クライ・オブ・クレイ
1.
母さんは、ぼくの顔を粘土で作った。
赤ん坊のころの顔が「あの人」に似ているのが嫌で、まるっきり作り変えてしまったらしい。元の生身の顔は、見るのも嫌だから、首ごと引っこ抜いて捨ててしまったという。「あの人」が誰なのかは、一度も教えてくれたことはない。
「一番いい水をまぶして、一番いい土をこねたのがあなたなのよ」
母さんは毎朝、ぼくの顔を手入れしながら、決まってそう言う。
顔の造形を整えるための手入れには、順番がある。母さんはこれまで一度もこの順番を破ったことはない。
まず夜の間に乾いてしまった部分をほぐすために、水とバケツを用意する。しっかり湿らせて、タオルでぐるぐる巻きにする。顔の粘土が柔らかくなってくると、今度は工芸用のヘラとナイフを使って、鼻梁を整える。気分によって、鉤鼻気味になったり、豚鼻になることもある。同じ要領で、耳、目、輪郭、と顔のパーツを掘り出していく。
そして、最後は口だ。母さんは、口にはとてもこだわりがある。口は表情全体の均衡を保つ秤だ、というのが母さんの持論だからだ。美術家の母さんは、一切「作品」に手抜きはしない。
「今日は笑いたい気分かしら」
口の手入れのときには、決まって母さんはぼくにこう聞く。
だけどこの質問に意味はない。ぼくがどう答えたところで、その日のぼくの表情は母さんの気分で決まる。作品づくりがうまくいっていないときは、目を垂らして口をへの字型にする。苛立っているときには、頬骨を押し上げて目をつり上げる。そして、次の朝まで修正されることは決してない。
「そうね、今日は可愛い笑顔にしましょう」
答える間もなく、ナイフがぐい、とぼくの頬を切り裂く。今日は大笑いさせたいらしい。もちろん痛覚はないから痛くない。
だから、母さんのナイフ捌きにも、一切ためらいはない。
2.
ぼくと母さんは「工房」で暮らしている。
「工房」は山の中にあるコテージのような場所だ。朝は濃霧で煙っているけど、昼頃には晴れて海を一望する絶景が臨める。夏には涼しいが、冬には薪を調達して暖炉にくべる必要がある。
季節という自然の区切り目を排せば、「工房」での毎日は地続きだ。時間は押しつぶされた粘土のように、のっぺりとどこまでも伸ばされていく。昨日も今日も明日にも、なにも変わりがない。日々を区切るためのイベントも、年越しや誕生日のお祝いもない。母さんはカレンダーはおろか、時計さえも持っていないのだった。
母さん本人も、毎日を同じように過ごす。朝にぼくの顔を手入れし、早めの昼食をとる。午後に創作を始め、夜遅くまで続ける。
人のいない山奥には娯楽もないが、農作業と罠猟、倹約が、ぼくたちの楽しみであり生活基盤だ。母さんにとっては、もちろん創作も。
だけどぼくたちは狩人ではないから、自給自足には限度がある。そのために、「工房」には時々差し入れが来る。
差し入れに来るのは、年輩の男の人だ。たぶん母さんより二周りくらい上だろう。大柄な人で、顎には立派な髭をたくわえている。ぼくらは、彼を「おじさん」と呼んでいる。
おじさんは、食料を届ける代わりに作品を街に持って行き、お金にしてくる。そしてそのお金で、また必要なものを買って「工房」にやって来る。母さんとの関係は、よくわからない。
3.
おじさんは地団駄を踏むような、大きな足音を伴ってやって来る。床を踏み抜いてしまいそうな、とてつもな重量感だ。ドアを叩く音も豪快で、慣れない内は怒っているのかと思うほどだった。
母さんがドアを開けて迎え入れると、おじさんは両手いっぱいの袋をどっさりと作業机の上に置く。その上に工具や筆、ナイフがあってもお構いなしだ。そしていくつか作品を無造作に手の中で弄び、首を傾げたり頷いたりして、やがてポケットの中に放り込む。
「肉と魚、チーズ、酒と指定の水。野菜は十分だろうから買ってない」
「いつも通りね」
母さんが袋の中身を確かめながら言うと、おじさんは無表情で頷く。あごひげを撫でる。
「そう、いつも通りだ」
「ありがとう、おじさん」
母さんの言葉に、彼はもう一度深く頷く。
「また来週来る」
「来週」、と反芻して母さんは肩をすくめる。ぼくたちには、明日も来週も同じことだ。
おじさんと母さんは、それ以外に話らしい話を一切しない。母さんはお茶でもてなすことも、椅子を勧めることもない。だからおじさんは、用件を済ますとすぐに帰ってしまう。今日の滞在もそれだけで、大きい靴音を遠雷のように響かせ、踵を返す。
「ありがとう、おじさん」
ぼくがそう声をかけても、おじさんは決して頷かない。おじさんには、ぼくが見えないのかもしれない。
4.
