Part9
プロフェッサーが苦悶の喘ぎを漏らす最中、それは静かに蠢き始めた。
既に身体の大部分は燃え、体組織も破壊された。
異形、そして異常なまでの生命力を持つメメントと言えども、ここまで体組織を損壊されてしまえば最早手遅れ、のはずだった。
だが、彼は未だ生きていた。
理由はただ一つ。彼が人工的に、改良された存在である、から。
プロフェッサーが己が目的の達成の為に品種改良したメメント、それが彼であるから。
パキ、ぱき、と何かが割れるような音を皮切りとして、溢れ出す。
全身、炭化した表皮を突き破って液体が流れ出していく。
血液、ではなく、かといって体液、というのも当てはまらない。その液体は明らかに不自然だった。そう、まるでそれ自体が生きているかのように流動的に。一目散に同じ方向へと動いたのだから。
「え、?」
最初に気付いたのはレイコだった。
得体の知れないモノが一斉にこちらへと向かって流れ込む。水、にも見えたがそれからは嫌なモノを感じる。だから、咄嗟にレイコは後ろへと飛び退く。
バシャ、バシャ、と液体はそのまま壁へと向かい、近くで気絶していたイゴールへと降りかかる。
「う、──」
シュウウウ、という音と共に、まるで薬品でもぶちまけたかのような異臭が漂い、レイコは鼻を手で覆う。
「────ミーシャ…………ああ、ソウダな」
達観したような声は、イゴールから発せられた。
彼は既に液体に全身を包まれつつあり、そして信じ難い事に、溶けていく。
少しずつ、だが、間違いなく死んでいくサイボーグは誰に言うでもなく、呟く。
「いつまで…………おれたちはイッショ、ダ」
あっという間、ものの十秒にも満たない短時間で、行為は終わろうとしている。
ついさっきまでそこにいたはずの三メートルはあろうかという巨体の全てが失われていた。
最初から誰もそこになどいなかった、とでも言わんばかりに。
◆
それが最後に自我が持っていたのは、一体いつだろう。声らしきものを出した事もあるが、それは果たして誰が、どんな意図を持ってなのか、もう分かるものはいない。単なる叫び声、或いは何らかの感情の発露であったか、もう判断する術は存在しな
肉の塊を取り込み、肥大化していく。まるでアメーバのように、広がっていく。
仮にそれに自我、言葉を話すだけの機構が残っていたのならさしずめこう言うだろう。
”喰わせろ”
そして蠢き出したそれが真っ先に喰らったのは。
かつて彼が誰よりも慕っていた、肉親であった。
「ウソ、何……コイツ」
レイコの目の前でその光景は繰り広げられる。
ウゾウゾ、とした液状のモノが、倒れ込むサイボーグを包み込んでいく。
いや溶かしていった。それは凄惨で壮絶な、捕食行為だった。
◆
プロフェッサーとクロイヌが対峙するのと平行して、エヴァンは倒れ込んだメメントを注意深く観察していた。
イフリートの炎は相手を燃やした。あの鉄壁とも思えた銀色のクロセストも、穴が空けば効果は不完全。炎はあっという間に相手を炎上させた。肉が焦げる不快な臭いが鼻をつく。
(倒した、のか?)
