001 目覚め
青年が意識を取り戻すと、目の前には一人のメイドが立っていた。
「お目覚めに、なられましたか」
メイドの灰色の瞳が青年を見据える。くすんだ銀の髪が、声を発したことでかすかに揺れている。
透き通る声音は、どことなく懐かしい響きを含んでいた。
青年は呆けたまま体を起こそうとする。
手に土の感触。見渡せば、どこかの洋館の庭に自分は寝ていた。
少し離れた位置に、白色の小花を穂へ密に付けた植物が、大勢たなびいているのが目に飛び込む。
「ここは? 君は誰?」
青年が尋ねると、メイドは動揺して目を瞠った。
「……覚えておられないのですか?」
心配そうにこちらをのぞき込んでくる。
青年は、自分が今まで何をしていたのか、思い起こそうとし――
「僕は誰?」
思い出せない。記憶を手繰れない。
メイドが愕然とした様子で傍に屈み込む。
「まさかそんな……ご自身のことも、私のことも、忘れてしまったのですか?」
青年は必死に過去を呼び起こそうとするが、何も浮かんで来ない。
つかむものさえ見当たらない記憶の海の中を、空しくもがくだけだ。
「ああ……なんてこと……」
メイドは首を振って、ひどく痛ましげに青年を見つめる。青年の記憶喪失を、我がこととして受け取っている節すらあった。
青年が戸惑っていると、やがてメイドは気を取り直したように表情を引き締める。
「……いえ、返ってこの方がいいのかもしれません。この先のことを思えば」
何やら意味ありげに呟くと、メイドは手を差し伸べ、立ち上がるよう促してきた。
青年はごく自然にその手を取った。
柔らかな感触と、ほのかに匂い立つ花の香り――声と同じく懐かしさを想起させ、どことなくむずがゆくなる。
呆然としたまま起き上がると、メイドはそっと手を離し、少し下がってお辞儀をする。
「では改めまして。私の名は【グレース】。貴方に仕えるメイドでございます」
恭しく名乗りを上げた。
青年は反射的にたずねる。
「僕に? メイドなのに?」
「左様でございます」
グレースは可憐に微笑んでみせた。
青年は一瞬、自分が女主人なのかと思いかけたが、体を確かめる限り特にそういうことはなかった。
「じゃあ……グレース。教えて欲しいんだけど。ここはどこで、僕は誰なの?」
青年が問うと、グレースは真顔になって告げる。
「ここは……ここは【狼獄の街】」
「……狼獄?」
「ここは悪夢の中。産声を上げた獣たちが見る災禍の夢。終焉を喰らう御子の目覚めを待つ、永遠の伽藍」
滔々と語るグレース。
理解が追いつかない。青年は言葉を挟めずに立ち尽くす。
「貴方はここに囚われてしまったのです。そして……恐らくその際にご自身のことも失われてしまった」
言われ、青年は自分の額に手を触れる。
……やはり思い出せる物は何もない。名前すらも。
「僕は一体誰?」
もう一度問うと、グレースは何故か若干躊躇する素振りを見せた。
だが、すぐさま意を決したように、静かに告げてきた。
「貴方は……貴方の名は、【エフリール】」
「エフリール……」
自分でも口に出してみる。
その呟きでも、思い起こされる物はまだない。
「ええ……それが貴方の名です」
どこか物悲し気に、グレースは言った。
エフリールが困惑を重ねていると、グレースは再び手を差し伸べてきた。
「さ、こちらへ。街を一望できる場所があります。まずはここがどんな地であるか、そして貴方が何を為さねばならないのか、確かめてみるのがよいでしょう」
まだ何も分からない。しかし他に向かうあてもない。
導かれるまま手を取り、エフリールはグレースの後に続いていった。