第一章
演劇部の基礎練習は、どこもあまり変わりがないのだな、と俺は思った。
一人でできる柔軟運動から始まって、二人組みを作っての柔軟と筋トレ、腹式呼吸と発声、滑舌の訓練だ。少し変わっていることといえば、ダンスが基礎練に組み込まれていることぐらいだろう。
幼稚園の中で一番広いというホール、外から見たときは体育館のように見えたそこに案内されると、そこには小さいながらも幕の付いた舞台があった。園庭側と、その反対側に大きな窓があるが、園庭の反対側の窓の向こうは一面背の高い生垣に覆われている。普段は、ここで練習しているのだという。
基礎練習には入部希望者の一部も参加した。といっても、全員制服しか無かったので、立ったままできることだけだったが。
先輩方は、自分たちでジャージを持ち込んでいて、学校指定のジャージではないジャージを着ている。ほとんどの方は、中学時代のジャージだと言っていた。
「私たちも、練習や作業で汚れることもあるし、特に大道具作るときなんかは、必ずこういうジャージが必要になるからね」
コマッさんこと、部長の小松崎舞先輩がそう言った。
基礎練が終わると、窓には遮光カーテンが引かれた。俺たちはホールに残され、先輩方は舞台の準備に取り掛かる。
「舞台の前に適当に座ってて!」
「なんなら、椅子使ってもいいからね!」
双子の時永先輩、瑠璃先輩と、藍先輩とそれぞれ言うそうだ、に、そう言われ、新入生同士、若干ぎこちなくはあるが、椅子を並べて座った。俺は左の端の席を確保させてもらった。そのうち、何となく自己紹介が始まる。
「あの、さっき、先輩と話してましたけど、何の話をしてたんですか?」
たまたま隣に座った女子に聞かれ、俺は、
「ああ。男子が来るのが珍しいらしくて、そんな話を聞いてたんです」
と、答えた。中学校でも、演劇部の男子部員は珍しいですからね、と付け足せば、
「あ、わかります! 中学の時、うちの演劇部もそんな感じでした!」
「うちにもいるにはいたけど、幽霊部員だったなぁ」
などと、賛同の声が上がった。
「皆さんは、演劇部以外には見学に行かないんですか?」
という俺の問いに、
「私は、演劇部に中学の時の演劇部の先輩がいるので」
と、言う人もいれば、
「あたしは、今日のあれが面白かったから来てみたんだー」
と、言う人もいた。
「お、新入生来てるじゃん」
ホールの入り口から聞こえた声にそちらを向くと、黒いスーツに黒いシャツ、そして濃い赤のネクタイという、少々学校にいるには異質な格好の男性が姿を表した。ややクセのある髪を肩あたりまで伸ばしていて、お世辞にも教師には見えない。が、普通にここに入ってきているということは、演劇部の関係者なのだろう。
「こ、こんにちは」
俺が思わずそう挨拶すると、新入生も俺に続いて挨拶した。
「あ! 高木さん!」
入り口から聞こえたのは、背の高い、藤澤晴菜先輩の声だ。
「おー、はるにゃ。お前、今日も身長伸びてないか?」
「一日でわかるほど身長伸びてたら異常じゃないですか!」
その言葉に、高木さん、と呼ばれたその人はケラケラと笑った。
「高木さん、はるにゃからかうのが楽しいのはわかりますけど、せめて新入生に挨拶してからにしてください」
そんな高木さんに声をかけたのは、ピコピコハンマー装備のトウリョー改め棟梁こと、加瀬夏樹先輩だ。副部長をしているそうだ。
「おー、すまんすまん」
そう軽く謝ると、高木さんは俺たちの前に立った。
「えー、演劇部副顧問の高木だ。担当科目は英語。といっても、今年の一年生は、担当クラスないけどな」
