第二章
部活動に新入生が加入して二週間が過ぎた。どの新入生も、学校生活にも、部活動にも慣れ始めていた。
俺の所属する演劇部も例外ではなく、俺たちは、ずいぶん演劇部の雰囲気にも、先輩たちにも慣れてきた。
入学式には満開だった園庭の桜はすっかり葉桜になり、青々とした若葉の色が目立つようになってきた。
HRが早めに終わったため、幼稚園に一番乗りしてしまった俺が、それを眺めていると、他のクラスもHRが終わったのか、だんだんと校舎のほうが騒がしくなってくる。
「あ、ヒロ君、おはよう!」
園庭の隅にいた俺に声をかけてきたのは、るりるり先輩こと、時永瑠璃先輩だ。
「おはようございます、るりるり先輩」
俺がそう言うと、るりるり先輩は右手を差し出してくる。
俺はその右手に、右手でハイタッチする。
通常の部活動が始まった初日、二年生の先輩たちが改めて自己紹介をしてくれた。るりるり先輩、という呼び名も、その時、先輩自ら考案したものである。そしてるりるり先輩は、自分の目標を口にしたのだ。
「私は、この学校を卒業するまでに、百人の人とハイタッチするのが目標です! 新入生の皆さん、ぜひ協力してください!」
そう言われ、俺たちは全員るりるり先輩とハイタッチを交わした。先輩を捕まえてこんなことを言うのは失礼かもしれないが、るりるり先輩はなんとなく妹っぽく感じてしまう。
それ以来、新入生との親交を深めようという考えなのか、るりるり先輩は挨拶をすると、俺たちにハイタッチを求めるようになった。
挨拶が、いつでもおはようなのにも、もうすっかり慣れた。
芸能界というのは、朝でも、昼でも、夜でも、その日、初めて会った人には、おはようと挨拶するのが普通で、舞台関係者も、この挨拶に慣れている人も多いということで、高校の演劇部は、このおはようございますという挨拶を採用している学校も多いのだという。
「あ! るりるりせんぱ~い!」
喜色満面の声が聞こえる。俺の隣を駆け抜け、るりるり先輩に抱きつきに行ったのは、カトちゃんこと、内田純さんだ。彼女は、身長も俺より少し大きいくらいで、小、中とソフトボールでキャッチャーをやっていたというだけあり、体格はかなり大きく、小さくて細いるりるり先輩に抱きつくさまを見ると、潰しそうでひやひやする。が、るりるり先輩は、その熱烈なハグを笑顔で受け入れている。さながら大型犬と幼女だ。
カトちゃんは、自分の体格にコンプレックスがあるらしく、小柄なるりるり先輩が羨ましいのだと言っていた。しかし、るりるり先輩は、そんなカトちゃんを羨ましいと言っていた。
「大きいのっていいなぁ。私、いつも子ども扱いされちゃうんだよね」
それは体格のせいだけではないのでは、という言葉は、全員が呑みこんだ。
「カトちゃんって力もあるし、大きいし、すごく頼りになるよね!」
そんなことをるりるり先輩が言い続けたせいか、カトちゃんは、すっかりるりるり先輩に懐いてしまった。
「カトちゃん、るりるり先輩、潰れそうだよ?」
そんなことを言いながらやってきたのは、メシアこと、君島瑞希さん。彼女のあだ名は、最近定着したばかりだ。
入部から一週間が過ぎた頃、幼稚園の空き教室で謎の音が聞こえるという事件があったのだ。
「よし! 音の正体を確かめるための人員を募集する!」
張り切った小松崎先輩の提案に、顔を真っ青にしたのが双子の時永先輩たちで、その時永先輩たちに寄り添うように怯えたのが藤沢先輩。半ば呆れたように手を挙げたのが、副部長の加瀬先輩だ。一年生のほとんどが顔を見合わせる中、立候補したのが君島さんで、それを見て、俺も手を挙げた。
部員としては唯一の男だし、小松崎先輩とばっちり目が合ってしまい、最高の笑顔を向けられてしまったのも原因のひとつだ。
結局、その四人で空き教室に向かった。カーテンを閉め切ったその教室に近づくと、確かにガサゴソと音がする。
「何の音でしょう?」
俺がそう言うと、小松崎先輩は若干こわばった顔で、俺に、空き教室の扉を開けるよう促した。
なんだ、結局先輩も怖いのか、と、思いつつ、俺はそっと扉を開けた。
薄暗い中から、相変わらず、ガサガサ、ゴソゴソ、と音がしている。
と、俺の後ろにいた君島さんが、ずかずかとその中に入っていった。
「何かいるなら出てこい!」
叫んだその手には、何故か十字架が握られていた。
と、その声に驚いたかのように、物陰から小さな影が飛び出してきた。
「うわぁっ!」
「うわわっ!」
「ひゃあっ!」
女子三人が悲鳴を上げた。必死なときは、誰も「きゃあ」なんて言わない。
俺がその影の行方を追うと、そこにいたのは。
「……ハクビシン?」
俺の言葉に、先輩たちが俺の背後に近づいてくる。
「え、なに?」
「ハクビシンって、ニュースとかでたまにやってるあれ?」
小松崎先輩と、加瀬先輩が首をかしげる。
「多分、そうじゃないかと。ニュースで見たやつに似てるので」
「うわ、かわいい!」
小松崎先輩が声を上げる。
「あ、ほんとだ、ハクビシンだ」
加瀬先輩は、持ってきていたスマホで画像を検索していたらしい。見せてもらった画像は、目の前の生物と特徴が一致している。
「これ、どうしましょう」
俺がそう言うと、先輩たち二人はうーん、と考え込む。
「自然と出てってくれればいいけど……。駄目な時は、業者呼ぶしかないかね」
加瀬先輩の言葉に、小松崎先輩も頷く。
と、部屋の真ん中あたりで固まっていた君島さんが、力が抜けたようにへたり込んだ。
「び、びっくりした」
「だ、大丈夫か? 瑞希ちゃん」
加瀬先輩がそう君島さんに声をかける。
「ていうか、なんで十字架なんて持ってるの?」
小松崎先輩が不思議そうに彼女の手元を覗き込む。
「あ、えーと……。お守りです」
少し恥ずかしそうに言う彼女に、加瀬先輩は首をかしげる。
「え、瑞希ちゃんってキリスト教徒?」
