危険な落とし物
「さぁさ、これを飲みな。昔っから作るのが上手いって褒められてね。これのおかげで旦那を射止めることができたくらいさ!」
粥をすするイサクに突き付けられたのは木のコップに入れられた濁った液体だった。匂いを嗅げばわずかに酒精の香りがする。
「これ、お酒?」
「あら、飲んだことないかい?エールだよ」
イサクは今生でお酒を飲んだことはなかった。もしかしたら兄たちは飲むことができていたかもしれないが、畑を耕す人手として生かされていた自分はよそわれる食べ物も少なく、酒などは望むべくもなかった。それゆえに、この体はアルコールを分解できるだろうかとイサクは逡巡する。周囲を見渡せば老若問わず他の客たちも粥を片手に時折コップに口をつけているが、あれの中身はおそらくおばちゃんの言うエールなのだろう。きっと大丈夫なのだと己に言い聞かせつつ、腹をくくってコップに口を付けた。
まず口の中に広がったのはほんの少しの甘さだった。それからドロッとした口当たりとわずかな発泡、鼻に抜ける薬臭さがあった。炭酸を感じるからビールやシャンパンのようなものなのだろうか?しかし独特の口当たりと薬臭さのあるような酒は前世では飲んだことはない。これが普通の味なのか。
「おばちゃん。おいしいけど、これ香草か薬草か何か入れてるの?」
「よくわかったね。でも何を入れてるのかは秘密だよ。あたしの大事なレシピさ」
薬臭さがイサクの記憶に小さな引っかかりを作っていた。前世でこの薬臭さを感じたことがあるような気がするのだが、どうしても思い出せなかった。思い出そうともう一口、二口と飲んでいればコップの中は空になってしまっていた。すぐに飲み干してしまったのに酔いが来ないところを見るに、酒精が弱いという可能性もあるが、アルコールが分解できないかもしれないと考えたのは杞憂だったようだ。
「いい飲みっぷりじゃないか。だけど一杯までだからね。もう一杯飲みたきゃ金払いな」
「止めておく。お酒だからね」
「そう。それじゃ昼間は外に出ておいでな。部屋の掃除があるからね。お代官様のところに行くのは明日の朝にするから、今日は町を見て回ってきな。」
そうだ。トレントからもらった枝をなんとかしなければならない。今は苔玉に挿してはいるが、いずれは土に植えなければならない。狭い苔玉の中では根がすぐに回ってしまって成長できなくなってしまう。とりあえずは・・・。
「そうするよ。おばちゃん、植木鉢が欲しいんだけど、売ってるところってあるかい?」
「うん?植木の鉢?なんだいそれは」
「あ、いや。じゃあ壺を売ってるお店ってある?」
「ああ、あるよ。見て回ってればすぐにあるだろうさ」
今生には植木鉢は存在しないんだろうか。素焼きの壺は村で使っているのを見たことがあるものだから、鉢植えも普通にあるものだと思っていた。
すぐにボウルの中にある粥もなくなった。木箱から立ち、おばちゃんにボウルを預ける。
「行李の中にあるものはそっとしておいて」
「何か大事なものかい?」
「木の枝だよ」
おばちゃんに変な物を見るような目で見られた。行き倒れる寸前まで後生大事に木の枝を抱えていたなどと言われれば確かに自分でもそういう目で見たくなる。しかしその枝は将来、あの甘く大きな実を実らせるのだ。誰がなんと言おうと大事なものなのだ。
宿の外に出ると、昨日は目に入ってこなかった色んな物が見えた。まずは道端に落ちている黒色や茶色や黄色・・・つまりは人糞であった。せっかく昼食を食べたところなのに戻してしまいそうだ。とても臭い。
村では家の裏に穴を掘ってそこにしていたのに、この町ではそういったことはあまり考えられずに道端でしているようだった。こんな調子では町の中心部ではどんな悲惨なことになっているだろうかと考え、歩き出そうとしたところに声が聞こえてきた。
「落とし物に注意しろよー!」