「え!? 先生だったんですか!?」
思っていても誰も言わなかったことを、俺と反対側の右端に座った女子が言った。
その発言を聞いた瞬間、加瀬先輩と藤澤先輩が声を上げて笑い出した。
「はははっ! 高木さん、今年もやっぱり言われた!」
ケラケラと笑う二人に、高木先生は、はぁ、と溜息をついた。
「やっぱ俺、教師らしく見えねぇのかな」
「見えないッスよ! どう見てもホストかなんかッスよ!」
右端の女子が続ける。新入生たちも、先輩たちにつられるように、小さく笑い出した。
「ホスト! あはははははっ!」
加瀬先輩は、こらえ切れないとばかりにしゃがみこんで笑っている。
「なんか賑やかだと思ったら、高木さん来てたのか」
そこへ小松崎先輩がやってきた。
「聞けよ、コマッさん! 高木さん、ホストって言われちまって……! あは、ははははっ!」
加瀬先輩が、笑いながら小松崎先輩に報告する。
「ホストォ?」
そう言いながら、小松崎先輩は、高木先生の全身を上から下まで眺める。
「あ、ほんとだ」
その言葉に、収まりかけていた笑いが込み上げてきたのか、藤澤先輩が顔を覆って再び笑い出した。
こうなっては新入生たちも耐え切れず、くすくすと笑い出す。俺が苦笑していると、高木先生が俺に視線を向け、小さく肩をすくめたのが見えた。
「あー、おかしかった! さて、高木さんも来たし、そろそろ始めようか!」
小松崎先輩は、パンパンと二度手を打った。
「お待たせしました! 北原高校演劇部、新入生歓迎公演を開演いたします!」
小松崎先輩のその言葉に、新入生たちは割れんばかりの拍手を送った。
劇の舞台は、文化祭間近のある日の放課後。
一人の女子生徒が、オクラホマミキサーのステップを練習している。
あの軽やかな音楽が流れる中、踊っているのは双子の時永先輩。よく似ているのではっきりとはわからないが、おそらく瑠璃先輩のほうだ。
そこへ、加瀬先輩がやってくる。
「瑠璃」
「あ、夏樹ちゃん」
どうやらこの劇は、役名と役者の名前が一致しているらしい。
「今日も練習してんだ」
「だって、久しぶりに藤君が学校に出てこられるんだよ? やっぱり、いいところみせたいじゃん」
そう言って、笑顔を見せる『瑠璃』はすごく可愛らしい。
「ほんと、久しぶりだよね。一ヶ月ぶりくらい?」
「うん……。今回の入院は、結構長引いちゃったからね」
どうやら、藤君とやらは、何らかの事情で入院していたらしい。
「でも、文化祭の後夜祭でほんとに踊れるの?」
「うーん、難しいかもしれないけど、せっかく藤君が踊ってくれるって言ってくれたのに、私が踊れなかったら話にならないもん」
『瑠璃』は、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
「よし! じゃあ、練習付き合ってやるよ!」
『夏樹』が『瑠璃』の後ろにまわり、二人きりのオクラホマミキサーが始まる。
場面は進み、順調に文化祭の準備が進んでいる。そのなかで、ちょっとした噂話が流れる。
この学校には、現在アイドルグループの一員として活躍している男子生徒がおり、その彼が、なんと文化祭に出てくるというのだ。後夜祭にも参加するらしく、女子たちが色めき立っている。
『瑠璃』は芸能人に興味が無いのか、気にした様子も無くフォークダンスの練習を続ける。
場面は変わり、文化祭も終わり、後夜祭が始まろうとしている。
『瑠璃』は、藤君とやらを探しているがなかなか見つからない。