「いえ、とくにそういうわけでは……。ただ、なんとなく、ノリで?」
君島さんも首をかしげながら言った。
「よし! 今日から瑞希ちゃん、メシアね!」
唐突に小松崎先輩が満面の笑みで宣言する。
「は?」
君島さんはぽかんとしている。
「十字架持ってるし、クロスじゃちょっと安直かなって思ったから、メシア!」
「あー、なるほど」
加瀬先輩は呆れたように笑った。
「ごめん、瑞希ちゃん。この人、こう言い出したら聞かねぇから」
加瀬先輩の言葉に、君島さんは少し頬を赤くしながら頷く。
「いい、です……。メシアで」
「そうか。じゃあ、瑞樹ちゃんのことは、これからメシアって呼ぶな」
加瀬先輩の言葉に、君島さんはコクリと頷いた。
「よろしく、メシア!」
小松崎先輩はずっと上機嫌だった。
「あ、メシア、おはよう」
そう挨拶しながらやってきたのは、はるにゃ先輩こと、藤澤晴菜先輩だ。
ちなみに、彼女のあだ名は、新入部員のとき、自己紹介で思いっきり自分の名前を噛んで、名前がそう聞こえたことが由来だという。
「お、ヒロ君、メシア、るりるり先輩に、カトちゃん。おはようございます」
はるにゃ先輩と一緒にやってきたのは、キアヌこと、石川雪亜さんだ。
ある日突然、
「今日から私のこと、キアヌって呼んで!」
と石川さんが言い出し、なにがあったのかと思ったら、帰る方向が一緒だったはるにゃ先輩と、やっぱりあだ名が欲しい、という話になり、どんなあだ名がいいか、名前で連想ゲームをした結果、キアヌ、という呼び名が一番しっくり来る、ということで、このあだ名ということになった。
「おはようございます!」
「お、おはようございます!」
続いてやってきたのは、あいあい先輩こと、時永藍先輩と、あかりんこと、望月あかりさん。二人とも、普段は眼鏡をかけているせいか、小松崎先輩に、眼鏡二連星、と呼ばれている。
あいあい先輩が役者兼裏方であるため、裏方志望で入部したあかりんは、いつも、あいあい先輩と一緒にいる。
「よっ! ヒロ君!」
背中を思い切り叩かれ、俺は、今日も「キラキラ」をまとった、その犯人を恨みがましい目で見る。
「小松崎先輩……」
「もう! コマッさんでいいって言ってるのに!」
この二週間で、コマッさんこと、小松崎先輩に、俺はすっかり懐かれてしまった。
懐かれた、というのが正しいのかどうかわからないが、コマッさんとしては、待望の男子部員を構いたくて仕方が無いようで、しょっちゅう些細ないたずらをしかけてくる。
舞台の上では、誰よりも芝居に真摯で、相変わらず「キラキラ」して見えるのだが、元の性格は意外に子供っぽく、誰よりも、馬鹿なことを率先してやりたがる。親しみやすい性格といえば聞こえはいいが、言ってしまえば、「残念」な人なのだ。
ピコッ、と、もう耳に馴染んだ音が響く。
「いたっ!」
コマッさんの悲鳴が響く。
「まったく、何度も言ってるけど、ヒロ君困らせるんじゃねぇよ!」
「おはようございます、棟梁」
「おはよう、ヒロ君」
何かと暴走しがちなコマッさんの手綱を取っているのが、副部長兼大道具リーダーの棟梁こと、加瀬夏樹先輩だ。この棟梁という呼び名は、大道具のリーダーが代々受け継いでいる名前なのだそうだ。
「もう、棟梁! なにも叩くことないじゃん!」
「アンタ、ほっとくとずっとヒロ君に絡んでるだろ。部員、揃ったんだから、部活始めてくれよ」
棟梁に促され、コマッさんは部員たちを見回した。
「おぉ、本当だ。じゃあ、皆、着替えて五分後にホール集合で!」
「はーい!」
全員が、更衣室になっている宿直室に向かう。
「おい! まず、ヒロ君に着替え取らせてやれって!」
棟梁がそう声をかけ、俺は一足先に更衣室に向かわせてもらう。長らく女子部員しかいなかったここには、男女別の更衣室など存在しないため、唯一の男子部員である俺は、着替えだけ更衣室に置かせてもらって、着替えは宿直室の隣の旧職員室でさせてもらっている。
俺は着替えを取ると、すばやく宿直室を出る。
それを確認してから、女子部員たちが宿直室に入り、俺が隣で着替え終わる頃には、女性特有のきゃいきゃいとした声が聞こえる。
俺は、女性陣が着替え終わるまで隣で待っていなくてはいけない。どうも先輩たちは、女子部員しかいなかった感覚が抜けないのか、平気で胸のサイズの話などしだすので、俺は反対側の端に行って耳を塞ぎ聞かないことに必死だ。まあ、初日、当たり前のように同じところで着替えさせられそうになったことに比べれば、どれもたいしたことではないが。
「おーい、ヒロ君、終わったよ!」
コマッさんが職員室の入り口で呼んでくれたので、俺は着替えを置きに、更衣室に向かう。
更衣室はいつ入っても雑然としている。
着替えがあちこちに置きっぱなし、誰が持ち込んだのか漫画が数冊置いてあり、さらには、お菓子や、何故か電気湯沸かし器も置いてある。
俺は、荷物を取りやすいよう一番手前に置かせてもらい、先輩たちが先に向かったホールに向かう。
「よし、ヒロ君も揃ったし、始めます! おはようございます!」
「おはようございます」
こうして、今日も賑やかに演劇部の部活動は始まった。
「皆、明日の土曜日はあけておいてくれた?」
コマッさんの言葉に、新入生が頷いた。
「よし! じゃあ、全員参加できるね!」
「あの、明日、一体なにがあるんですか?」
キアヌが不思議そうに聞いた。
先日、急にコマッさんが、全員に、
「次の土曜日、予定入ってる人いる?」
と聞いてきたのだ。全員が特に予定が入っていないことを確認すると、土曜日をあけておいてほしい、と言い出したのだ。二年生たちはどうやら理由がわかったらしいが、一年生たちは首をかしげていた。
「ふふふ……、明日は、全員でカラオケに行きます!」
「え!? カラオケ!?」
驚いた声を上げたのはあかりんで、嬉しそうな声を上げたのは、カラオケが趣味と言っていたメシアだ。
