とのやり取りを思い返した。
繰り返し見ていたという男の悪夢の連鎖を打ち破り、少年の魂と妻の死体を解放した。確かにそれは、運命が変じたと言っていい。
鍵であり中心である、とグレースに告げられた意味を、よりはっきりと理解する。
加えて、街の入り口で諫言を呈されたことや、記憶に関わることを少しずつしか教えてもらえない理由も察する。迂闊な言動を取らせないためだ。
「……もうひとつ、貴方にお伝えしなければならないことがあります。私は、最後までついていくことが出来ません」
「えっ?」
予想もしていなかった話に、エフリールは呆然となりかける。
グレースはこの先も供をしてくれるだろうと、勝手に思い込んでいた。
「私の存在は、貴方が最初に見たあの屋敷と、深く根付いてしまっています。遠くまで離れることが、叶わないのです」
グレースは申し訳なさそうに振り返る。ランプの青い光が、哀切に染まった表情を一層引き立てる。
「……離れたらどうなるの?」
「消えるのでしょう。死ぬということです。逆を言えば、離れなければ私は自分を保っていられるということでもありますが」
グレースは、淡々と語り、前を向いて歩を進める。
聞くべきではなかったかもしれない。
「無論、死を恐れているからついていけない、というわけではありません。ですが、今の貴方は白紙の身のまま。悪夢を終わらせ、全てを取り戻した貴方が帰ってくるまで、私は消えたくない、消えるわけにはいかないのです」
背中を向けたまま、グレースが固い声で告げた。
エフリールは躊躇いがちに尋ねた。
「……どこまでついて来られるの?」
「もう少し先までは、恐らく保つでしょう。そこからは、私の助けが届くことはありません」
つまりは、水路を抜けるか、その途中の辺りで別れるということになる。
その後は、ひとりで街の奥へ向かわねばならない。
エフリールは、急に不安に駆られ、自分の手を見つめた。
「申し訳ございません。貴方の行く末に最後まで力を貸すことの出来ぬ、この愚かな従者を、どのように罵っていただいても結構です。ですが、それでも私は貴方を」
「――大丈夫」
また暗い顔を見せようとするグレースに、エフリールは反射的に答えた。
「やってみせる。グレースは、ここまで僕を助けてくれたから、無理だというなら構わない。それに、あのおじさんとも約束したもの。悪夢を終わらせるって」
「……はい。ありがとうございます」
主の快活な返答に、グレースは後ろめたさを追いやるように笑みを作った。
「私も貴方を信じています。必ず全てを終わらせてくれると」
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水路の一端に、エフリールたちは梯子を発見する。出口だろうか。
ここまで、怪物たちに苦戦することはなかった。迷路に多少疲弊させられたものの、〈杭〉を生み出す余裕はまだある。
今度はエフリールが先行し、梯子を登っていく。グレースもランプを掲げてついてくる。
登り切ると、ひび割れた大理石の床が広がっていた。荒れた白色の床面には、赤や緑の光がうっすらと落ちている。
エフリールが床に立って顔を上げると、書物を読みふける片目の男を描いたステンドグラスが目に飛び込んだ。
「教会の中のようですね……例の、スロール教団のものでしょうか」
遅れて顔を出したグレースが言った。エフリールは丁寧に彼女の手を取り引き上げる。
この一帯は、霧は充満していないようだ。ひと心地つこうと緊張を緩める。
――ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
同時に、エフリールは動悸が激しくなるのを感じた。
二人は気配のした方を振り返る。
そこには、巨大な黒い雄山羊の異形が、教会の扉への道を塞ぐように、赤い目を爛々と輝かせ、立ちはだかっていた。