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一秒の数え方

作者: Bull Martini

 公園の樹木をくぐった秋の日差しは、幾筋の淡い茜色に輝き、葉影乱れる歩道に夕刻を告げた。

 踏み砕かれた落ち葉の上に、肩を並べた人影が忍び寄る。一つは猫背で覇気が無く、だらだらと歩幅も歪で不格好。もう一つは小柄で背筋がぴんと張り、滑るように進む姿がガードレールに美しく映える。互い違いに伸び上がる二つの影は、路面の目地辿り、息長く街の風景に染む。

 学校の帰り道、僕と広川胡桃(くるみ)は、公園沿いの歩道を歩いていた。大きな公園を囲うように作られた歩道は、高校の通学路として、いつも生徒達の姿で溢れている。特に公園西側に位置する歩道は、駅と大通りに面している為、生徒以外の利用者も多い。対照的に東側の歩道は、廃れた工業地帯と僕らしか使わないバス停があるだけで、人影は殆ど無い。穴の空いた枯れ葉が点々と散り、どこか寂寥せきりょうを抱えた路面が細々と続く。

 胡桃とは、最初は別々に通学していた。僕の住む地域は交通の便が悪く、中学までは自転車を利用していたが、高校入学を機にバス通学に変わった。バスの利用者は、大抵近所のお年寄りか子供を抱えた母子で、真新しい同じ学校の制服を着た胡桃は、初めて見る顔だった。背は僕より頭一つ小さく、肩の下まで伸びた黒髪が仕草の度に揺れる。降り際に、僕が会釈を送ると胡桃は小さくはにかんだ。揃った前髪から覗く、大きく透き通った瞳の中に、ぎこつに笑う僕が映る。その後どちらからともなく話しかけ、一月もすると、隣の座席で世間話や冗談を言い合った。何故か一言も口を聞かない日もある。お互い相手に不満を持ったり、怒っている訳ではない。それでも行き帰りは必ず一緒、僕らは奇妙な関係を持ったまま、初めての秋を迎えた。

 花片散る如く、表裏くるくる流れる木の葉が、幾度なく目睫もくしょうに迫る。歩道敷く落ち葉は斑に褪せ、一歩一歩、不同たる香気が鼻梁びりょうに響く。うそ寒い秋の空気は、影を踏み鳴らす音も鮮明にする。僕は耳を澄まして、二人の靴音がぴったり揃う時を待った。車が通り過ぎ、側溝の落ち葉がふわりとつむじを切る。二人の間に僅かな風が流れ、僕の二の腕に胡桃の肩が触れた。樹木の間隙かんげき馳せる西日に、眼を細め、胡桃にあくびを向ける。逆光に霞む胡桃の横顔は燦爛さんらんたる曲線で縁取られ、うつむくシルエットは巧緻こうち尽くした絵画のように美しい。

 妙なことに、この時間胡桃が横に並ぶと、やたら心臓が胸を叩く。胡桃とは、同じ学校、同じ学年、同じ帰り道なだけで、特に親密な関係だとは思っていない。それが歩道に差し掛かると、他人は疎か、自分にもひた隠しにしていた懸想けそうがあっさり露呈するのだ。毛穴や呼吸からも流れ出し、ああ全身の力が抜けていく。間抜けな気色を見せまいと、僕はすまし顔で口をつぐんだ。数秒前の胡桃の横顔が瞼の裏に映り込む。望めばすぐ隣に同じ顔があるのに、探そうともせず、瞼の裏の反芻はんすうに興じた。落ち葉踏みしめる二人の靴音が、冷たく光る秋の空気にふけていく。

 いつの頃からか、並んで歩く時は、胡桃の歩幅を気にするようになった。歩道では左側を歩くようになった。バス停の段差では、胡桃の手を引くようになった。他の生徒の前では照れくさいが、二人でいる時は呼吸と同じようにできる。そして気づいたら、胡桃を見つめる時間も増えていた。

「ねぇ。遥斗はると聞いてる」

 突然、視界が真っ黒に覆われる。とっさに仰け反ると、上半身を屈めて僕の顔を見上げる女がいた。いや、もちろん胡桃だ。頭の中の胡桃と、現実の胡桃が重なって動揺する。落ち着けばまだ間に合う。動揺を悟られまいと、適当に話を合わせる。

「うん、そうだよ」

 僅かに上下する顔の動きに合わせて、声の方へ視線を送る。斜に構えた胡桃が、細く白けた目で僕を見ていた。鋭い視線が容赦なく突き刺さる。作戦は失敗に終わった。胡桃はため息をついたあと、すぐに向き直って、

「今日は公園の中を通って行かない?」

 返事も聞かず、途切れた境目から公園の中へ入っていった。

「ちょっと、まってくれ……」

 おかしい、足が動かない。突然パニックに陥った僕は、歩き方を忘れた。でたらめに力を入れる。足の甲で地面を蹴り、鈍い音のあとにじわりと痛みが続く。僕は足を引きずりながらあとを追った。