だが、エヴァンは警戒していた。嫌な予感がした。本能的に危険を感じていた。
そしてその予感は的中する。異変は起きた。
注意が逸れたその間隙を突かれた。
プロフェッサーとクロイヌの対峙、そして結果的に解放されたアルにエヴァンの注意は向けられ、メメントへの警戒が薄れてしまった。
「エヴァンっ」
アルの声でエヴァンは我に返ると、その場から飛び退く。
「なんだと? うっ……」
目の前に倒れていた巨体が破裂していく。グズグズに溶けていき、強烈な異臭におもわず吐き気を催すのを何とかこらえる。
「何よコレ?」
数々の修羅場を潜って来たレイコも、文字通りの異形を目の当たりにし、流石に息を呑む。
そこにいるのは、全身がまるで液状化したかのように、グズグズと崩れた奇怪な生き物。まるで溶解液にて溶かされる最中のような、不気味さを漂わせるモノであった。
「ク、クヒャヒャヒャハ」
プロフェッサーが笑う。酸素が足りなくなったからか、或いは既に精神が崩れたのか、打って変わって、下品な笑い声を轟かせる。
「もう、終わり……だ。あれは、【ミーシャ】は止まらない。枷外した今、全部を呑み込んで、肥大化──ぐぎゃ」
ガアン、という轟音はアンチマテリアルライフルの一撃。
「黙れ」
クロイヌが聞くに堪えない科学者を黙らせた。普通であれば全身粉々になって然るべき銃撃ではあるが、銀色のクロセストの防御性能の為だろう、腹部が軽く凹んだだけで、生きている。
「エヴァン・ファブレル」
「何だよ?」
「ここからはお前の領分だ。任せるぞ」
クロイヌは微かに笑みを浮かべると、気絶したプロフェッサーを抱え込み──走り出す。
「流石にアレを投げ飛ばすってのは通じないわね。さ、アルちゃん。ここにいると足手まといになるわ、行きましょ」
いつの間にか、レイコはアルの手を取っている。アルにも状況は分かっている。一度頷くと、レイコの後を追う格好で走り出す。
「エヴァン」
「ん?」
振り返るとアルが立ち止まっている。
「負けないで」
「ああ。まだデートしてないもんな。すぐにこのバケモノをぶっ飛ばして、追い付くよ」
そう言いながら背を向け、握り締めた拳を突き上げる。
「うん。待ってるから」
アルの声を背中に受け、思わず口元がほころぶ。
他者から見れば多分、……いや、間違いなくエヴァンはにやけているだろう。普通に考えれば、目の前ではスライム状に変化していく怪物が迫る中で、まるで緊張感を感じさせない弛緩し切った表情を浮かべている。
(ああ──)
辛うじて人型をしたメメントの腕が振り下ろされ、エヴァンを襲う。決して速度はない。だが、スライム状になった影響からだろうか、体長は十メートルを越え、攻撃範囲は大きい。
(──俺ってホント単純だ)
エヴァンは横へ飛び退いて躱す。
ビシャ、とバケツに入った水をぶちまけたような音。そしてシュウウ、とした薬品のような臭気。
(──あんな普段いつでも聞けるような言葉でこんなにも)
腕が伸び、エヴァンを再度狙う。当然ながら回避するのだが、さっきとは違い、腕そのものの面積が急拡大。明らかに躱す事に対する対抗策らしく、エヴァンは躱し切れない。
(──でもさ、いいじゃん単純で。だって俺──)
ビシャ。
メメントの腕は獲物へと振り下ろされる。
(──最高に幸せモンだよな)
直後、火柱が立ち上り、スライムは気化。エヴァンは炎をまとった拳を突き上げている。
これは示威行為ではなく、アルへの誓い。絶対に約束を守る、という彼なりの決意表明。
「さっさと片付けて、帰らなきゃな」
金髪ピアスの青年はニカッ、と無邪気に、それでいて獰猛に笑った。
◆
「うわ、っと」
ステップバックして、迫る脅威を躱す。
結論として、エヴァンは苦戦を強いられている。
とりあえず目下の所、相手からの攻撃を受けてはいない。その悉くを躱し、避け続けている。
さっきまでの戦闘で負った負傷も、徐々に回復しており、優位に立っている実感はある。