前の訪問から、おじさんがぱったりと来なくなった。食料にはまだ余裕があるが、良質の水が足りなくなると粘土の質に響いてくる。創作以外には全く疎い母さんも、それにはさすがに気づいているようだった。
「どうしたのかしらね」、と母さんはその日の朝も、ぼくの顔にナイフを突っ込みつつ呟く。ごりごり頬の粘土をこそぎ落としながら。
「薪を拾ってくるついでに、森をよく見てきてちょうだい。雪解けが始まっているから、見つけやすいでしょう」
何が、とは母さんは言わない。
昼頃、ぼくは母さんの言いつけ通り、森を見回る。
木々を覆う雪は確かに溶け始め、風が柔らかくなっていた。地面が露出しているところもままにあり、植物の芽が息継ぎするように顔を見せている。
しばらく歩くと、崖の下に雪がこんもり盛り上がった場所を見つける。
掘り返すと、おじさんが首を妙な角度に曲げた形で寝ていた。目玉は安物のガラス玉みたいに虚ろに濁り、あんぐりと開けた口からは舌が飛び出ていた。
「おじさん」
体を揺らしても、返答はなかった。顔に触れると、雪と同じくらいに冷たかった。この状態を何というか、ぼくは知っている。
「そうか、やっぱり人間も死ぬのだな」
動物の死体を見つけたことは何度かあったが、人間も同じように死ぬというのは新たな発見だ。
それは、おじさんがぼくに教えてくれた最初で最後のことだった。
森から帰って母さんに事情を話すと、返ってきたのは「そう」という返事だけだった。母さんは何か、丸くこねた粘土に彫りを入れるのに夢中になっていて、上の空のようだった。暖炉に火も熾さず、ずっと創作に熱中していたらしい。
少し寒く感じたので、暖炉に火をつけて、拾ってきた薪をくべる。そうしながら、おじさんのその後を思う。死体はやがて獣に食われるだろう。そして、いつしかその獣をぼくたちが口にすることもあるかもしれない。
しばらくすると、母さんがナイフを机に置いた音がする。振り返ると、母さんは眠そうに目をこすっている。目の下には隈ができ、肌が乾燥して不健康そうに見える。少し、老けたようにも見える。
「火を熾してくれたなら、ちょうどいいわ」
母さんはそういうと、立ち上がってその丸いものを、薪と一緒に火の中にくべる。
「これは何?」
「あなたの新しい顔よ。もうおじさんが来ないのだから、いい水がある内に最高傑作を作ったの。明日から、あなたの顔の手入れもしなくて済む」
「もう手入れをしないの?」
「ええ、焼いて固めてしまうの。だから、よく火加減を見ていてちょうだい」
母さんはそのまま、ソファに横になる。すぐに寝息が聞こえてくる。ちょっと苦しそうな鼾まじりの寝息だ。このごろ、母さんはとても疲れやすい。
暖炉に目を戻すと、ぼくの新しい顔が、炎の中でにんまりと笑っている。
5.
春になると、「工房」に新しい人がやってきた。ずいぶん若い女の人で、たぶんぼくとそう変わらないだろう。おじさんの知り合いのようで、母さんの作品をよく知っていた。
「あなたに弟子入りしたいのです」
彼女は、鈴を鳴らしたような声音でそう言った。
「いいわ。ねぇ、いいでしょう?」
母さんはそうぼくに聞く。返答するのに相応しい顔を考えたが、すぐに無意味なことに気づく。焼いて固めた顔は、決して変えることができない。
女の人は「工房」に住み着き始める。熱心で、夜遅くまでとてもよく働く。作品づくりも悪くないようで、母さんから教わったことは全部吸収する。粘土をこねる手つきも、徐々に慣れてくる。
一方の母さんは「最高傑作」を作ってから、あまり自分の作品に執着がなくなった。弟子のために習作を少し用意するだけで、夜はすぐに寝てしまう。暗くなると、母さんのまぶたはすぐに重くなる。そしていつの間にか、うつらうつらとソファの上で船をこいでいる。ぼくは、軽くなった母さんの体を抱き留めて、ベッドに運ぶ。それが新しい毎日になる。
6.