 公園を囲っている樹木の中を一人で進む。一歩ずつ靴が沈む度に、腐葉土の匂いがふわりと鼻につく。木が視界を遮り、不安な気持ちがじわじわと押し寄せる。胡桃のものだう、落ち葉を踏みしだいた跡が続く。下を向いて歩いたせいで、低い木の枝が顔にあたり口の中に苦味が広がった。木の間を流れる風に、子供のはしゃぎ声が乗る。その直後、白い閃光が目を覆った。心音を二回ほど数える間に、視力が徐々に戻り、よろよろと歩く。僅かに色付く視界の先に、アスファルトの上で、ボール遊びをする子供を捉えた。

 学校の近くにある公園は、校舎と校庭がすっぽり収まるほど大きい。遊具やスポーツ施設はないものの、自然の木が多く残っている為、子供からお年寄りまで利用者は幅広い。公園内には、アスファルトが敷かれた立派な道の他に、少し外れた裏の通りには、落ち葉がふっくら敷き詰められた砂地の道もある。

 茜色に透き通る光が、のんびりと、公園の地面に艶を敷く。人通りの少ない寂しげな道に、胡桃の背中が見えた。周りの木と比べると低身長が一層際立つ。僕はポケットに手を入れたまま、駆け足で向かった。通り過ぎる清掃業者の後ろで、猫が野鳥を追いかける。息も絶え絶え、あと少しで胡桃の肩に手が届く。先に立ち止まった胡桃が急に振り向いた。

「ねぇ、あそこがいい。行こっ」

 僕に知らせるように指を差すと、またどこかに走り去る。振り回されている事に喜びを感じる自分が憎い。指の跡を辿ると先の方にベンチが見えた。駆けていく胡桃の後ろ姿は、遊具を見つけた子供のように愛くるしい。掃除が行き届いた道から、落ち葉がぎっしり敷かれた道へ、足元の色が変わった。ベンチの前に立つ胡桃に追いつき、息を切らす。

「座ろっか。遥斗はこっち」

 先に座った胡桃は隣をぽんぽん叩く。塗装が剥げ、すっかり色褪せた木製のベンチに腰をかけた。制服が擦れたあとに木が軋む。視線の端に映る胡桃の髪の毛は、光を浴びて金色に輝く流砂のようにせせらぐ。煌々と艶めく髪の毛が、一本一本色合いを変化させながら、肩から胸へ流れ落ちた。

「ふんっ、んんん……」

 胡桃は胸を突き出し、両腕を下に伸ばす。

「ああ~、生き返る。日に当たったベンチって温かい」

「なんだい、ずいぶん豪快に湯に浸かるじゃないか」

 胡桃は目を閉じたまま、耳を澄ましている。しばらくの間、僕は見惚れることにした。空気に触れた落ち葉が口に渋みを運ぶ。唾液を飲み込んだ瞬間、低く濁った音が喉を通る。胡桃は片方の瞼を薄く開け、僕と目が合うとニヤリと笑い、

「遥斗のえっち」胡桃の背後から一縷いちるの光がまたたく。一呼吸間を置いて、「はぁ、もう秋か、ホント時間って経つのが早い。私達が高校に入学して八ヶ月、年を越したらあっという間に二年生だ」

「胡桃と出会ってもうそんなに経つのか。何もしていないようで、時間の奴は意外と優等生なんだな」

「そうよ、なんせ今までずっと無遅刻無欠席ですから。――あっ、そうだ。遥斗これ知ってる」手を遊ばせていた胡桃が僕に向き直る。「一秒って、どれくらいの時間だと思う?」

「いちびょうって、時計の常に動いている針のことかい?」

「うん、その一秒」

「どうしたんだい、急にそんなことを聞いて」

「ううん、ちょっとね。ほら漠然とでいいから答えてみて」

 突然のことに面食らい、瞬きを五回ほどして顔を上げる。

「えっと、じゃあ、――いち! はい今、たった今一秒経った」

「ばかっ、それじゃあ数字の一を数えただけじゃない。私が言いたいのは、そう言うことじゃなくて」

「じゃあれかい、一目惚れまでにかかる時間とか、流れ星が落ちるまでの時間かい?」

 胡桃は手を口にやり、小刻みに肩を震わせる。

「ごめんなさい、遥斗って意外とロマンチストだったのね。とても素敵な表現だけど、もう少し具体的に」

 将軍からの無理難題に、頭の熱量がぐっと上がり、鼻の穴も大きく広がった。

「よしわかった! いいかいよく聞くんだよ。ここに左手があるね、この手を開いたまま水平に動かして、右の手の平に素早く当てる。どうなるか、音が鳴るだろう。そう、これが一秒だ」