なんと少し離れていたところに汚物が降り注いだのだ。その汚物は二階で壺を抱えた男が落としたものだろう。地面に当たって周囲に飛散った汚物は幸いイサクには降りかからなかったものの、匂いはイサクの鼻を直撃した。これも道端に落ちている人糞の原因だったのだ。
「く、臭い・・・そういえば昔、外国では下水設備が整ってなくて窓から投げ捨ててたんだっけ。これじゃ衛生もへったくれもないよなぁ」
木の柵に沿って町の外周部を歩く。そうするとしばらくして、より強い悪臭が近づいてきた。
「うっ。なんだあれ。洗濯?でもあんな臭い洗濯ってある?」
そこでは黄色い液体の中に服が入れられ、女たちが足踏みをしている。液体は泡立ち、汚れを落としているためか黒く濁っている。多分、中に入っている液体は悪臭からして尿だろう。石鹸はアルカリで汚れを落としているのだが、ここでは尿に含まれるアンモニアで汚れを落としているのだ。
これはたまらないと鼻をつまみつつ次を見てみようと歩けば、すぐ隣にまた悪臭を放つ工房があった。皮なめし工房であった。
「いやぁ、前世でも動物解体したことはあったけど、数が揃うとここまで臭くなるのか」
地面には皮に張り付いていた肉や油が捨てられており、その中心では刃物で得体の知れない動物を解体している。工房の中からもっとひどい臭いがしているのだが、そこでは湯気が立ち上っており、その発生源には黒々とした液体があって、その中に皮が入れられ煮られている。その液体がこのひどい臭いの原因だろう。
次の工房もまた悪臭を発していた。ここまでくるとイサクは流石に察していた。悪臭を放つような施設、はばかられるような施設は町の外周部に置かれるものであるのだと。衛生的でないからと気が進まず町の中心部を避けたのは失策であったのだろうか。
この工房は服を液体に浸していた。独特の野菜が腐ったような悪臭はそこらじゅうを舐めるように侵食し、湯気の立つ汚水から引き上げられた服は鮮やかな黄色に染まっていた。
隣の建物を見る前にイサクは覚悟を決めた。ここまで来たのだ、もう何も怖くないのだと。そして拍子抜けすることに、隣は庭に尿が満杯まで入った樽が並べておいてある建物であった。悪臭は放っていたが、先に見たものに比べるとそれほど臭くはなく、ちょっと刺激臭がするだけである。
ここから離れたいと足早に歩けば、悪臭は和らぎ少しマシになった。やはり、あそこは悪臭を放つものばかりが集められた場所だったのだろう。相変わらず道端には人糞が落ちているが、先ほどの臭いと比べればとても清浄な空気が吸える。
「これ、結構まずい状況なんじゃないかな。悪臭はともかく、おしっこやウンコを使ってあれこれするのは衛生的にかなり悪いし、そういうものから感染する病気って高校のときに習った気がする。黒死病だったっけ?」
実際は黒死病に限らず赤痢やチフスも糞尿から感染する。皮なめしで発生する肉片から出る不浄な空気は常に職人たちを蝕んでいた。
イサクは考え込む。この町は特に衛生観念が低いのか、他の町やもっと大きな町ではどうなのだろうかと。おそらくこの状態は他の町でも同じなのだろう。洗濯、皮なめし、染色、どれも生活に必要なものである。止めさせるということは誰であってもできないだろう。
ならばその作業を不衛生でないものにできないだろうか。これはできそうだ。洗濯なら石鹸を作ればいいし、皮なめしはそのあたりに捨てられる肉片を綺麗にすればいい。染色はたぶん、排気を高いところからすれば改善する。
ただ、この前世とは違う法則があるかもしれない今生、前世でも見たことがある植物が生えているという不思議があるものの、生えている植物は全く同じであるという保証はどこにもない。どこまでイサクの知識が通用するかは分からなかった。
魔物という未知の存在があり、おそらく魔力という超常の現象を起こす謎の力が存在するこの今生、ただ前世で学んだ知識を使うだけではままならないことに、イサクはここに至ってようやく理解し始めたのだった。