そこへ『夏樹』がやってくる。
「夏樹ちゃん、藤君見なかった?」
「えー、アイツ、まだ見つかんねぇの?」
「うん……」
「わかった。アイツのことは私が探しておくから、あんたは適当に踊りに加わっておきな」
『夏樹』にそう言われ、『瑠璃』は舞台上を去る。『夏樹』は、それを見送ったあと、物陰に向かって呼びかける。
「そこにいるんでしょ、藤澤。なんで出て行ってやらないの」
なるほど、藤君というのは藤澤先輩なのか、と思っていると、物影から出てきたのは小松崎先輩だった。
「ご、ごめん。藤君っていうから、てっきり俺のこと探してるのかと思って……」
「あれ? 藤崎?」
あれだけかっこつけていただけに、加瀬先輩の驚いた顔に、少し笑いが込み上げる。
この『藤崎』という男が、例のアイドルグループで活躍している男なのだが、『夏樹』にとっては、ただの幼馴染らしい。
「じゃあ、アンタ、藤澤のこと見なかった?」
「藤澤さん? ごめん、見てないや」
『藤崎』がそう謝ると、『夏樹』は、はぁ、と溜息をついて、
「つーかアンタ、何で隠れてるの?」
と、たずねる。
「いやぁ……、女の子たちからのサイン攻撃から逃げてたらこんなことに……」
「まったく、人気者も辛いね」
『夏樹』はそう言うと、
「じゃあ、私は藤澤探しに行くから!」
と、舞台上から立ち去った。それを見送ってから、『藤崎』は、はあ、安堵の息を吐く。
「藤澤さん、もういいですよ」
その呼びかけに、今度は藤澤先輩が姿を表す。
「ごめんね、僕が隠れるのに付き合ってもらっちゃって」
「いえいえ。それより、もう一回練習しましょうか」
そのとき、オクラホマミキサーの音楽が流れ出す。
「あ、本番が……」
「大丈夫。結構長い時間踊りますし、途中で混ざれますって」
そう言って、『藤崎』は『藤澤』の前に立つ。オクラホマミキサーの軽快な音楽に乗って、フォークダンスが始まる。
「右、右、左、左」
『藤崎』は、そうステップの足順を口にしながら『藤澤』と踊る。『藤崎』のステップは、だいぶぎこちない。
「前、後ろ、トントントン、こんにちは、で、ペア交代」
一通り踊ったところで、『瑠璃』が舞台上に戻ってくる。が、二人に気づき、慌てて物陰から様子を見る。
「右、左、右……、あ……」
女性パートで踊りながらステップを教えていた『藤崎』が、『瑠璃』に気がつき、思わず声を上げた。
「ふ、藤君……、あ、あの……、ご、ごめんなさい!」
なにかまずいものを見てしまったかのように、『瑠璃』が逃げだす。途中で躓き、片方の靴を残したまま走り去る。
「る、瑠璃ちゃん、待って!」
『藤澤』は、『瑠璃』の靴を拾い、後を追おうとする。が、『藤崎』に止められた。
「退院したばっかりなんです! 無理に走っちゃダメですよ! 俺が彼女の誤解を解いて、連れてきます!」
『藤崎』は靴を受け取り走り出す。
と、そこで『夏樹』が舞台上へ戻ってきた。
「あ! 藤澤、やっと見つけた! 瑠璃が探してるよ!」
「瑠璃ちゃんなら、藤崎君が追ってくれてる」
「は?」
『夏樹』が意味がわからないといった顔をしたところで、舞台は暗転する。
再び舞台が明るくなると、『瑠璃』が走りこんでくる。
立ち止まり、肩で大きく息をしていると、そこへ、片方の靴を持った『藤崎』も走りこんできた。
「はぁ、はぁ……、ごめ……、待って、瑠璃さん」
名前を呼ばれ、驚いた『瑠璃』は、『藤崎』の姿をまじまじと見る。
「な、なんで私の名前……」