「毎年、新入生が入って少し落ち着いてくる四月の終わりごろに、親睦会としてやってるんだよね。というわけで、皆、一曲は歌ってもらうので覚悟してくるように!」
コマッさんの宣言に、あかりんは悲壮な顔になる。
「ああ、そんな顔しなくても大丈夫だよ! なに歌っても誰も攻めないし、別に、歌がうまいかどうかを知りたいわけじゃないから」
あいあい先輩があかりんを励ます。
「じゃあ、明日は朝九時にここに集合ね! あ、そうだ! 全員、制服着てきてね!」
コマッさんは笑顔でそう言った。
翌朝、俺が制服に着替えると、母さんが不思議そうな顔で俺を見た。
「あら? 今日は土曜日なのに登校なの?」
「いや、今日は、演劇部の親睦会でカラオケ」
俺がそう言うと、母さんはますます不思議そうな顔をする。
「そう。ただカラオケなのに制服なのね」
「先輩が制服着て来いってさ」
「へぇ、そうなの。私、今日、急に仕事出なくちゃいけなくなっちゃったから、ちょうどよかったわ。楽しんできてね」
母さんに見送られ、俺は家を出た。
幼稚園に着くと、すでにほとんどの人が揃っていた。
「お! おはよう、ヒロ君」
コマッさんにそう声をかけられ、俺は、
「おはようございます」
と明るく返した。
「あとは……、棟梁と、あいあいと、あかりんかぁ……」
昨日のあかりんの悲壮な顔を見て、今日、もしかしたら来ないのではないか、と、俺は気がかりなのだが、コマッさんは、大丈夫だと確信したような顔をしている。
「あー、おはよ」
次にやってきたのは棟梁で、その後ろから、あいあい先輩とあかりんもやってくるのが見えた。
「あ、来た来た! これで全員集合だね!」
コマッさんはハイテンションに手を振る。
「あかりん、大丈夫?」
そうたずねたのは、カラオケにテンションがあがっていたカトちゃんだ。カトちゃんとあかりんは同じクラスで、カトちゃんは、何かとあかりんを気にしている。
「う……、うん……」
自信がなさそうだが、あかりんはかろうじて笑っている。
「よし! じゃあ、行こうか!」
コマッさんは笑顔で引率を始める。
制服でぞろぞろと歩く姿はやはり目立つ。
コマッさんが向かった先は、学校から歩いて五分ほどのアーケード街だ。そのアーケード街に、催し物を行うためのステージがある。そこでは、今日、なにかあるのか、スピーカーやら、マイクやらが準備されていた。パイプ椅子を並べただけだが、観客席も用意してある。俺は、それを見た瞬間、何かいやな予感がして、コマッさんを見た。
「おーい、亘理さーん!」
コマッさんは、明るい声で準備をしているスタッフらしき男性に声をかけた。
「おー、来たな! 北原の演劇部!」
亘理さんと呼ばれたその人は、コマッさんを見ると楽しげに笑った。
「あ、あの、コマッさん……。今日って……」
「おう! 北原高校演劇部新入部員親睦会こと、オリオンラジオ主催、カラオケ大会に出場するぞ!」
笑顔のコマッさんに、苦笑する二年生。そして、驚愕に目を見開く一年生。
「き、聞いてないです!」
悲鳴に近い声を上げたのはあかりんだ。
「ふっふっふっ……、これは、演劇部に入部した誰もが最初に通る試練だ! 諦めたまえ!」
どう聞いても悪役の台詞を吐きながら、コマッさんはとても楽しそうだ。
「えぇ~……」
言葉をなくすあかりんに、二年生たちが次々にフォローに回る。
「ごめんね~、これ、毎年恒例になってるんだよ」
「月一開催のオリラジのカラオケ大会、四月は必ずうちの演劇部の分、枠あけてもらっちゃってて」
るりるり先輩とあいあい先輩が、あかりんを必死に慰めている。
「大丈夫! 楽しく歌ってくれればいいから!」
棟梁はそう言いながら、他の一年生にも同じ事を言って回っている。
「やあ! 北原の!」
突然、爽やかな声が響いた。
声のほうを見ると、黒髪を短く整えたイケメンがいた。
彼を見つけた瞬間、コマッさんは、にまぁっと口元を歪ませ、いいおもちゃを見つけたというような顔になった。
「あらぁ! 誰かと思ったら、外村の演劇部の部長さん!」
外村の演劇部、と聞いて、俺は思わずその人をまじまじと見る。
私立外村学園高等部。昨年、我が北原高校演劇部を抑え、今年の夏、全国大会に向かう、この県では一番の演劇名門校だ。俺が必死に勉強して北原高校に入ったのは、滑り止めに受けた私立が、この演劇名門校の外村だったためでもある。
「相変わらず、小松姫様はお美しい」
歯の浮くような台詞だが、彼にはよく似合っている。
「それはどうも。で、外村のも今年も出るつもり?」
「ああ、もちろん! で、北原の新入部員は……」
彼がこちらに視線を向けた。と、俺と目が合ったとたん、彼はつかつかとこちらに歩み寄ってきた。
「男子部員がいるじゃないか」
近づかれると、十センチ以上の身長差があるため、俺は彼を見上げなければならない。
「は、あの……」
俺が思わずそう声を上げると、彼はにやりと笑った。
「よし! 俺と勝負をしよう、北原の新入男子部員」
「え!?」
俺が驚いていると、外村の部長はにんまりと、三日月のように口を歪めた。
「これからやるカラオケ大会で、どちらが小松崎舞を感動させられるか。それが勝負だ」
「おー! いいぞいいぞ!」
コマッさんはニコニコと笑いながら、外村の部長と握手を交わす。
「ちょっ!? コマッさん、勝手に決めないでください!」
「負けたほうが、勝ったほうにそこの店のクレープおごりな!」
俺の意見はまるっと無視して、コマッさんは勝手に話を進めている。
「それで、小松姫。今年はなにを御所望かな?」
外村の部長は、笑顔を浮かべたまま、コマッさんになにやらたずねている。
「うーん……、じゃああれ!」
なにか思いついたかのようにそう言うと、コマッさんは、外村の部長にコソコソと耳打ちした。それを聞いた外村の部長は、爽やかな笑顔を浮かべた。