だが、その優位は紙一重、仮初めでしかない。
何故ならエヴァンの攻撃もまた、決定打とはなっていないのだから。
イフリートの炎は相手の攻撃に有効ではある。液体が急激に熱せられれば気化、蒸発するのはごく当たり前の事実である。
そういう意味で、エヴァンは相手に対して相性がいいとも云える。
「く、しつこいぜ」
拳を叩き込み、相手の攻撃を防ぐと同時に気化させる。防御にして攻撃、盾にして矛。
メメントはここまで一度とて獲物へ有効な一打を打てずにいる。
普通であれば、少なくとも正常な判断力が残っているのならば、逃げ出してもおかしくはない。それ程に手詰まりな状況だったが、それは何の迷いもなく、エヴァンへと殺到し続けていた。
理由はメメントは常に捕食によって気化していく以上に自身を拡充していたから。
そう、餌はエヴァン以外にもあったのだ。
この偽装された貨物船の最下部に。
「っらああっっ」
攻撃、もとい捕食をかいくぐったエヴァンが相手へ拳を叩き込む。
直撃を受け、ジュワッと気化していく一方で、エヴァンは冷静に状況判断を試みる。
(キリがねぇ。でもよ、何か妙だぞ)
ここまで数十発もの攻撃によってメメントは相当の損耗を受けているはずであった。
にもかかわらず、相手は一向に弱体化していない。それどころか、その勢いは徐々に増していく始末。
(メメントにマトモな知性、ってのがあるってのなら、いいや、──そもそも出し惜しみする理由がないよな)
エヴァンが引っかかったのは、膠着状態に至った理由。だからこそ、焦らずに状況判断を試みている。
「うわっ、と」
メメントの一部が床を突き破って襲いかかる。まるで槍のように鋭く尖ったモノが、一斉にエヴァンを串刺しにせん、と突き出す。
「あっぶ、ねっっ」
まるでマンガのキャラクターのような動きで躱したその様を、相棒であるレジーニが見たのならきっとこう言うだろう、「やはり猿だな」と。
(そっか、下だな)
エヴァンはこの状況の理由を本能的に察し、拳を振るう。狙うのは、メメントではなく、無数の穴が穿かれた床。鉄製の分厚い代物ではあったが、まるで足の踏み場もない今、まして超高熱の拳であれば打ち破るのは難しくない。
「っしゃあっっ────って、何だと?」
狙い通りに、床は溶解。下の層が露わとなり…………エヴァンは唖然とする。
そこにあったのは、階層そのものに広がるメメント。そして、その糧になっているモノの姿。
カプセルの中には無数の肉があった。ポコポコ、とまるで培養しているかのような印象。そこに浮かぶのは間違いなく人間。これこそ、あのアルジェントが無数に銃撃を出来た理由。
血液などに含まれる鉄分を抽出、それを銀色のクロセストが弾丸へと精製、際限なく弾丸として発射していたのだ。
ここにあるのは、あのメメントの為だけ用意された餌場。メメントがただ喰らい、糧とする為だけの場所であった。
「そうかよ。ここで腹一杯になって、そんで上からあのクロセストで覆っていた、って訳だ」
エヴァンは拳をぎゅ、と握り締める。炎が巻き上がり、渦を巻く。
「ギュウウウウ」
メメントはいよいよ人型を保てなくなっているのか、不定形のゼリー状へと変わっていく。
彼を突き動かすのはただ全てを捕食したい、という本能のみ。何もかもを呑み込み、消化し、より多くを喰らう事のみ。ズルズル、と壁を不気味に這い上がり、取り込まんと襲いかかる。
「──」
エヴァンにはもう言葉を語るつもりなどない。
事ここに至っては、己の本分を果たすだけ。つまりはメメントを狩るモノとして全力を尽くす事のみ。
「ウグユアアアオオオオオ」
何処から発声しているのかは定かではないが、メメントは咆哮。同時にビシャ、と天井へ何かを飛ばす。目を凝らすまでもない、それは自分の一部。それがプクリ、と風船のように膨らみ──破裂。大量の水滴を降らせる。
「うお、っと」
降り注ぐ水滴の一つ一つが溶解液らしい。エヴァンの周りがジュウウウ、と溶けていく。