やがて母さんは、起きている時間より寝ている時間の方が長くなった。起きている間は彫刻のように動かない。わずかな野菜と水を摂る。時々、昔の作品を寝ぼけた表情で見つめる。使わなくなった指先は、固まり始めた粘土にように潤いを失い、ひび割れている。
作品づくりは女の人が主に担当している。時々「工房」を降りて、作品を売りに行く。稼いだ少しのお金で食料を買い込んで、夕方くらいに戻ってくる。それまで、ぼくと母さんは二人きりになる。
その日の夕方も、いつも通りだった。斜陽の滲むような橙が、窓辺から差し込んで母さんの顔を照らし上げていた。頬のあたりに落ちた影が、骨ばった骨格を浮き彫りにしている。眩しかろうとカーテンを閉めようとすると、母さんはその手をぐっとつかんだ。意外にも力強いことに、少し驚く。
「そのままでいいのよ」
母さんは、乾いた声で言う。水をすすめると、静かに首を横に振る。そして胸の中に溜まった檻を吐き出すように、低い声で話す。
「母さんのこのナイフね、あなたにあげる」
そう言って、あごで示したのはいつもぼくの顔を切り開いていた、あの工芸用のナイフだった。今はしっかり鞘に納められて、ベッド脇に飾られている。
「どうして。大切なものでしょう」
「もう必要ないのよ」
母さんはそれだけ言って、すぐに瞳を閉じる。すぐに安らかな寝息に変わり、それと同時に日が落ちてあたりは真っ暗になる。
その年の夏の終わり、母さんは亡くなった。
遺体は火葬にした。遺作とともに焼くことにしたのだ。
ぼくは母さんが灰になるまで、ずっと側についていた。皮膚がはがれ筋肉が露出し、体が萎縮していく様をずっと見ていた
やがてすべてが終わると、女の人は、鼻を覆いながら様子を見に来る。薄気味悪そうに目を細めながら、ぼくにこう聞く。
「どうしてそんなに付きっきりでいたの?」
「火加減を頼まれたからだよ」
「どうして笑っているの」
「笑ったまま、顔が固まったからだよ」
そうぼくは答えて、後は黙々と灰を集める。
7.
やがて、ぼくと彼女の間に子どもが生まれる。彼女には、山の中があまりにも退屈だったのだろう。気を散らす術がなかったのだ。
けれど彼女は、ぼくもぼくらの子どももひどく嫌う。ぼくの顔を朝見る度に、眉を歪めて毒づく。まだ赤ん坊の子どもは、狂ったように泣きわめいている。
「今日も薄気味悪く笑っているのね」
「もうこれで固まったんだよ。仕方ないんだ」
「黙って。あなたも、あなたの子もうんざり。あなたは薄気味悪く笑い、子どもは泣きわめく。こんなところ、もういられない」
そう言うと、彼女は荷物をまとめ始める。
「君が望んだことだった」
「ええ、そうね。でも間違いだった。ここは私が立ち入っていい場所ではなかった。ここはあなたと、あの人の城だったのよ」
そう言い残して、彼女は赤ん坊を置いたまま、出て行く。そして、二度と戻らない。
8.
赤ん坊はずっと泣き続ける。泣き疲れることも知らないようで、昼も夜も、ずっと泣き続ける。もしかしたら、母親が戻らないことを理解しているのかも知れない。
どんなに手を尽くしても、赤ん坊は泣きやまない。ぼくの手に抱かれるのが嫌なようで、手が触れた瞬間に排便をする。
こんなとき、母さんならどうするだろう。
母さんが寝ていたベッドを見つめる。母さんの言葉を思い出す。目の端に、何かが映りこむ。それは冷たく、雄弁に、語りかけてくる。
『今日は笑いたい気分かしら』
何のことはない。人を笑わせる方法を、元々ぼくらは一つしか知らないのだ。