「OK、任せてくれ! 君に最高の歌を届けるよ!」
外村の部長は足取り軽くスタッフの元へ歩いていく。
「コマッさん……」
俺が恨みがましい視線を向けると、コマッさんはニヤニヤ笑っている。
「いやぁ、楽しみだな。君たち二人が私をどれくらい感動させてくれるのか」
「俺、そんなに歌、知りませんよ?」
俺がそう言うと、コマッさんは首をかしげた。
「あれ? ミュージカルの曲とか知らない?」
「え? ミュージカルの曲って、カラオケ入ってるんですか?」
俺が思わずそう聞くと、近くにいたメシアが答えてくれた。
「機種にもよるけど、結構入ってるよ。メジャーどころが中心だけど。もしかして、あんまりカラオケ行かない?」
俺はその問いに頷いた。
「カラオケなんて、もう何年も行ってないなぁ」
俺の答えに、メシアはうーんと小さく唸った。
「じゃあ、ヒロ君の歌が聴ける貴重な機会だね!」
コマッさんはどこまでもプラス思考だ。
「おーい、北原高校の演劇部! くじ引きやるよ!」
亘理さんがそう俺たちに声をかける。
「はーい! 今、行きます!」
コマッさんが明るくそう答えた。
オリラジこと、オリオンラジオは、県内向けのFMラジオ局で、毎月最終土曜日に、半日かけてカラオケ大会を行い、その様子を放送している。三十組の出場者がワンコーラスだけを歌い、会場にいる人と、リスナーからのメール、ファックスによる投票で優勝者が決まる。北原高校演劇部は、もう何年も、四月の大会に枠をもらっているらしい。今回は、一、二年生合わせて十組、つまり、一人一曲は歌わなくてはならない。
歌う順番はくじ引きで決めるらしい。北原高校の演劇部の他に、外村学園の演劇部の部長、さらに一般の参加者で三十組が揃い、くじ引きが行われる。箱の中に番号札が入っていて、その順番で歌う、ということだ。
俺が引いた番号札は二十九番。最後から二番目という順番に少々緊張する。が、くじを引いた後、泣きそうになっているあかりんに比べたら、泣き言なんて言っていられまい。
あかりんが引いたくじは三十番。彼女はトリを勤める羽目になってしまったのだ。
顔色を真っ青にしているあかりんを、あいあい先輩が必死に励ましている。
「大丈夫! 皆で応援するから!」
「あいあい先輩……」
あかりんが泣きそうな声を出す。
「逆に言うと、皆、あかりんの前に歌うんだから、あかりんには、お手本がいっぱいいるってことなんだから!」
棟梁も一生懸命励ましている。
「じゃあ、一番から十番の方、選曲に来てください!」
亘理さんが出場者を呼び出している。
「じゃあ小松姫、しっかり聞いててくれよ」
外村の部長が、わざわざコマッさんのそばに来て言葉をかけてから、亘理さんのところへ向かった。
「そう言えば、あの人、何番なんですか?」
俺がコマッさんに聞くと、コマッさんは心から嬉しそうな顔で、
「一番だって! あいつ、くじ運いいんだよな!」
と言った。
生放送開始の時間が近づいたせいか、会場にも観客が集まり始めている。
出場順に並んでいるため、俺の隣に座っているあかりんは、かわいそうなほど震えている。
「あかりん、一番のやつ見てて。多分、緊張なんて吹っ飛んじゃうから」
コマッさんは、あかりんに笑顔で言った。
そのうち、三十番までの組も選曲に呼ばれた。俺は、いろいろ悩んだが、一番歌いなれているミュージカルの曲を選んだ。あかりんは一体なにを選んだのかはわからなかったが、まだ顔色は悪い。
「大丈夫?」
俺が思わずたずねると、あかりんは小さく頷いた。
「では、まもなく本番です! パーソナリティーをお呼びしましょう!」
オリオンラジオではおなじみのパーソナリティーが舞台上にあがる。
「あれ、うちのOGだぜ」
こっそり教えてくれたのは、順番の関係で俺の前の席あたりになった棟梁だ。
「では、本番五秒前、三、二……」
スタッフが最後は手振りだけでスタートの合図を送る。
親睦会という名のカラオケ大会が、俺が思っていたより大規模な形でスタートした。
まず、パーソナリティーが大会の概要を説明した。
「では、張り切って参りましょう! 一番の方からです!」
外村の部長が舞台に上がる。その爽やかなイケメンに、会場がざわついた。
軽く雑談を交わした後、パーソナリティーが曲名を読み上げる。
「それでは、歌っていただきましょう!」
読み上げられた曲名に、会場が再びざわめいた。
なにせ曲名が、彼の顔には似つかわしくない、女児向け変身ヒロインアニメの主題歌だったのだから。
彼は、そのざわめきを気にした様子もなく歌いだした。
(かなり上手い、というか、無駄に上手い、というべきか)
俺が戸惑っていると、目の前の棟梁が、若干頭を抱えている。
「あの?」
「ありゃ、間違いなくうちの部長の仕込みだ……」
俺はその言葉に、妙に冷静に、ああ、あのときの耳打ちはこれか、と納得してしまった。
前のほうの席にいるコマッさんの様子を見れば、俯いて小さく肩を震わせている。
「どうみても笑い堪えてますね」
「あの人、面白いと思ったら、何でもやっちまうから」
棟梁の乾いた笑いに、俺もはは、と力なく笑う。隣に座るあかりんも、このおかしな状況に、緊張も忘れて、呆然と舞台を見ている。
と、棟梁が俺に紙片を渡してきた。
「コマッさんから。あかりんも一緒に見て」
言われた俺は、あかりんの肩を軽く叩いて、紙片を開いて見せた。
「コマッさんから伝言みたい」
その紙片には、
『外村の部長が、最初からこんだけインパクトのあることやってくれたんだ。私たちも、期待に応えないとね』
と、書かれていた。
クスクス、と笑い声が聞こえ、紙片から視線を上げれば、隣で同じように紙を見ていたあかりんが、おかしくてたまらないというようにクスクスと笑っている。
どうやら、もう大丈夫そうだ、と、俺は視線を舞台に戻す。外村の部長は、サビを大熱唱しているところだった。