(コイツはヤバいな)
躱し切るには水滴は多過ぎる。まさに絶対絶命の窮地。
(でもよ────ナメんなよ)
だがエヴァンの表情に焦りは浮かばない。それどころか不敵に口角を吊り上げる。
「はあああああああああ」
雄叫びのような大音声と共にイフリートに左右の拳に炎を纏わせていく。エヴァン自体が一本の火柱と化していき、降り注ぐ水滴の悉くは瞬時に気化していく。
「いっくぜェェッッッ」
そしてエヴァンは突進する。狙うのは当然──目の前のメメント。
「ク、グウウウウウウアアアアアア──」
メメントもまたエヴァンに呼応するかのように咆哮。その全身をうねらせ襲いかかる。
まるで津波のような奔流となり、呑み込まんとする異形。
「うっらああああああッッッッ」
炎は全身を覆う。ありったけ全てをこの一撃にこめて。只、目の前のモノへと叩き込む。
激突、そして直後。
船は大爆発を起こし炎上、そのまま沈没した。
◆◆◆
「あっちゃあ、もしかしなくても……やり過ぎたのかなぁコレ?」
バサリ、と広がった新聞を眺め、エヴァンは苦虫を潰したような、味のある表情を浮かべる。
紙面を飾っていたのは先日発生した港湾部の大爆発事故。
「あー、そっか。エヴァン君は溺れてたんだよね。で、今朝までグッスリしてたんだよねぇ~」
「う゛っ」
カチャ、と目の前にカップを置くのはレイコ。ニヤリとしたその笑みと、つり上がった瞳を前にエヴァンは気圧される。
「カッコ悪いわよねぇ、バケモノ退治したヒーローがその場で気絶して、危うく溺死しかけるとか、ねぇ?」
「し、仕方ないでしょ。全力出し尽くしたんだから?」
「ああ、そうねぇ。それよか、そのコーヒーはどう?」
プクッ、と頬を膨らませ、エヴァンはレイコから視線を外すと、カップに注がれたコーヒーを口にする。
「あぁ、美味いよ……」
窓から見える空を見上げながら、そう呟く。
あの事件から二日間が経過していた。
エヴァンはあのメメントを倒す事には成功したものの、力を使い果たして直後に気絶。レイコの言う通り、溺れているのをアルに救われ、生還した。
(でも、何で気絶したんだろうな?)
それだけが解せない。あの時、炎を限界まで使った。
(あのバケモノを倒すにゃそれくらいしなきゃダメだった)
その小さな雫一滴残らずに消し飛ばし、勝利を確信した瞬間だった。
(妙な感覚だった。そうだな……)
まるでスイッチのオンオフでもするかのように、電源を落とされたように脱力した、そんな感覚だった。
首をかしげ、じっ、と遠くを見つめるエヴァンだったが、
「あれ、もしかして、美味しくなかった?」
「……ん、あ、アルっ」
その声に視線が動く。そこにいたのは、エプロン姿のアル。フリル付きのエプロン姿にネコ耳カチューシャ、という格好を目の当たりにした、エヴァンは椅子から盛大に転げ落ちる。
「ぶくおっ」
思いっ切り頭から着地を決め、その場でゴロゴロと悶絶する金髪ピアスの青年を心配したのか、アルが近寄る。
「大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫。ダイジョーブだよぉ」
そう言いながら、かさかさと距離を取るエヴァン。声と態度には動揺しか伝わらない。
心ここにあらずのまま、愛する恋人の淹れたコーヒーを、ろくに味わいもせず飲んだ事を心底後悔していた。
「そ、それよりその格好は一体……?」
表情こそ唖然としながら、しかしその目は彼女の普段お目にかかれないようなコスチュームに釘付け。まばたきすらせずに──凝視である。
「ちょ、……エヴァン。恥ずかしい」
「あ、ゴメン。その……」
頬を真っ赤に染めるアルと、それに追随するかのように同じく頬を染めるエヴァン。
(ウッフフ、いやぁ。初々しいわ)
そんな二人をカウンターからニヤニヤとレイコが窺いつつ、ふと思う。
(しかし、どうしてアタシには素敵な彼氏がいない? こんなに美人なのに、しかも超絶強いのに?)
