1話 『最期』
「じゃあ、またな」
その言葉を最後に、高校の制服を着用した男子生徒は自分の通学カバンを手に病室を後にした。
そしてその後ろ姿をただ眺めているのは、彼と同じ学校に通っている少年、渡礼央だ。
「……」
再び一人となった室内はしんと静まり返り、先程までは僅かも耳に届くことはなかった擦れるような音が空間を支配する。
それは窓の外から吹く微風がカーテンを揺らす音であり、いつの日からか聞き慣れた音でもあった。
礼央は少しだけ寂しさを孕んだ視線を入口の方に向けながら、自らのこれまでを追憶し始める。
…彼は元々、普通の高校生だった。
中学では比較的緩そうだった野球部へと入部し、勉強面では昔から親に学習塾に通わされていたこともあって学区1番の高校を受け見事合格。高校では部活に入らずに過ごしていた。
そんな彼の学生生活には強く記憶に残るような印象的な出来事はないものの、気の合う仲間と苦楽を共にした時間は十分に幸せと言えるものであった。
しかし去年の夏、高二の時に病で倒れてしまってからは入院生活を強いられている。
病気を患った後もたまに学校に行っていたが、今は病状が酷く外出は許されていない。
「……続き、読むか」
すると、気を紛らわすために学友から借りている小説本を手に取る。
かつてはあまり本を読む方ではなかった礼央だが、入院したばかりの頃に友達に勧められてからはよく読むようになった。
書物に触れる時間というのは自らの酷な現状すらも忘れて没頭出来るもので、最近では数少ない娯楽として重宝している。
今礼央が読んでいるのはこの世界とは違う異世界が舞台となった話。孤児として生まれた主人公がその国の王に剣の腕を買われ成り上がっていく。そんな王道の物語だ。
勿論その途中には主人公が悩み、葛藤する場面が設けられていて、内容自体は掛け値なしに称賛できるものであった。
だがそれを読み終えた後、満足感よりも先に何処か物足りなさを感じた。
その理由が分からなくて必死にそれを考える。
(…ああ、そうか。この本では主人公に近しい人が誰一人死んでいない。だから、なんだろうな)
そして一つの結論に辿り着いた。
主人公と仲の良かった騎士たち。そして彼に好意を寄せる姫。確かにこの本では、主人公の仲間となる人物が危機に瀕することはあっても、結果として亡くなることはなかった。
こんなことを言っては礼央自身がまるでバッドエンドを望んでいるように聞こえるが、別にそういう展開を欲しているわけではない。
ただ、最初から仕組まれたかのようにできすぎたこの結末に違和感を覚えてしまったのだ。
それは結局救われない結末を望んでいるのと同義だと捉えられても仕方ないが、礼央の心中では明確に違う。
でもそれは、自らの死が近いと何となく悟っているからかもしれない。
この本の世界は戦乱の世だ。となると、命の軽さも随分と変わってくる。そんな世界で騎士として戦場を生き抜くことはかなり難しく、それが周りの人々全員となれば尚更である。
今まさに死と直面している礼央にとっては、どうしてもそこが引っかかってしまうのだ。
「……ふっ、はは」
するとそこで、無意識に現実に引き戻されていたことに気がついて思わず笑ってしまい、そっと本を閉じた。
読書を終えると、次には勉強を始めた。
礼央は高校三年生のため、本来なら受験勉強で忙しい筈である。
しかし最近は学校へ中々通えず、そのため出席日数が足りずに留年することになっているのだ。
なので、それほど必死にならなくても良いのだが、少しでも周りと同じでありたいという気持ちから勉学に励んでいる。
「んー、この問題ムズイな…あとで恵里に聞くか」
そう呟くと、次の問題へと目を移す。
今礼央の口から出た恵里というのは、毎日見舞いに来てくれる幼馴染の橘恵里で、小学生の頃からの付き合いだ。
160センチ半ばで容姿端麗、成績も良く、引退前はバスケ部のエースとして活躍していた。
そんな彼女がモテない筈もなく、彼女の幼馴染で通っている礼央は昔からいつも羨ましがられて来た。
礼央自身も170センチと体は大きい方ではないけれど、顔はそれなりに整っており、中には早く付き合っちゃえよと言ってくる者もいた。
礼央も恵里のことをずっと異性として意識していたので、何度も告白しようと思ったのだが結局できず、そして病気になった事でそれどころではなくなってしまったのだ。
やがて一区切りつくと、一度勉強の手を止め、窓の方を見る。
するとそこには病院の外の敷地が広がっていた。
もう何度も見た代り映えのない景色。
その中で礼央が見ているものは、そこにいる人々だ。
すると今日は、病院から出て来て嬉しそうに母親に抱きつく少女がいた。
(……確かあの子は…隣の部屋に入院してた子だったな)
恐らく退院することが叶ったのだろう。礼央はそう推測すると、やや複雑な気持ちになりながらも軽く微笑んで、手元の参考書へと視線を戻した。
♢♢
「――ッ!?」
そろそろ恵里が来る頃だと考えながら勉強をしていると、突然胸が痛み出した。
何とかナースコールを押した後、胸を押さえて苦しんでいたが、その時、誰かが病室に入ってきた。
「え、礼央? だ、大丈夫っ!?」
それは室内に入った途端苦しんでいる礼央を見つけ、動転し始めた恵里であった。
(うっ、これ、やばいな…きつすぎて、意識が…)
先程から恵里が大声で何か言っているが、今はそれを留意出来る程の余裕が無く、段々と意識が薄れていく。
(はぁ、告白ぐらい、しとくんだったなぁ…)
薄れていく意識の中で後悔していた。
……次があるなら素直になろうと。
そして意識を失う間際、礼央は朦朧とする頭で、かつて読んだ本に記載されていた、とある一節を思い出していた。
自分はその言葉の正確な意味を知らない。一見するとマイナスなその言葉は、一体何を意味していたのだろう?
自問に対する答えを導き出そうとして、だがそれが叶うことはなかった。
そんな彼が最後に見たものは、哀哭しながら必死に自分の名前を呼ぶ、幼馴染の姿であった。
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『子たりとも、父たりとも、縁者たりとも、死に迫られし我を救うことを能わず』
<[仏教聖典]―法句経>
初投稿です。暖かい目で見守ってください。