一般の人を何人か挟み、るりるり先輩が歌った。少し古いアニメの主題歌で、可愛らしい声にぴったりの歌だった。
さらに順番が進み、コマッさんの番になる。舞台に立つと、コマッさんはいつものふざけた雰囲気を隠し、どこをどう見ても美少女になってしまう。
選んだ曲は、十年以上前にヒットした男性バンドの曲である。と、イントロが流れると、コマッさんは走って舞台の端に移動する。舞台を端から端まで走りながら楽しげに歌っているが、音程はぶれるし、息は弾んでいて言葉は聞き取れないし、さんざんな出来だ。
「コマッさん、実は歌、あんまり得意じゃないんだよ」
棟梁が苦笑しながら言う。
「え? じゃあ、なんでカラオケ大会なんて」
俺が言うと、棟梁の隣に座っていたあいあい先輩が答えた。
「まあ、伝統になってるっていうのもあるけど、もう一つは単純に、舞台に立つ度胸を新入生にもつけてもらおうってつもりなのかもね」
その言葉に、改めて舞台上のコマッさんを見る。
お世辞にも上手いとは言えない歌なのに、舞台上のコマッさんはずっと笑っていて、芝居のときと同じくらい「キラキラ」して見えた。
コマッさんのあとは、カラオケが趣味だといっていたメシアの番で、彼女は、最近人気のある女性シンガーの曲を完璧に歌いこなしていた。さらに続いて、キアヌは、大ファンだという女性アイドル歌手の曲を歌っていた。
数人一般参加の人を挟み、はるにゃ先輩が男性アイドルの歌をノリノリで歌って踊り、また数人を挟んで、俺の目の前に座っていた棟梁の順番になった。
「じゃ、行ってくる」
小声で俺たちに言うと、舞台に向かって歩いていった。
隣のあかりんを見ると、また緊張がぶり返してきたのか顔色が悪い。
「また緊張してきちゃった?」
あいあい先輩が心配そうにあかりんを見る。
「はい……」
小さく返事をしたあかりんに、あいあい先輩はにっこりと笑った。
「わかった! 次、私の順番だから、よく見ててね!」
その言葉に、俺もあかりんも、僅かに驚いた。
あいあい先輩は、裏方を兼任しているせいか、どちらかというと控えめな性格だ。まだ短い期間ではあるが、今までの部活動でそんな言動をしたことはなかった。
舞台上では、棟梁が演歌を熱唱している。前方では、コマッさんがまたプルプルと震えながら笑いを堪えていた。
あいあい先輩が舞台袖でスタンバイする。棟梁が歌い終わり舞台から降りると、あいあい先輩の順番だ。
眼鏡をかけたあいあい先輩は、落ち着かない様子で舞台に立った。
(あんなに張り切ってたのに、緊張してる?)
思わず心配になるが、席に戻ってきた棟梁が、妙にニヤニヤしている。
「あかりん、よく見ておきなよ。絶対お手本になるから」
こっそりと囁かれた言葉に、俺は舞台上のあいあい先輩を見る。
「では、歌ってもらいましょう」
告げられた曲名に、俺は思わず目が点になった。
俺と同じような反応をした人がごく一部で、後の人は、ぽかんとした表情をしている。
その曲名が、一年ほど前にヒットした、男性アイドルグループが活躍するアニメの主題歌だったからだ。
中学の演劇部にいた頃、同じように裏方専門だった部員の数人が、動画サイトを見るのが好きで、その人たちがおもしろいと見せてくれた動画のひとつが、そのアニメのオープニングだった。あまりにもインパクトがある曲だったため、俺も曲名を覚えていたのだ。
イントロが流れ、あいあい先輩が歌い始める。
そんな声が出たんだ、と、驚くくらいに低い声。
と、舞台上のあいあい先輩が眼鏡を外した。そして、一番手前の席にいたコマッさんに向かってその眼鏡を投げた。コマッさんはしっかりとそれを受け取った。
あいあい先輩の変化に、会場の人たちも戸惑ったようにざわめいていたが、あいあい先輩は、振りつきでその曲を歌っていく。しかも、次々に歌い手が変わるその曲を、一人一人声色を変えつつ歌っているのだ。その姿は、先ほどのコマッさんに負けないくらい「キラキラ」していた。
サビに突入するころには、会場は一体となって盛り上がっていた。あいあい先輩は、舞台の上で楽しそうに歌っている。曲が終わると、あいあい先輩に惜しみない拍手が送られた。
あいあい先輩は舞台から降りて、コマッさんから眼鏡を返してもらいつつ、席に戻ってきた。
「すごかったです、あいあい先輩」
あかりんは、キラキラした目であいあい先輩を見つめている。
「緊張したけど楽しかったよ」
あいあい先輩の言葉に、あかりんは頷いた。
「あかりんも楽しんでおいでよ」
棟梁の言葉に、あかりんは、再び、しっかりと頷いた。
あいあい先輩のあとに、数人の一般の参加者を挟んで、カトちゃんの順番になる。カトちゃんは、少々クセのある女性シンガーの曲を熱唱していた。
そのあとに二人挟んで、俺の順番だ。
舞台袖で待機していると、コマッさんと目が合った。コマッさんは、親指を立てウインクしている。
「では、二十九番の方、どうぞ!」
司会に促され、舞台上に上がる。
「お、この制服は、北原高校演劇部の方ですね!」
司会の人がそう話を振ってくれた。
「はい」
俺がそう答えると、
「北原高校の演劇部に男子部員が入るのは、随分久しぶりだと思うのですが、何か、決め手はあったんですか?」
と、笑顔で続けてくれる。
「そうですね……。先輩方が、とても楽しそうに演劇をやっているのが印象的で、ここで活動したいと思うようになりました」
俺の答えに、コマッさんは満足そうに頷いている。
「部長、頷いてますけど」
「まあ、見学初日に、部長に『逃がすなー』って言われましたけどね」
俺の答えに、会場から笑いが起こる。
「さて、では、そろそろ歌って頂きましょうか」
「はい」
俺は、舞台の真ん中で、真っ直ぐ前を見つめる。
「曲は、ミュージカル『レ・ミゼラブル』より、『民衆の歌』」