その超絶過ぎる強さに誰も付いていけない、という点を失念している段階でお察しなのだった。
「それにしたって早くないですか?」
エヴァンが指摘しているのは、今彼らがいるバーの原状。
ついぞ二日前、サイボーグであるイゴールの襲撃を受け、内装やら何やら破壊されたはずなのに。
割れた窓(強化ガラス)、吹き飛んだドア(耐爆性能)、各種テーブル(マグナムでも撃ち抜けない)等々、様々なあれこれ全てが普通に元に戻っている。
「ああ、クロイヌのヤツが直したのよ。どうしてくれるワケ? って文句を言ったんだけど、その詫びってコトでね」
レイコは平然とした表情で言うが、それは普通では有り得ない事。何せクロイヌ、はこの九頭龍に於ける裏社会の顔役、大物の一人。そんな人物に真っ向から文句を言って、修理させるのだから。
(いや、そんなの多分アンタだけだと思うよ)
そう思ったエヴァンだったが、口にするのだけは避けるのだった。またぞろ軽々とぶん投げられては困る。アルの前では特に。カッコ悪い姿なんて見せられない。そんな男の子の意地だった。
カチカチカチ────。
今時珍しい柱時計が正確に時を刻んでいく。
ネズミ少年は明日には退院するらしく、空港には必ず来るそうだ。
「さって、そろそろ出かけましょうか?」
不意にレイコが話を切り出す。
「え?」
「はい、そうですね」
何の話なのか分からないエヴァンを尻目に、アルはいつの間にか着替えている。白い帽子とワンピースにサンダル。
「───」
「エヴァン?」
口を開けてポカンとした様子のエヴァンをアルは心配そうな面持ちで見ている。
彼女は理解していない。エヴァンが今、何を思っているかを。
(うっわ、コレってあれだ天使ってヤツだよオイ)
目の前にいる恋人から漂う清楚さ、美しさ、もう何もかも全てに金髪ピアスの青年は釘付け。言葉すら浮かばないのだと。
「じゃあ、コレ渡しとくわね」
レイコはそんなエヴァンの様子をクスクス、と笑いながら、アルに何かメモのようなモノを手渡す。
「はい、そこの男子。さっさと椅子からお尻を上げなさいっての!」
「ひゃはっ」
レイコの一撃で、エヴァンの座っていた椅子だけが、まるでだるま落としの様にキレイに吹っ飛ぶ。
「な、なにすんだ──」
不意とは言え、奇声を上げてしまったエヴァンは頬を赤くしながら犯人に向き直る。
「あとは二人でね」
ボソ、と耳元でそう囁く声。
「は?」
「な、え? アル?」
訳が分からないままに、エヴァンの手がグイ、と引っ張られ、視線を揺らす。
「行こう、エヴァン」
アルがエヴァンの手を取っている。
「え、何処に? ホワイ?」
「……トだよ」
かすれるような、小さな声。
「え?」
「デート、街を見て回るって約束してたでしょ」
アルは耳まで赤くしながらエヴァンの目を見た。口紅の色がいつもと違う。何て言うか、いつもよりもずっと──。
「はいもういった行った、リア充爆ぜろ──」
レイコは満面の笑みを浮かべながら、ドギマギしている二人を店から追い出す。
カララン。
このバーで唯一開店当初から存在し続けるベルの音色が高らかに鳴り響き──。
「楽しんでねアルちゃん」
レイコは穏やかに微笑むのだった。
◆◆◆
「う、ぐ……」
気が付けばプロフェッサーはそこにいた。
思わず目が眩むような眩い光が浴びせかけられ、心なしか体温がいつもより高い。
「な、なんだここは…………?」
見回して状況を確認しようにも、光が強過ぎて何も見えない。
そうして時間も分からず、いつまでこのままなのか、と不安がこみ上げていく。
すると突如、光は失われ────。
(な、何だと?)