 ヤブ蚊の如く、鼻先で乾いた音が鳴り終わる。

「そんなの遥斗のさじ加減次第で、どうとでも変わるじゃない。そういった特殊なものじゃなくて、もっと万人が共通して認識できるものはないかしら」

「ちっ、わかったよ。それなら、ここにとけ……」

 ポケットの時計に指先が触れる寸前のところで、胡桃が僕の手を掴む。

「そうじゃなくて」

 あまりの剣幕にとっさに目をそらす。

「じゃ、じゃあ。全員両手の間隔を三十センチ、速度も秒速三十センチと定めれば万人に共通する。精度に関しては、物差しと時計を持った判定員を設ければ、より正確に一秒を計測できるだろう」

 侃々諤々《かんかんがくがく》、僕の溜飲は虚しく谷底へ下った。鼻梁の皮脂に塩分が加わる。胡桃は、僕の視線を気にすることなく、

「光は一秒間に地球を七週半もするの。もし、その一秒を測れたら、そういった可能性を含んだ時間を、もっと身近に感じることができる。そう思わない?」

 背後からか聞こえた枝の折れる音が、次の言葉が出て来るまでの間をつないだ。

「ひ、日時計を作って、一時間のマス目を三千六百分の一で区切れば一秒に……」

「日が落ちたら測れない」

「砂時計から落ちる砂を、一秒間数える」

「その一秒を知りたいの」

 二人の呼吸が、交互に二回ほど入れ替わる。

「どうして胡桃は、そこまで時間に拘るんだい?」

「人生で一度の一秒が、自分の知らないところで始まって、気づいたら終わっているって少し寂しくない? だから、もっと大切にしたいの」

 僅かに顔を上げた胡桃は遠くを見つめて黙り込む。瞳の潤いが肌膚きふをめぐりまつ毛が艶めく。そのまま夕陽が一番濃い色に変わり、胡桃の輪郭は光りの中に沈んだ。野鳥の鳴き声が、枯れ葉せせらぐ風に運ばれて、耳をかすめる。襟元から抜けた体温が、顎の関節を引き締め、舌の奥に微細な辛味を残す。胡桃が髪をかきあげると、黒い光沢が上から下に流れ、ふわりと洗髪剤シャンプーが漂う。静謐せいひつな空気が言葉をさらい、僕の口を黙らせた。

「二十一」

「え……。今、なんて」

「音楽の先生に聞いたんだけど、二十一を言い終わるまでにかかる時間が丁度一秒。先生は小さい時、M.M.=60(六十拍)のテンポとるのがとても苦手で、ピアノを演奏する時は、いつも頭の中で二十一と復唱していたんですって。この数字の中に一秒の世界が存在しているって、とても素敵だと思わない?」

「そんなの二十七でも二十八でもかまわないじゃないか」

「数字を順番に数えて、最初にくる一秒の語感が二十一なのよ」

 聞かん坊を優しく言い咎める母親の口調だ。胡桃は僕を無視したまま、

「じゃあ、その一秒で私達には何ができると思う? 例えば、一秒間に二、三人の人間が地球に生まれて、反対に一秒間に一、九人の人間が地球からいなくなる」

「――何もできないよ。そもそも一秒じゃ、何かをやろうと思った時点で、とっくに時間が経過しているじゃないか。一秒の間に何かをする、そう考える方がおかしいよ。それに……」

 胡桃は、人差し指を口に押し当て、

「少し黙って」

 僕は文字通り息を呑んだ。途端、木の揺れる音や、鳥の鳴き声が耳から遠ざかる。徐々に時間の間隔が曖昧になる中、何故か胡桃の姿ははっきりと見えていた。呼吸は止まり心臓だけが動く。瞬きで視界が暗くなる寸前、胡桃の瞳が大きく迫る。顔に近づく気流の中に花片めくる甘い呼吸が混ざった。吐き出す息に含まれる水蒸気の一粒一粒を、鋭敏になった僕の肌が感じ取る。胡桃の粒子が肌に触れた途端、僕の頬は忽ち火照りだした。その直後、乾いた唇が波紋立つ水面のように潤う。唇越しに伝わる体温は僕より温かい。僅かに重なる唇の弾力で身体の芯が揺らぐ。瞼の向こうがぼんやり見えはじめた頃、心音が遠ざかると同時に唇がふっと軽くなる。感触が離れる間際、僕の鼻梁に終わりかけの息があたり、唇に甘い余韻を感じた。

「はい、一秒」

 胡桃は悪戯に背中を向ける。空を見上げると、薄暗い茜色が降りてきて公園を包み込んだ。木立から広がる静寂が二人の間を通り過ぎる。二十一。木を軋ませながら胡桃が振り向くと、にっこり笑い口元が動く。僕は、その言葉にただ黙ってうなずいた。


「いつもありがとう」


 地平線に光を抜かれた夕陽は、くすみ敷いた落ち葉の上に、二つの影を赤くの伸ばした。

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