「藤澤さんに事情聞いたんだ。今日、一緒に踊りたい人がいるんだけど、自信がないから、踊り、教えてくれって言われて」
そう言われ、『瑠璃』はホッとしたかのように息を吐いた。
「ああ、なんだ……。そうだったんだ……」
「なんか、君、誤解してるみたいだったから、慌てて追いかけてきちゃった」
「そう。あの、お、女の子と踊ってるように見えて……」
「ああ、俺、髪、長いからね。仕事の関係上切れなくて」
二人は顔を見合わせ、クスクスと笑う。
「戻ろうか。きっと藤澤さんも心配してる」
『藤崎』は、『瑠璃』に靴を返してやる。『瑠璃』は、それを受け取り靴を履こうとする。が、バランスを崩し転びかける。
「おっと」
それを『藤崎』は、さりげなく支える。予想外に顔が近づき、二人は慌てて離れた。
「ご、ごめんなさい!」
「こ、こっちこそ!」
二人は、そのまま舞台上から静かに去っていく。
再び場面は変わり、おいていかれた『藤澤』と『夏樹』が問答を続けている。
「だから! 藤崎君が瑠璃ちゃんを追っていって」
「だから、なんで藤崎が瑠璃を追わないといけないのよ」
「僕の代わりに!」
そんな問答の続く中、『藤崎』と『瑠璃』が戻ってくる。
「藤君!」
『瑠璃』が『藤澤』に走り寄る。
「瑠璃ちゃん、久しぶり」
『藤崎』は、そんな『瑠璃』の様子を、複雑そうに見ている。
「いとこだよ」
『夏樹』は、こっそり『藤崎』に耳打ちする。
「え?」
「あの二人、いとこ同士なの。藤澤のほうが一歳年上だけどね」
その言葉に、『藤崎』は驚いた顔を見せる。
「でも、あの二人、同じ学年じゃ……」
「うん。藤澤、小さい頃から体が弱くて、しょっちゅう入退院繰り返しててね。それでも、いつもギリギリ進級できたんだけど、去年は二回ぐらい長期の入院になっちゃって、結局、卒業できなかったんだよね」
『瑠璃』は、そんな『藤澤』をとても心配していた。まるで『藤澤』の姉か何かのように振る舞い、『藤澤』も『瑠璃』を妹のように可愛がっている。
「だから、あの二人、仲いいけどそういうんじゃないから」
『夏樹』は、少しニヤリとすると『藤崎』を見る。
と、オクラホマミキサーの音楽が流れ始める。
「おどろ! 藤君」
『瑠璃』の誘いに、『藤澤』は頷く。と、『藤崎』もそれに近付いていく。
「俺も、一緒に踊っていいかな」
その言葉に、『瑠璃』は驚いたような顔をするが、コクリと頷く。
「瑠璃ちゃん? 顔、赤いよ?」
「え? えぇっ!?」
『藤澤』に指摘され『瑠璃』は慌てる。
「じゃあ、私も踊ろうかなー」
『夏樹』も三人のそばに行き、四人で踊る態勢を作る。
音楽に合わせ、四人が踊る。
ペアが交代になったとき、『藤澤』が、こっそり『夏樹』に話しかける。
「あのふたり、どうなるかな」
「さあ?」
『藤崎』と『瑠璃』は、ややぎこちなくも楽しそうに踊っている。
踊りが続く中、幕が下りる。
新入生から、割れんばかりの拍手が送られる。
俺も、精一杯拍手を送る。
淡々としていたが、その中に細やかな心情の動きが見え、いつのまにか夢中になってしまった。
何より、役者が皆、舞台を楽しんでいるのがよくわかった。
舞台の上は、「キラキラ」に溢れて、俺がかつて憧れた「演劇部」がそこにあった。
(ここなら、演劇を楽しむことができる)
そんな思いが俺の胸をよぎる。
しかし、俺の胸にはずっと引っかかっている言葉がある。
『ヒロ君ってさ、王子様って感じじゃないよね』
だからこそ、高校では演劇とは距離をとろうと思っていたのに。
(俺は、この演劇部で何ができる?)