この曲なら何度も聞いているし、母さんと歌ったりもしていたので自信がある。
『レ・ミゼラブル』は、フランスのヴィクトル・ユーゴーの同名小説を原作にしたミュージカルで、映画化もされている。妹の子どものためにパンを盗み、十九年もの獄中生活を送った、主人公、ジャン・バルジャンの生涯を描くストーリーだ。
『民衆の歌』は、『レ・ミゼラブル』の中でも有名な曲の一つで、革命運動に身を投じる青年たちが、革命に臨む意思と、明日のフランスに思いを馳せ歌う曲だ。
慣れないカラオケのため、音源を試聴させてもらったが、この曲にはイントロが無い。音をとるための和音が流れ、すぐに歌い出しが来る。
革命軍の中にいる幼い少年が、青年たちを勇気付けるために歌い始める。
歌い出しを知らせる、メトロノームの三つの音。俺は、息を大きく吸い込んだ。
自分で思っている以上に、柔らかな声が出た。
続いて、青年たちの勇壮な歌唱が続く。
俺は真っ直ぐに前を見据え、これを見ている一番遠くの人にまで届くように、と、歌った。
正直、自分がどれくらい歌えているか自信は無い。けれど、聞いて欲しいと思った。
あの、楽しく、明るく、舞台に立つみんなの中に俺も入りたい。そのためなら、俺はこんなに勇敢になれるのだ、と。
サビを歌い上げ、曲が終わる。
と、コマッさんが、立ち上がり拍手をしてくれているのが目に入った。そして、それに続くように、会場から割れんばかりの拍手が聞こえる。
「ありがとうございました! すばらしかったです!」
司会の女性もにこやかに言ってくれた。
俺の気持ちが、少しは伝わったような気がした。
俺は舞台を降りる。と、舞台袖で、あかりんが拍手をしてくれていた。
「すごかったよ、ヒロ君」
「ありがとう。あかりんも楽しんで」
俺が言うと、あかりんは、うん、と、明るく返してくれた。
俺が席に戻ると、棟梁とあいあい先輩が笑顔で迎えてくれた。
「いやぁ、上手かったよ」
俺の前に歌ったおじさんも、そう俺に言ってくれた。
舞台上では、あかりんが緊張した面持ちで、司会者と雑談している。
コマッさんは、そんなあかりんを、期待に満ちた目で見つめている。
「では、最後の方に歌っていただきましょう。曲は『アメイジング・グレイス』」
ドラマの主題歌になったこともある、有名な賛美歌である。
舞台上のあかりんは、集中するかのように、イントロの間目を閉じていた。
そして、ふっと顔を上げ、目を開き、大きく息を吸い込んだのがこちらからでもわかった。
彼女が一声歌いだした途端、会場の全員が息を呑んだ。
澄んだソプラノが、会場に響いた。
それはまさに、天使の歌声と称するにふさわしい歌声だった。
曲が終わった後も、会場の人々はしばし呆然としてしまった。そして、誰からともなく、割れんばかりの拍手が広がる。
あかりんは、やりきったと言わんばかりの、満足した表情を浮かべていた。その姿は、俺が彼女を見てきた中で一番「キラキラ」していた。
全員の歌が終わったところで、会場、メール、ファックスによる投票が受け付けられる。そのまま、集計も行われるので、その間、出場者は自由時間だ。
「いやぁ、負けたな」
外村学園の演劇部の部長が俺に話しかけてきた。
「まだ結果はわからないじゃないですか」
俺がそう言うと、外村の部長はいやいや、と首を横に振る。
「今日、一番、小松姫の心を動かしたのは、彼女の歌だろうからね」
彼に促された視線の先では、コマッさんがあかりんを手荒く撫でていた。
「それに、君の歌も素晴らしかった。勇壮な若者達が目に浮かぶようだったよ」
外村の部長は、そんなことを言いながらにっこりと笑った。その顔は、どう見てもイケメンだった。
「あ、外村の! あとでクレープ奢ってよ!」
コマッさんが、あかりんのところから外村の部長を大声で呼び、そんなことを言う。
「はいはい、わかったよ。十個でいいのかな?」
「え? 全員分奢るつもりなんですか?」
「うん、そのつもりだよ」
俺は、その顔を思わず驚愕の顔で見てしまっていたらしい。
「まあ、言いたいことはわかるよ。彼女はいつもあんな感じだしね」
俺は彼女の一年年上だが、幼馴染でね、と、彼は聞いてもいないことを語りだした。
「まあ、魅力的な女性には、尽くしたくなるものじゃないか」
ニッコリと笑った彼の心に、偽りはなさそうだ。
(多分、コマッさんがあんな感じなのって、昔からこの人が甘やかしてたからなのかも)
俺はそんなことを思いながら、外村の部長を見た。
ふと、彼の立ち居振る舞いに、既視感を覚える。そして、その原因に思い至り、俺は思い切って聞いてみた。
「あの、もしかして、藤崎さん……?」
「ん?そうだけど……、なんで君が俺の名前知ってるんだい?」
不思議そうな彼を横目に、俺は思わず笑いそうになる。
新入生歓迎公演で演じられていたあの劇で、コマッさんが演じていた藤崎のモデルは、おそらくこの人だ。
「いえ……、先輩が、なにかで言ってたのを聞いた気がして」
俺の言葉に、藤崎さんは首をかしげていた。
そこへ、あかりんに絡んでいたコマッさんがやってきた。
「ヒーロー、お疲れ!」
俺の顔を見てそう呼びかけたところを見ると、コマッさんが、俺の新しいあだ名を決めたらしい。
「なんですか、そのヒーローって」
俺が思わずそう返すと、コマッさんは笑顔のまま続けた。
「いやぁ、だって、今日のヒロインはあかりんだけど、今日のヒーローはヒロ君でしょ。だから、今日からヒロ君のことはヒーローって呼ぶから」
その言葉に若干照れくさくなり、俺は視線をはずした。
「そういえば、あかりんがあんなに歌えるの、コマッさんは知ってたんですか?」
俺の問いに、コマッさんは意味深な笑みを浮かべた。
「私の同じクラスに、あかりんの出身中学が同じ人がいてね。その人、今、コーラス部にいるんだけど、私が新入部員の名簿整理やってたら、あかりんの名前見て、知ってるって。いろいろ話してくれたんだよ」