何故かプロフェッサーは泥まみれのぬかるんだ場所にいた。
「あ、ぐくっっ」
激痛が走り、その原因を確認し、愕然とする。
有るべきものが欠けている。両手が…………肘から先が欠損していた。
「あ、何だこれは」
訳が分からないまま、だが、事態は進んでいく。
キュラキュラ、とした音がする。何か、大きなモノが近付く音。
「…………」
恐る恐る覗くと、視線の先には巨大な戦車とそして迫るキャタピラ。
そしてプロフェッサーは理解した。ここがどういった場所なのかを。
轟音は砲撃。飛び散ったのは何か、知らないモノの成れの果て。飛び交うのは無数の銃弾。
(に、逃げなくては……)
それだけを考え、足を動かそうとするも。動けない。何故なら…………足の骨が折れていたから。
(……何だと?)
プロフェッサーは自分がここから全く、微動だに出来ないのだと理解する。
そして迫る足音。ゆっくりと、探るように慎重に近付く誰か。
(イヤだ嫌だいやだ、死にたくないしにたくないシニタクナイ)
それだけを考え、ただただ身をすくめ、目を閉じて祈る。
足音は離れていく。
(助かった、のか?)
プロフェッサーは自分が生き延びた事に心底から安堵を感じ、そして次の瞬間、爆ぜた。
自分が吹き飛んでいく。何もかもが損なわれていく。痛みすら感じる暇もなく、死んだ。
「──こちらの問題は片付いた。こうして連絡が出来たという事は、そちらも無事に片付いたようだな。ああ、それは良かった。九頭龍としても、あんたがトップの方が何かと手続きが楽でいい。
プロフェッサー? ああ、奴なら生かしている。上の連中がまだしばらくは遊べそうだから殺すな、という事でな。
だから奴自身が望んでいた【実験】を特別に【体験】させている。
無数の精神、無数の死を追体験させてやっているのだが……」
視線を動かすと、モニターに映るのは一台の医療用カプセル。無数の器具に繋がれ、呻くプロフェッサーの姿。
その表情は苦悶に満ち、発狂寸前、いや、既に発狂しているのか、口、目、鼻、ありとあらゆる穴から液体を流している。
「……どうやら結果は失敗らしい。まぁ当然だがな。
如何に大きな身体を用意しようと、入念に下準備をしようが、所詮は当人自身の【底が浅ければ】精神の移植など耐えられない。
奴は根本的に分かってはいなかったようだ。他人の精神、その記憶を受け入れるにはまず己自身を磨かねばならんのをな。いいや、それも違うか。結局は他人を完全に受け入れる、受容出来るモノなどはいない。自分とは自分のみの、唯一無二の存在なのだからな。
だからこそイタチは異端であり、怪物なのだろうさ」
クロイヌの脳裏に浮かぶのは、とある異端児の姿。
述べ数十万もの犠牲の末に、屍の上に成り立つ最強にして最凶の殺し屋。
粗暴で野卑で、誰よりも脆い精神をも持ち合わせる真性の怪物。
クロイヌにとっては、鵺、いやメメントなる怪物すら恐れる存在ではない。
もっと恐るべき、驚嘆すべき怪物を身近で飼っているのだから。
「プロフェッサーの処分? ……いや、殺す予定はない。あれに今更そんな価値などない。あのまま夢の中で死に続ければいい。次は自分で殺した相手の死を追体験させる予定だ。
そろそろ話を終わろうか。ああ、そうだな。今後とも出来れば互いにいい関係維持出来る事を願うさ、ではな【帝王】」
通話を切ったクロイヌは既にプロフェッサーに関心もないのか、モニターを切る。
そして葉巻を口にすると、静かに闇の中、目を閉じた。
漆黒の中こそが彼の居場所。光差す世界など彼には必要ない。
これまでもこれからも、永久に。
◆◆◆
「じゃあ、そろそろ行こうか」
エヴァンの声にアルは「そうね、」と返事を返す。
既にレイコ達とは別れた。
”はい、これお土産。持っていきなさい”
