麦粥
目が覚めたのは日が高く昇った昼頃のことであった。日が沈む前にベッドに入ったにしては長い時間寝ていたようだ。夢も見ずに寝入ってしまったのはいつぶりのことだろうか。イサクは一瞬、寝坊してしまった、どんなひどい目に遭うんだろうと身構えてしまったが、今ここには彼を害するようなものはベッドの中に潜むノミや髪の毛の中にいるシラミの他には存在しなかった。
窓の外から漂ってくる匂いは今が飯時であることをイサクの鼻へ強く訴えかけていた。そのせいかイサクの腹が鳴る。
「夕飯くらいには起きると思ってたけど・・・頼んだら昼飯出してくれるかなぁ」
イサクはベッドから出て、草で編んだ行李から、残り少ない保存食と銀貨と呼んでいいのかわからない豆板銀が二つ入った袋、そして服を取り出した。今のイサクは裸である。前の世界の記憶では裸で寝るのは変態や布団の感触を楽しみたい人のみという知識があったが、今生では夜寝るときは裸が当たり前であった。今生の家族は裸でベッドに入り、そして家族全員で同じ部屋に寝ていたのであった。当初は困惑したこの習慣も、何年かすれば慣れてしまった。
服を身に着け、部屋から出る。廊下は一面の鎧戸が開け放たれていて、日の光が飛び込んできていた。まぶしさに目を細めながら、食堂と思える玄関ホールへ向かった。
食堂にはイサクの他には数人がいて、それぞれが思い思いの木箱を椅子として木のボウルから粥をすすっていた。おばちゃんは客と話をしていたが、イサクに気が付くと喜色を浮かべた。
「起きたかい。よほど疲れていたんだろうね。飯はよそってやるから、先に井戸がある。そこで体の汚れを落としておいで」
「その分の金は払っていないんじゃないか?夕飯のつもりで金を出したつもりだった」
おばちゃんは憐れそうな顔をした。
「ああ、そうだったね。ここでは夕飯は出ない。飯が出るのは昼飯だけでね。昨日言っておけばよかったが、さっさと寝てしまっていたから言いそびれてしまったよ。さぁ、行った行った」
おばちゃんに急き立てられ、イサクは井戸の側へ来た。井戸には釣瓶がかけられており、そばには大き目の桶とヘチマの束子が置いてあった。苦労して井戸から水を汲み、服を脱いだ。今は暦の上では初夏であり、陽気が肌に当たり気持ちがいい。体を清めるついでに、服についた旅塵を払うことにした。
服を洗うというのは今生ではよくやったもので、手早く終わらせることができた。それから体にこびりつく垢を削ぎ落すべくヘチマ束子を手に取った。
(この世界の物価、どうなってるんだろう。村では自給自足で足りないものも物々交換、貨幣経済なんて無かったに等しいから全く分からない。おばちゃんからもらった銀貨もどれくらいの価値かわからないし、甘味が稀少なら銀貨の価値も高いのかな?それなら宿賃の銀貨一枚っていうのは結構な値段になるのかも)
つらつらと考え事をしながら体も洗い終えた。それから下着代わりのズボンも洗ったが、固く絞って水気を切って履くことにした。湿っていて気持ち悪いが、流石に村でも寝るとき以外はイチモツを丸だしにしておくのは忌避されていたので、そのまま履くことにした。
宿に戻るなりおばちゃんから木のボウルを受け取った。中身は村でも食べていた豆と黒麦の粥。スプーンなどはなく、このまますする。イサクは座る者のいない手近な木箱に座り、おばちゃんへと向き直った。
「さぁ、食べな」
粥をすすれば久しぶりの温かさに心身が温められる。村では麦などは税として取られるものであって、自分たちの口に入るものではなかったのだ。これがたとえ麦ではなく黒麦だったとしても、税として取られるものの一つであることは変わらず、なかなか食べられるものではない。食べ物といえば育てた根菜や豆や羊の乳、たまに古くなった羊を潰してその肉を食べることができたが、一年に一回あるかどうかという程度のものだった。しかも酢と塩で味付けをしてあるのがありがたい。前の世界と比べればとても美味とはいえないものであったが、それでも酸味と塩味がついているだけマシなのだ。