そんなことを思いながら、舞台上の「キラキラ」している先輩たちに拍手を送った。
それから一週間、俺は幼稚園に通い続けた。
小松崎先輩たち役者陣は全て二年生で、三年生は全員裏方をやっていること、藍先輩は、裏方兼役者だということ、顧問の先生は、この新入生歓迎公演が終わるギリギリまでこられそうにないこと。そんな、色々な話を先輩方から聞いた。
毎日、演劇部の公演を端の席で見ている俺は、演劇部の先輩方に、すっかり顔と名前を覚えられてしまった。
しかし、他の新入生は、顔ぶれを変えつつ少しずつ減って、最終的に、ほぼ毎日顔を見せるのは、俺を除けば女子四人になっていた。
最初の数日、楽しげに演劇部に来ていたある女子は、ある日、突然姿を見せなくなり、次の日、たまたま校内ですれ違ったとき、声をかけようとしたら、顔色を青ざめさせ、足早に去ってしまった。
一体何があったのか、と思ったが、その謎はすぐに解けた。
新入生歓迎公演の最終日の一日前。俺は、授業が早く終わった関係で、一足早く幼稚園に向かう信号機にたどり着いた。
「ちょっと」
唐突に声をかけられ、俺は振り向いた。
「あなた? 演劇部入部希望の男子生徒って」
声をかけてきたのは、胸のリボンの色から、おそらく上級生と思われる女子生徒だった。
「あの……、入部希望ってわけじゃ」
「でも、毎日通ってるじゃない」
そう言われればなにも言い返せない。
俺が黙ったのを見て、上級生が俺をじろじろと、まるで品定めするかのように眺める。
俺は、向けられるその視線の不躾さに、僅かに身じろいだ。
「あなた、地味よね」
投げつけられた言葉に、俺はびくりと固まった。
「背も低いし、童顔だし、華もない。そんなあなたが、うちの演劇部に入る権利があると思ってるの?」
次々とぶつけられる言葉に、俺は彼女から視線をそらした。
「……あなたまさか、うちの高校の演劇部の伝説の男子部員知らないの?」
俺が首を振ると、彼女は信じられないと言わんばかりの声を発した。
「あなた、本当に無知ね。まあいいわ。教えてあげる。十年前、我が校の演劇部には、容色も優れ、演技力も抜群の男子部員がいたの。その当時から、プロからのスカウトも受けていたのだけれど、結局卒業後、どうなったのかは誰も知らないの」
「それが、なんなんですか……?」
僅かに苛立ち、俺は、視線をそらしたままうめくように言った。
「わからない? それくらいの実力がなければ、小松姫と、小松崎舞様と同じ舞台に立つ資格なんて、ないと言ってるの。演劇部の品位が下がるわ」
その言葉に、俺は頭から冷水をかぶせられた心地になった。
演劇部の先輩方が、歓迎ムードでいてくれるから、俺は、そこに居場所があるような気がしていたのだ。
「自分の容姿のレベルが、彼女に相応しくないことくらい、自分でわかってるでしょ?」
「……なんで、そんなこと、俺に?」
俺は彼女の目を見られず、視線を落としたまま言った。
「あなたが演劇部に入ったら、唯一の男子部員じゃない。たったそれだけで、小松姫の相手役なんてやられたら、目も当てられないわ」
「あれ? 浩人君、なにしてんの?」
話を遮るように、誰かが俺の腕を掴んだ。顔を上げると、そこにいたのは。
「こ、小松崎せんぱ」
「あら、小松姫。ごきげんよう」
俺に話しかけてきた時とは打って変わって、上級生は、蕩けるような笑みを浮かべ、小松崎先輩に話しかける。
「あ、先輩。いつも応援ありがとうございます」
小松崎先輩も、にっこりと笑って応じる。
「で、浩人君。今日も公演観に来てくれたの?」
