深夜にそれは目を覚ます 10
窓ガラスに逆さに貼り付いた青山の姿を大江は凍りついたように見つめた。口から噛みきられたスパゲッティの切れ端がポタポタと落ちる。
「あ、青山っ!」
大江は叫ぶ。
窓に貼り付いた青山の体が画面からズームアウトするようにすっと後ろに下がっていく。
ガン!
と、再び青山の体が激しくガラスに叩きつけられる。額がばっくりと割れ、鮮血が放射状に窓を汚した。既に青山は白目を剥いて、呆けたように開いた口からはだらしなく舌が飛び出ていた。
気を失っているか、あるいはもう……
「きゃあああ」
女の絶叫が大江の耳を貫いた。惨状に気づいて、店にいた客の誰かの悲鳴だろう。
お陰で我に返ることができた。大江は青山を助けようと店を飛び出した。店を出た大江は空を見上げて絶句することになる。青山は大江の頭上高くに吊り下げられていた。その下半身にはうねうねとのたくる触手が何本も絡みついていた。
「なんだ、これは!?」
触手を目で追うと近くのマンホールに行きついた。
ズズズズ
触手が動き、あっという間に青山の体をマンホールの中へと引きずりこんだ。
ダイオウイカなんてとんでもない!
こいつはもっと禍々しいものだ
呆然と立ち尽くしたまま、大江は自分の間違いを思い知る。
「ぎゃあ」
「た、助けてくれ」
「いやあぁあ、だれかぁ~、だれか、来て!」
いたるところから悲鳴や叫び声が聞こえてきた。
はっと我に返った大江は道路のあちらこちらのマンホールから先ほど見たのと同じような触手が現れて町行く人々を絡めるとっているのを目撃した。
「どうなっているんだ! 化け物は1匹じゃないのか?」
いや、1匹なんてだれも言ってはいやしない
勝手に思い込んでいただけだ
ごくりと唾を飲み込みながら大江は青山が引きずり込まれたばかりのマンホールへ目をやった。
バババババッ!
マンホールから触手の束が噴水のように垂直に沸き立った。
頂点まで達した触手は大江の頭目掛けて急降下してきた。
「うわっ!」
転がるようにして触手をかわす。目標を失った触手はファミレスの駐車場をえぐり、四方にはね上がった。コンクリートの地面をのたくり、這いまわる。
「きゃあ」
鋭い叫び声が上がる。大江と同じように外の様子を見に出てきたウェイトレスが倒れていた。足に触手が絡みついている。体がズルズルと引きずられいく。
「ひ、いや、ちょっと! きゃあ、やめて、やめて!!」
もがくウェイトレスに触手が何本も絡みつき、ギリギリと締め上げる。ゴキリと鈍い音がして腕が肘の曲がらない方向に折れた。
「ぎいぁああぁ! 痛い、痛い。助けてぇ~~」
触手は悲鳴を上げるウェイトレスを持ち上げると、無造作に地面に叩きつけた。まるで癇癪を起こした子供が手にした人形を床に叩きつけるように何度も何度と打ちつけた。ウェイトレスは打ちつけられると悲鳴を上げる。
「ぎゃあ」
「ひぐ……」
それも三度目には聞こえなくなった。
理性も善悪もない、人知を軽々と越える純然たる暴力を目の当たりした大江は体の奥底から怖気立った。
触手は動かなくなったウェイトレスをズルズルとマンホールまで引きずっていく。一瞬、穴にウェイトレスの体が引っ掛かったが、なんのためらいもなく強引に引き込む。
ウェイトレスの体が真ん中のところで折れた。
背骨の折れるボキンという音を聞いた大江は転がるようにファミレスへ逃げ込んだ。
ガツン ガツン
謎の触手がファミレスの自動扉や窓に激しくぶつかり大きな音を立てた。この度に店内に取り残された客たちから声を圧し殺した悲鳴や叫びが上がっていた。大江はざっと店内を見回してみる。自分もいれて客は男女合わせて4、5人。ファミレスの従業員は3人といったところだった。
「なんだよ、どうなってんだよ?!」
若い男が1人、従業員に食ってかかっていた。隣では女が携帯電話を耳に当てたまま、苛立たしそうに足を踏み鳴らしていた。
「ああ、なによ! なんで誰もでないのよ。
どうなってるの職務怠慢! 税金泥棒!!」
おそらく110でもしているのだろう、と横目にしながら大江は思った。
大江もファミレスに逃げ込んだ直後に警察に電話していた。だが、女の言う通り話し中でつながらなかった。ずっと繋がらない緊急通報。
それが意味すること……
つまり、こんなことが町中で起こっているってことか
このブロックだけでなく、町中のマンホールから触手が這い出てきて人を襲っているとしたら……
大江は自分の想像に背筋が寒くなるのを覚えた。
ビシリ!
ついに窓に無数のヒビが入った。逃げろ、と誰かが叫ぶのとガラスが四散して触手が店内に雪崩れ込んでくるのはほとんど同時だった。
「うわっ!」
「きゃああ、た、助けて!」
たちまち2人が捕まり、さらにのたくる触手に1人の男が壁にふきとばされた。大江は身を屈め、触手を避けながら逃げ場を探す。と、厨房への入り口が目に入った。
「奥へ! 台所へ逃げろ!」
キッチンへ逃げ込むと、大江は急いでドアを閉め、鍵をかけた。ドン、ドン、と激しく叩かれるドアを必死に押さえながら「テーブルやイスでドアをおさえるんだ! はやく!!」と一緒に逃げ込んだ人々に叫んだ。
たちまちドアの前に即席のバリケードが作られた。ある程度頑丈なものができてようやく人心地がついた。
大江は額の汗を腕で拭いながら床に座り込んで息を吐き出した。キッチンへ逃げ込めたのは一組のアベック客とスタッフの制服を着た男と女、そして大江の5人だけだった。その内の女の客がキッチンの裏手を指差した。
「ね、裏口から逃げればいいんじゃないの?」
一同の視線が裏口のドアへ向けられた。男客が猛然とそのドアへダッシュする。
「いや、ダメだ! 空けるな!!」
大江は鋭く叫んだ。ノブに手をかけた男が振り向いて叫び返してきた。
「なんでダメなんだよ?!」
眼は血走り大きく見開かれ、大江を威嚇してくる。が、大江は動じることなく冷静に返す。
「そのドアの向こう側に触手がいないなんてどうして言える?」
「なんだって?」
「あの触手は近くのマンホールから複数出てきていた。この辺一帯のマンホールのどこからでも現れる可能性があるんだ。だから、その裏口の先に触手がいないとは言えないって言っているんだ」
大江の言葉に男はギクリと体を震わせて恐る恐る手をノブから離した。
「じゃあ、一体どうすればいいんだよ」
「取り敢えず、ここで助けを来るのを待つ方がいい。
裏口から逃げるのは博打だ。
実行するにしても最後の最後まで取っておいたほうがいい。
幸い、ここには食べ物とかあるからその気になれば数日は頑張れそうだ」
大江の言葉にパニック状態であったキッチンの雰囲気が徐々に落ち着きを取戻した。
「そのドアにもバリケードを作って置こう」
大江は疲れきった体を奮い起こし、テーブルを裏口のドアへ向けて引きずり始めた。
2020/04/10 初稿