「うまいな。町ではずいぶんと食事が贅沢なようだ」
「そうだろう、そうだろう。塩だけじゃなく酢まで使ってんだ。高い金貰ってるんだから、美味いもの出したって罰は当たりゃしないよ」
「そうだ、その金だった。昨日払った銀一枚というのは宿賃としては適正なのか?」
「いんや、一晩に昼食がついて銀一枚は高すぎるね。あれは三日分の宿賃だ。どうせここに住むにもまたどこか旅に出るにせよ、お金は必要だろう。三日のうちに仕事を探すといい。最悪は残りの銀二枚で八日は泊まっていけるだろうが、それだけだからね」
気が短い者なら何を勝手なことをしているのだと怒るかもしれないが、案外これが普通のことなのだろうか。前世の記憶はこういうときに頼りになるものではないし、今生の習慣も村から出たことのないイサクではどういうものか知るものではなかった。
「どこか職の紹介はないだろうか。読み書きとある程度の計算はできる」
「こりゃ驚いた。あんたどこかの貴族か商人の出かい!どうしてそーんな身なりでこーんな町になんか」
「村に教会があったんだ。そこで教えてもらった」
「それにしたって、読み書きならまだしも計算だって?はん!馬鹿にすんじゃないよ!」
おばちゃんは懐から取り出した白墨で木箱に文字を書き込んでいった。数字を表す単語、数詞だ。
イサクが今生、生きてきた中ではアラビア数字に相当するような簡易に数字を表す文字は存在しなかった。そのため1から100まで、あるいはそれ以上、数に固有の単語があり、計算するとなればそれは専門性を持つ知識である。例えば英語でeighteenプラスtwentythreeとなれば答えはfortyoneなのだが、この形式では筆算はできない。18+23=41というようにアラビア数字に直してようやく筆算が行える。英語でも筆算は可能かもしれないが、この世界では数を数える単語に法則性を見出すのは難しかった。それゆえに計算のためには全ての数とその計算の組み合わせを知っていなければならず、これは貴族や商人の跡取りが苦労して覚えるようなものであった。
木箱に書き込んだ数式の答えをイサクが即答すると、おばちゃんが唖然とするのみならず、他の客も目線をこちらに寄越して注意深く様子をうかがいはじめた。
「・・・計算ができるっていうのも本当のようだね。それで、どうしてお貴族様がこんなところにいるんだい」
「貴族ではないと・・・飢饉が起こって口減らしに遭った。農家の三男だったから」
「あーああ。あんたの親は馬鹿だね。それで兄二人だけ残したのかい。これだけできるのなら仕官先に困ることはないし、仕送りの金だけで贅沢ではないけど生活はできただろうに。本当にもったいないことをしたもんだね。だが兄二人もそれくらいできるんだろう?農家だってのに家庭教師が付けられるなんてどんな豪農だか」
おばちゃんは勘違いを続けているが、イサクのように読み書きのみならず計算ができる存在は稀少であるのだ。その専門的な知識を得るために貴族は家庭教師を雇うし、商人ならば幼少の頃より実務にあたらせその身で覚え込ませるような教育をする。
「村の教会に本があったんだ。でも兄たちは文字にも数字にも興味を持たなかった。必要ないからって」
「するってーとなにかい。あんただけ本に興味を持って読み書きできて、計算もできたって?鶏からバジリスクが生まれたんだね!本なんてものがあれば売ってしまおうと考えるのが普通じゃないかい」
確かに村の教会にあった本は高価そうな装丁であった。本棚に鎖で固定されており、おばちゃんの言う通り、盗んで売ってしまえばひと財産になるようなものだったのだろうか。
「お金が使われてないような村では無理だよ・・・それで、仕事先を紹介してもらえそうかな?」
「読み書き計算ができるとなるとあたしの手には余るね。お代官様に相談してみるかね・・・」
こうしてイサクはお代官様と会うことになった。当面のお金に加えてある程度蓄えをすることができるような収入があれば上等と思っていたのだが、それはよりよい状態で裏切られるという結果になりそうだった。