小松崎先輩は、俯く俺を覗きこむように話しかける。
「は、はい!」
俺は、ここから逃れられるなら、と、縋るような思いで頷いた。
「そっか! じゃあ、行こうか! 今、ホール開けるから」
小松崎先輩は、素早く押しボタンを押すと、俺を引っ張る。
「あぁ、小松姫。もう行ってしまうの? もう少しお話しましょうよ」
先輩、と小松崎先輩が呼んだ彼女が、甘い声で話しかける。俺は、その声に足が固まってしまった。
「折角ですが、今日含め、新入生歓迎公演は、あと二公演なんです。それに、この公演を楽しみに来てくれている新入生を、待たせるわけにはいきませんから」
信号が青に変わる。
「それじゃ、失礼します」
小松崎先輩は、ペコリ、と会釈をして、俺を引っ張る。俺も、合わせるように会釈をしたが、彼女の顔は怖くて見られなかった。
小松崎先輩は、黙ったままホールの入り口に突き進むと、持っていた鍵で扉を開けた。そして、靴を脱ぎ中に入ると、俺にも入るように促した。俺も靴を脱いで、中に入る。
小松崎先輩は、それを見てから、扉を閉めた。
先輩の顔を見ると、今まで見たことのないような顔をしていた。
「小松崎先輩……?」
「ごめん!」
小松崎先輩が、バッと頭をさげた。
「え!? あ、ちょ、せんぱ……」
「なんか、色々言われたでしょ? ほんと、ごめん!」
何故か小松崎先輩が必死に謝っていて、俺は、どうすればいいのか困り果ててしまった。
「不愉快な思いさせて、ホント、申し訳ない」
「ちょっと待ってください! 小松崎先輩が悪いんじゃないじゃないですか!」
俺がそう言うと、小松崎先輩は、少し黙ってから話し出した。
「あの先輩、私のファンだって言ってるんだけど、やってることは、他の部員に難癖つけたり、あの人たちのグループ以外の演劇部を応援してくれる人を攻撃したり、そんなことばっかりなんだ。特に、男子部員へのあたりは強くて」
「それは、その……、伝説の男子部員の関係ですか?」
俺の問いに、小松崎先輩は驚いたような顔をする。
「誰から……、て、聞くまでもないか。さっきのあの先輩に言われたんでしょ」
「はい」
俺の言葉に、小松崎先輩は己の髪を掻き乱した。
「あれはね、十年前に卒業した男子部員が、ちょっと演技が上手かっただけの話で、卒業後の進路を誰も知らないもんだから、話が盛りに盛られてあんな感じになってるだけなんだけどね」
やや気まずそうに、小松崎先輩は続ける。
「どうやらあの先輩、その男子部員が出てた公演を映像で見たらしくて。それ以来、彼と演劇部に、並々ならぬ思いを抱いてるんだよ」
「なるほど。それで……」
俺がそう言うと、小松崎先輩は大きく溜息をついた。
「去年も男子の入部希望者はいたんだ。でも、彼女たちのあたりが強くてね。結局入部前に諦めちゃって。例の男子部員が卒業してから、多かれ少なかれずっとそんな感じだったみたいで、特に男子からは、演劇部は避けられちゃってさ」
私たちが入学した時には、演劇部自体、大分弱小化してたんだよ、と、小松崎先輩は続ける。
「先輩はすごいですね」
俺がそう言うと、小松崎先輩は不思議そうに俺を見た。
「だって、先輩、まだ二年生じゃないですか。たった一年で、その弱小になってた演劇部を立て直したんですから」
俺の言葉に、小松崎先輩は首を横に振る。
「違うよ。私の力じゃない」
「え……?」
小松崎先輩は、口元に笑みを浮かべた。
「演劇って、絶対にひとりじゃ完成しない芸術なんだ」
その言葉に、俺は思わす目を見開いた。