コマッさんは、他の先輩に囲まれて笑っているあかりんを見ていた。
「あかりんの出身中学、コーラス部がすごく強くて、毎年全国に行くくらいなんだよ。で、あかりん、あれだけ上手いでしょ? コーラス部の中で、すごく目立ってたみたいなんだよね。それで他の部員からのやっかみもあったみたい。で、顧問に、和を乱すなら参加するなってさ。結局それで、部活に出られなくなっちゃったんだってさ。まあ実際は、彼女があんまりにも上手いから、ずっとソロパート歌ってた先輩が、彼女にソロとられるのが嫌で、顧問にあかりんが和を乱してるって訴えたみたいだけど」
腹の内が煮えくり返る思いだった。彼女にはなんの非もないではないか。
「まあそんな事情を聞いたから、一度振り切れちゃえば、やってくれるんじゃないかとは思ってたんだ。予想以上だったけどね」
あ、私からこの話聞いたの、内緒にしてね、などと言いながら、コマッさんはやわらかく笑っている。
「でも、彼女の歌を引き出したのは、やっぱりヒーローの歌だと思うよ」
「俺、ですか?」
首をかしげる俺に、コマッさんはクスクスと笑っている。
「だって、目の前であんなふうに歌われたら闘志わくでしょ」
コマッさんの言葉に、俺は、自分の頬に一気に熱が上がるのを感じ、思わず顔を背けた。多分、俺の顔は今、真っ赤になっているだろう。
「あれ? ヒーロー? もしかして、照れた? 照れちゃった!?」
コマッさんは、俺の顔を覗き込もうと回り込んでくる。妙に嬉々としていて、その姿は眩しいくらいに「キラキラ」している。
この人はなんで、こんなところで残念なんだろう。
「だから、アンタはヒロ君に絡むのをやめろって!」
ぴこっ、と、間の抜けた音がする。
棟梁が、愛用のエクスカリバーこと、ピコピコハンマーを、コマッさんの頭に振り下ろした。
「ほら、そろそろ集計終わるから。みんな席に戻るぞ」
棟梁に促され、コマッさんも俺も席に戻った。
隣に座ったあかりんは、まだ、興奮のせいで赤い頬をしている。
その表情は、大会が始まる前よりずっと明るく、憑き物が落ちたような顔をしていた。
「あかりん、すごかったよ」
俺が正直に感想を伝えると、あかりんは照れくさそうに笑った。
「ありがとう。私、ヒロ君の歌のおかげで勇気が出た」
真正面からそう言われ、俺はまた顔が熱くなるのを感じた。
「会場の皆さん、そして、ラジオの前の皆さん、お待たせしました! 投票結果の発表です!」
司会者の言葉に会場から拍手が起きる。
「では、まず三位の発表です!」
この大会では、得票数上位三人に賞が贈られる。三位で番号を呼ばれたのは、一般で参加していた人だ。
「続きまして、二位の発表です! 二位の方には、メダルと、副賞として、大人気の焼肉店、焼肉メリー様より、ペアお食事券を贈らせて頂きます」
このカラオケ大会は、意外と商品が豪華だ。それも、参加者を増やしている要因でもあるようだ。
「では発表します! 第二位は……」
ドラムロールが響く。
「『民衆の歌』を歌われた、二十九番の方! おめでとうございます!」
「は?」
俺は、一瞬なにが起きたのかわからず、ぼんやりしてしまった。
「ヒロ君! 呼ばれてるよ!」
「おめでとう!」
前に座っていた棟梁とあいあい先輩、そして、隣に座っていたあかりんに促され、俺は舞台上に向かう。
舞台に上がると、メダルを首からかけられ、副賞の大きめな祝儀袋を渡された。
「おめでとうございます! 感想を一言どうぞ!」
マイクを向けられ、俺は戸惑ったまま答えた。
「え、と……、まだ、混乱してるんですが……。投票してくださった皆様、本当にありがとうございました!」
俺がそう挨拶すると、会場からは拍手が起こった。
俺は、スタッフに促され、三位の人が立っている場所の隣に立った。と、そこから、コマッさんの姿が見えた。コマッさんは、俺と目が合ったのに気が付くと、嬉しそうに手を振った。俺も思わず振り返すと、隣の人がクスクスと笑った。
「では、いよいよ第一位の発表です!」
司会の人が会場を盛り上げる。
「一位の方には、こちらのトロフィー、そして、焼肉店メリー様より、お食事券、なんと十名様分を贈らせて頂きます!」
会場から拍手が起こる。
「では、一位の発表です」
ドラムロールが響く。
「第一位は……。『アメイジング・グレイス』を歌われた、三十番の方! おめでとうございます!」
番号を呼ばれたあかりんは、信じられないといった様子でその場に立ち上がった。
俺の時と同じように、棟梁とあいあい先輩に促され、あかりんは舞台上に立った。
彼女には、渡されたトロフィーが若干重かったのかふらついたので、俺がとっさに支えに行く。
あかりんは、緊張しつつも、俺に小さく礼を言ってくれた。
「おめでとうございます! 感想をお願いします」
マイクを向けられたあかりんは、緊張のせいか涙目だ。
「え、えと……、あの……、ありがとう、ございました!」
あかりんはそう言うと、ぺっこりと頭を下げた。そんな彼女に暖かい拍手が送られた。
表彰が終わると、入賞した三人が並べられ、写真を撮られた。あとで、オリオンラジオのホームページにあげるそうだ。
舞台上から降りると、あかりんがコマッさんに抱きつかれていた。
「おめでとう、あかりん!」
コマッさんに手放しで褒められ、あかりんは真っ赤になってしまった。
「あ、あの……、このお食事券使って、皆で焼肉、行きませんか?」
あかりんの言葉に、コマッさんが目を見開く。
「いいの!?」
「はい! どうせ、十人分なんて、家族じゃ使い切らないですし。それに、演劇部じゃなかったら、カラオケ大会なんて、絶対出なかったと思います。だから、皆さんに使ってほしいんです」
あかりんの言葉に、コマッさんはさらにあかりんを抱きしめる。