そう言いながら渡された袋はかなりの重さ。軽々と渡されたエヴァンは思わずその場で前のめりに倒れそうになった。
(一体どういう馬鹿力なんだよ。人間離れし過ぎだっつうの)
そんな事を思いながら、手荷物としてさっき渡してきた。
(まぁ、あんだけ重いんだ、きっとすっげーモンだろうなぁ)
家に戻った後の楽しみが増えたからか、自然と笑顔を浮かべる。
「でも、本当に楽しかったよな、アル」
「うん。もっと色んな場所行ってみたかったね、エヴァン」
二人にとって昨日のデートは本当に楽しい時間だった。
レイコが用意した各地の観光地案内は的確で、さらに行った店の多くはレイコから話を聞いていた、という理由で普通以上に値引きまでしてきた。
食事に立ち寄った店でも、オススメにあった裏メニューを注文して舌鼓を打ち、お洒落なカフェではアルが以前から食べたがってたスイーツを堪能。
そして最後には海辺のレストランで、打ち上げ花火を見ながらのディナー。
一日中、色んなモノを目にし、有意義だった。
たったの一日、でも本当に楽しい時間を過ごす事が出来たのだから。
「今度は自力でこようぜ」
「そうね。じゃあお金貯めなくちゃ」
「そうだな。へっへ、俺も頑張らなきゃだな」
互いの顔を見つめながら、そんな事を話している内に、どうやら搭乗する飛行機が着いたのか、乗客がゲートから続々と出て来るのが見える。
「よっし、行こうかアル」
「うん」
エヴァンとアルが互いの手を取り、歩き出した時だった。
不意に目に留まったのは、一人の青年。
ヘラヘラとした軽薄そうな面持ちをした、小柄で一見すれば、無力そうな、そんな印象を感じさせる青年。
しかしその足取りに一切の無駄はなく、足音も殆ど聞こえない。
「え──」
ゆっくりとした歩みのはずなのに、気付けば横をすれ違っている。
ほんの一瞬、瞬き程の僅かな時間。にも関わらず、汗が滲んでいた。
(アイツは一体何だ?)
すれ違うその瞬間、感じた。その目の奥に宿った獰猛な何かを。
不意に思った。もしも相手にその気があったのなら、敵意があったのなら、無事で済んだだろうか、と。否が応にも警戒心は高まっていき────。
「エヴァン、どうしたの?」
「あ、」
アルの言葉で我に返り、振り向くとあの青年の姿は小さくなっていく。杞憂だったのは明白だろう。
「いんや、何でもないよ。帰ろうぜ」
気を取り直したエヴァンは満面の笑みを浮かべて、歩き出す。
二人は帰路に就く。アトランヴィルシティへ、自分達の居場所へと。
「ン~? 気のせいかな」
青年は首をかしげながら、横切った相手の背中を見つめていた。
エヴァンがそうであったように、イタチも前から歩く金髪の青年に警戒していたのだ。
「ま、いっか。ではでは帰ってきたぜ、我が愛しの九頭龍。最っ高にクソッタレなオレにお似合いの──」
そんな厨二病ちっくな独白をしている内に、入国審査を終え、目の前にいたのは。
「あ、オーナーじゃないっスか。オレを迎えに来てくれたンだ」
「え、ああ。イタチ君か。もう帰って来たの? 静かな日々は終わりを迎えるのね」
「うわ、コレだよ。マジにサイテーだよこの人」
「誰がサイテーだってのさ、イタチ君の癖に生意気よ」
「ぐべらっっ、こンの──理不尽大魔王ッッッッ」
この出会いにどんな意味があったのか、それを知る者はいないだろう。
そもそも意味なんてなかったのかも知れない。
それぞれに人生があり、道もまた無数に分岐する。
ほんの一瞬の邂逅に、深い意味などなく、単なる偶然なのかも知れない。
ほんの数日、二つの世界で起きた出来事を知っている者が一体どれだけいるのだろう。
もしも誰かが、この物語の最後を告げるなら──それはきっと、こんな言葉じゃないだろうか。
”Hasta la vista”
(完)