深夜にそれは目を覚ます 4
「林さん。林正吾さんですよね?」
警察署を出てすぐに、正吾は声をかけられた。振り向くと髭面にサングラスの胡散臭そうな男が立っていた。
「大江朔郎……」
正吾は渡された名刺と目の前の男を交互に見比べる。
名刺には『ライター』と書かれていた。後は携帯電話の番号とメールアドレスだけが記載されていることからフリーのライターであることが知れた。
まあ、お察しの通り、しがない物書きですよ、と大江は自嘲気味に笑った。
「話すことは警察に全て話しましたから、質問は警察に聞いてください」
林正吾の言葉はとりつく島もない無愛想なものだったが、大江は一向に動じない。
「僕が聞きたいのは小柴公園の件ではありませんよ。
聞きたいのは15年前の汚職事件。そして、その後のあなたの流転の人生についてです。林元市長さん」
大江はサングラスを外すと、ニヤリと笑って見せた。
「ならばなおさら話すことはない」
「いえいえ。当時最年少でこの森菜市の市長にになり、その後の5期20年の長期政権を維持された。その経緯だけでも実に興味深い。
そして、汚職発覚による劇的な辞任からの失踪。一時は死亡説、口さがない連中の間では殺害説が流れていたものですが、どっこい生きていたわけです。
いや、正直驚いた。生きていて、自分の町を底辺から15年間ひっそりと見ていたわけですね。
ボクはね、それだけで読者の興味をひくと思うのですよ。
そこで話を聞かせてもらいたい。
何を見て。何を感じたのか。それをボクは、本にしたいんですよ」
熱く語る大江を、正吾は対照的に冷やかな目で眺めていた。大江が語れば語るほど、拒絶するように目の光は冷たくなっていくようだった。
「くだらんな。話すことはないよ」
ばっさりと切り捨てる。
「くだらない?
本当に話すことはないよ、などと思ってますか?」
だが、大江は諦めることもなく、しつこく言葉を重ねる。
「今のこの町を見て本当になにも思わないんですか?
道を行き交う人も車も疎らになってしまったこの町並みを見てどう思われます?」
「……何が言いたいのか分かりかねるよ」
「来年の春に森菜市は隣の市に吸収合併されて消滅することはご存じですよね?
過疎化と主要な財源を持たなかったことによる市の財政破綻が原因です。
来年の秋で市政開始100年の節目となるはずだったのに残念だとは思いませんか?」
「さあね。私には関係ない話だな」
正吾は大江に背中を向け、歩き始める。それはこれ以上話す気はないという明確な意志の表れであった。
「あなたはこうなることを予想して強引に企業の誘致を断行したのでしょう?!」
去り行く正吾の背中に向かって大江は声を張り上げた。
「もしも、あなたが汚職で職を辞することが無かったら。誘致が成功してこの町に工場が出来ていたら森菜市の運命もまるで違ったものになっていたんじゃないんですか?
ボクはこの町で生まれて、この町で育ちました。この町が好きなんです。
林さんもそうなんじゃないんですか?!
だから、そんな境遇になってもこの町に残って、この町を見守り続けていたんじゃないんですか?
なくなってしまうなら、せめてこの町が存在していたってことを残したい。だから15年間変わっていくこの町をひっそりと見守っていたあなたの意見を聞きたいんですよ!」
大江は早口にまくし立てたが、正吾は振り向くこともなくそのまま歩き去って行った。
この町は、夜になると違う顔を見せる、と宇野晶子は人気のない道を足早に歩きながらそう思った。
朝、遠目に連なる山脈を眺めながらすれ違う人もなく歩く道は、世界の支配者になったような気分を味わえるのだが、夜は逆にがらんととした空虚な闇がひろがり、まるで世界で生き残っているのは自分一人なのではないかという不安と恐怖に駆られた。
昔はそんなことを感じたことはなかったのに
むしろ、夜の空に煌めく星や風にそよぐ草むらから聞こえてくる虫の声が心を安らかにしてくれた。それがなんだろうか、今は夜道の暗がり、路地の死角から言いようのない圧力を感じるようになっていた。理由は定かではないが、気づくととにかくそんな風に感じられるようになっていた。
ここ最近の話よね
晶は立ち止まる。
目の前に小柴公園が見えた。
薄暗い街灯に、魔女のかぎ爪のような枝を広げる木が浮き上がっている。
この間起きたばかりの事件を思い出して晶は夏だというのにぶるりと体を震わせた。
気を取り直すと晶は再び家へ向かう。さっきより少し早足になっていた。
築30年の6階建ての古マンション。その4階の一室が晶の自宅であった。
両親は健在で、実はそれほど遠くないところに一戸建ての家を構えて暮らしていた。実家から通勤することも可能だし、そちらの方が経済的には合理的なのだが、今までは一人暮らしの気楽さを選んでいたのだ。だが、すこし気が変わってきていた。
そろそろ、ここを引き払って実家に戻ろっかな
晶は、エレベータを待ちながらぼんやりと考えた。いろいろなことが億劫になっていたし、なにより女の一人暮らしが物騒な気がしてきていたのだ。その考えは帰り道の闇が怖くなってきたころからうっすらと思い始めていたが、小柴公園の事件でより強く意識するようになっていた。
エレベーターがようやく到着して、ノロノロと塗装の剥げかかった扉が開いていく。
「うん?」
変な臭いに晶は鼻をひくつかせた。肉の腐ったような、アンモニアのような酸えた臭い。
晶はエレベーターの壁や床に目をやるが特に異常はなかった。首をかしげながら4階のボタンを押す。開いた時と同じように扉はゆっくりと閉まると上がり始めた。
ぶるん、と一震えしてエレベーターが止まった。2階と3階の間だった。
「えっ? なによ。地震?」
4階のボタンを何度か押してみたが反応はない。ふっと灯りが消えて真っ暗になった。
「冗談でしょ?」
晶は携帯電話を取り出すと簡易ライトでエレベーター内を照らす。少し震える指でパネルの緊急ボタンを押した。
「もしもし?
もしもし、誰か聞こえますか?
エレベーターが止まちゃったんですけど」
インターフォンに向かって話しかけたが返ってくる声はなかった。
「えーー、どうなってるのよ。
もしもーし! 誰か返事してくださーい……
うん?」
インターフォンから微かになにか聞こえてきた気がした。
「あっ! もしもし、だれか?!」
晶は短く叫ぶとパネルに耳を近づけた。
ウオオ
まるで獣の唸りのような声。
「ひっ!?」
思わず小さな悲鳴を上げてパネルから後ずさった。
ウオオオオオオオォォォ
パネルから耳を離しても声は変わらず聞こえてきた。インターフォンから聞こえてくるのではなかったのだ。それは、エレベーターの天井の方から聞こえきた。
晶は怯えた様子でライトを天井に向ける。
白いLEDライトが薄汚れた天井を照らしだした。
バカン!!
「きゃあ!」
天井のパネルが突然下に開いた。晶は悲鳴を上げてしゃがみこんだ。
2022/03/11 初稿