知恵の実あるいはイチジク
麦の刈り取りも終わった初夏の頃、イサクは今まさに家を追い出されようとしているところであった。
またか、と思わずにはいられない。この世で思い出せる赤子時分の記憶よりも前の記憶でも似たようなことがあったのだ。
田舎の農家、その三男。
長男ならば畑と羊を継ぎ、次男なら兄の代用品として家にとどめ置かれることもある。三男からは嫁を迎えることなく、家の中で喋ることすら許されずに畑を耕す奴隷として使われることになる。もちろん家族計画などということは考えないから、兄二人に加えて自分、その後ろに出てきた妹達という結果になったのだった。
今年は麦が不作だった。それだけならまだしも、わずかばかり毒が入っている豆すら不作だったのだ。このままでは飢饉が起きる。そうしてイサクの父は次男より下の子供たちを全て家から追い出すことにしたのだった。三男には外へ出て生きろと静かに言い、三人の妹たちは次に来る行商人に|女衒≪ぜげん≫へと斡旋してもらうことになっていた。
「今までお世話になりました」
イサクはそう言うと、いやに準備よく用意されてある日持ちする食料、そして茸をほぐした|火口≪ほくち≫と火起こし道具を受け取り、最近暖かくを超えて暑くなり始めた草いきれの中を、ふわふわと歩き始めたのだった。
家族に未練はないかと聞かれれば、確かに未練はあった。前の記憶では上手くできなかった家族との団欒、それに憧れて頑張ってみた。しかし愛想を振りまいても、畑を一生懸命に耕しても、結局父母は二人の兄を可愛がるばかりで自分には目もくれなかったのだった。それを見て育ったためか、父母に何事かを吹き込まれたためか、兄たちも自分を冷遇した。面と向かってお前は死ぬまで奴隷なのだと言われさえした。
涙は出てこなかった。前の記憶ではさんざ泣いていたのに、どうしたんだろうかと自嘲した。日が傾き歩くのにも飽きてきたころ、イサクは多少踏み均されただけの道の側に座った。
生きる気力はなくとも、腹は減る。仕方なしに、イサクはその辺から枯れた枝を集め、慣れた手つきで火をおこした。日が沈み、焚き火の火が大きくなるにつれ、自覚していなかった疲れがどっと体に押し寄せるのを感じた。干した羊肉を焚き火で炙って柔らかくしているころ、それは耐えがたいほどの睡魔となった。
仕方なしに大き目の枯れ枝を焚き火にいくつかくべると、座ったままイサクは眠りに落ちた。
暖かい時期であることが幸いしたか、まだ織火が残っているせいか、凍死することなく日の出を見ることができた。それでもやはり肌寒く、座って寝たために体の節々は抗議の悲鳴を上げていた。
伸びをし、立ち上がって苦労して柔軟運動を終えるころには体は暖まり動けるようになっていた。
「これからどうしたものかな」
独り言がこぼれ落ちるが、それを聞き届けるものは林の木々か地蟲くらいしかいない。しかして聞き届けたものがいた。
「旅のお方。困っておいでか」
イサクは驚きつつ声のした方へ振り返ると、若々しいのに目鼻のようなウロがある不思議な木を見つけた。これが村の教会にあった本に載っていた、精霊の宿る木、樹精というものだろうか。
「驚かせてすまない。だが困っている様子を見るのは忍びなかった。許されよ」
樹精の中には狂暴で生き物の血をすするものもあるそうなのだが、目の前の不思議な木は穏やかなもので、イサクが眠っているときにも手を出してくることはなかった。狂暴な樹精ではないようだ。
「旅のお方。行くあてがないものとお見受けしたが、いかがか」
「ああ、畑が不作で家を追い出されてしまったんだ。今日食べるものにも困る有り様で。このままでは餓えて死ぬか、その前に野の獣に食い殺されるかのどちらかだと思う」
もっとも生きる気力は今一つなもので自ら命を絶ってしまう方が先かもしれないなと思う。
「獣はどうにもできないが、食べるものなら私の木の実を食べるといい。どうせこのあたりには私の花粉を運んでくれる虫もいない。このままではただ鳥の餌か、腐り落ちて地蟲の餌となるだけだろうよ」
見れば樹精の青々とした枝ぶりのそこかしこに、手のひらで包めるほどの大きさの赤い実がなっていた。見覚えがあった。この世に生まれる前の記憶の中で、野山の中に生える宝物だったのだ。
思わず手を伸ばして取り、皮も剥かずに夢中で噛み付いた。渇いた喉に落ちる瑞々しさ、そして舌に広がるのは、この世に生まれてから初めての、素朴ながら強烈に訴えかけるような甘味であった。そして今はもう見ることが出来ないであろう、故郷の味であった。知らぬうちにイサクは涙を流していた。
そうしてイサクは腹が満たされるまで木の実を食べ続けた。樹精はありがたいことに何も言わず、イサクが満たされるまでただ木の実を差し出し続けたのだった。