「く、苦しいです、せんぱい」
「あかりん、ほんと、いい子!」
「あ、じゃあ、先生方も呼びます? 俺の、ペア食事券なんで」
俺がそう提案すると、コマッさんが俺のほうを見た。
「えっ!? ヒーローも提供してくれるの!?」
コマッさんの言葉に俺は頷く。
「俺も、こういう機会じゃなかったら、カラオケ大会に出ようなんて思わなかったと思うので」
俺の言葉に、コマッさんは笑ってくれた。
「よし! じゃあ、皆で焼肉パーティーだ!」
「皆、このまま食事行っても大丈夫?」
棟梁は全員を見回し言った。
「あ、これだけの人数で行くなら、お店、予約取らないで平気?」
あいあい先輩がそう続ける。
「すみません! あたし、このあと塾で……」
そう小さく手を挙げたのはカトちゃんだ。
「うーん、じゃあ、明日! 明日予定ある人いる!?」
カトちゃんの言葉に、コマッさんは、即座に予定変更を申し出る。
「あ、明日なら大丈夫です!」
「平気です!」
口々に肯定の言葉が出る。
「俺も大丈夫です」
と、俺が続くと、先輩方からも、大丈夫、という言葉が返ってきた。
「よし! じゃあ、明日、予約取れたらってことで! 夜にラインするから!」
と、いうわけで、と言わんばかりに、コマッさんは藤崎さんに視線を向けた。
「外村の部長! クレープ!」
あんまりな物言いだが、藤崎さんは苦笑いで応じた。
「ああ。じゃあ、全員分、リクエストを聞こうかな?」
「じゃあ、早めに帰らないとまずい人からね!」
コマッさんはニコニコと笑っていた。
「じゃあ、まず、あかりん優勝おめでとう! そして、ヒーロー、準優勝おめでとう! かんぱーい!」
コマッさんの乾杯の音頭に、全員が乾杯、と応える。
「いやー、悪いねヒーロー。俺たちまで呼んでもらっちゃって」
そう上機嫌なのは、顧問の田渕先生だ。先輩方はぶっさんと呼んでいる。
田渕先生は、今年三年生の担任になったため、なかなか忙しいようで、四月の後半まであまり顔を出せなかったが、最近は少し落ち着き、部活にも毎日顔を出している。
眼鏡をかけ、やや小太り気味の、いかにもおじさん、といった風だが、高木先生より年下で、三十代後半だそうだ。ちなみに、高木先生は四十代で、俺たちより一歳年下のお子さんがいるという。その話を聞いたとき、俺たち一年生は、失礼ながらも、悲鳴に近い声を上げてしまった。
その顧問二人は、女子の迫力に押されるかたちで端っこに座ってしまった俺と向かいの席に座っている。
「いえ、演劇部でもらったものですから、せっかくなら演劇部で使えたらいいと思っただけですので」
俺の言葉に高木先生が笑う。
「いやぁ、今年の一年生はいい子ばっかりだな」
「ええ、本当に。あの調子なら、裏方希望だったあかりんも舞台に立てるでしょう」
「これから本格的に、ナツコウの台本も決めなくちゃな」
田渕先生の言葉に俺は首をかしげた。
「ナツコウって何ですか?」
俺の言葉に、田渕先生はああ、というように頷いた。
「ああ。ヒーローはこの市内じゃなかったっけ。じゃあ、知らないか。うちの県、割と演劇部に対して熱心だろ? 小学校の演劇部に大会がある県なんて珍しいしな」
俺は、小学校の演劇部の大会が珍しいということ自体知らず、そうなんですか、と聞き返した。
「そうなんだよ。で、ナツコウって言うのは、夏期市内学校演劇講習会って言って、小中高の垣根を越えて、うちの市内の演劇部が、それぞれ一本ずつ劇をやるんだよ。夏休みの最初の一週はこれで埋まるからな」
高木先生がそう続けた。
「で、うちの場合は、この夏講で役者志望で入った一年に、必ず役をつけるんだ。場合によっては一年のみに任せることもある」
田渕先生の言葉に、俺は大きく頷いた。
「うちは、大会は創作台本でやるんだが、この夏講だけは元からある台本を使うんだ。まあ、結局やりながら、台詞や動きは結構変えるけどな」
だから、そろそろなにをやるかぐらいは決めておきたいんだよ、と、田渕先生は言った。
「そういえば、ヒーローは役者のほうでいいんだよな?」
高木先生の問いかけに、俺は少し悩んでしまった。
「え? ヒーローって普通に役者のほうだよね?」
そう声をかけたのは、ジュースをお酌して回っていたコマッさんだ。
「発声もしっかりしてるし、毎日部活にも出てきてくれるから、普通に役者側の志望だと思ってたんだけど」
コマッさんに言われ、俺は小さく首を横に振った。
「いえ、その……、俺、正直、役者のほう、向いてるかどうかわからなくて」
俺の言葉に、驚いたような声を上げたのはカトちゃんだ。
「えぇっ!? あたし、演劇部に入るの自体初めてだから、発声とか柔軟とか、ヒーローにいろいろ教わっちゃったよ?」
「私も! 歌の発声とは違うから、いろいろ聞いちゃった」
カトちゃんに同調したのはあかりんだ。
「うちは、小学校のとき演劇部無かったから、中学生からしか舞台に立ってないよ」
そうキアヌも続ける。
「それだけ基礎あるのに、役者のほうやらないなんてもったいないと思うけどな」
高木先生はニッコリと笑った。
俺は、思わずぐっと唇をかみ締めた。
「ヒーローが役者やってくれるなら、ぜひやりたい台本がある」
田渕先生が眼鏡を押し上げながら言った。
「うちに、伝説の男子部員がいるって話は知ってるか?」
その言葉に、俺は頷き、他の一年生も、
「そういえば、なんか色々言ってきた先輩が、そんなこと言ってたかも」
と、頷いている。
「彼が書き残した台本で、いままでどうしても演じることが出来なかったものが一個あるんだ」
田渕先生の言葉に、高木先生も納得したようにニヤリと笑った。
「え? もしかして、あれをやる気ですか?」
棟梁がはっとしたような表情を見せる。
「ああ。明日、その台本見せるから、楽しみにしておけよ」
田渕先生は俺たち一年生を見回し、ちょっと悪役じみた顔で笑った。