「忘れがちだけどさ、例え、役者がひとりしかいない一人芝居でも、それを支えてくれる裏方さんがいて、その芝居を観てくれる観客がいて、演劇って言う芸術は初めて完成するんだ」
そうだ、忘れていた。
例えどんなに芝居が上手かろうと、見てくれる人がいなければ、それは演劇ではない。舞台の上にひとりが立ち続けるとしても、BGMを流したり、照明を調整したり、裏方の力を借りなければ、演劇は成立しない。
演劇は、複数の人がいなければ成立しない、数少ない芸術なのだ。
「私一人の力じゃ、きっとどうにもならなかった。それを支えてくれたのが、今、役者として舞台に立ってくれている、裏方として力を貸してくれている、部員のみんななんだ」
先輩は、穏やかににっこりと笑っている。
「それに、今は浩人君だって、その芸術を完成させる力になってくれてるしね」
その笑顔を見たとき、俺は悟った。
なんだ、何も悩む必要なんてなかったんだ。
演劇を見るのが好き。ただそれだけで、きっと、この演劇部の力になれるのだから。
「小松崎先輩」
「ん? どうした、浩人君」
「入部届、ください」
俺の言葉に、小松崎先輩は目を見開いた。
「……いいの?」
「はい。俺、この演劇部でなにができるかわからないけど、でも、やってみたいんです」
俺の言葉に、小松崎先輩は、ははっ、と、声をたてて笑った。
「なにができるか、なんて、考えなくていいよ。なにができるかじゃなくて、浩人君が当たり前にやってることが、きっと私達の力になるからさ」
小松崎先輩の言葉に俺は頷く。
「はい!」
そう明るく返事をすれば、先輩は頬をほんのり赤く染め、それから、
「やったーーーーーーっ!」
と、叫んだ。
ホール中に響くその声に、俺は思わず耳を塞いだ。
「ちょ、コマッさん!? なにがあったの!?」
ホールに走りこんできたのは、加瀬先輩だ。
「浩人君、演劇部に入ってくれるって!」
「マジか!」
加瀬先輩の声も負けず劣らず大きい。その声につられるように、次々と人がやってくる。
「なになに、なんの騒ぎ?」
「なにかあったの?」
双子の時永先輩が顔を出し、それに藤澤先輩も続く。後から、裏方をやっている三年生の先輩方も顔を出す。
「浩人君が、演劇部に入ってくれることになったよ!」
「え? ほんと?」
「やったぁ! 浩人君、よろしくね!」
藍先輩と瑠璃先輩は、初対面の時の再現よろしく、俺の周りをぐるぐる回っている。
「じゃあ、浩人君が、今年の新入部員一番乗りだね!」
藤澤先輩も、時永先輩たちの輪に加わる。
よかった、ありがとう、などと、三年生からも声をかけられ、俺が恐縮していると、その後ろにいた新入生の一人が、ビシッと手を挙げた。
「はい! 先輩! あたしも、入部届欲しいッス!」
それは、初日に高木先生をホスト呼ばわりした女子だった。少し大柄で、声も大きい彼女は、ニコニコと笑顔を浮かべている。
それを見て、他の新入生の女子たちも手を挙げる。
「あ、あの、私も!」
やや細い声で、そういったのは、眼鏡をかけた黒髪の女子だ。
「私も入部します!」
次にそう声を上げたのは、茶髪のショートカットの女子。
「……私も」
最後にそう手を挙げたのは、妙に色気のある、おかっぱ頭の女子だった。
それを見て、小松崎先輩は嬉しそうに笑った。
「皆、ありがとう! これからよろしくね!」
と、そこへ、高木先生が、もうひとりの先生を連れて姿を表した。
「お? なんだ? 今年の新入部員、決まってきた感じか?」
高木先生が、先輩に捕らわれている俺を見ながら言った。
「お、珍しい。男子が残ってるじゃないか」
やや白髪交じりの男の先生は、新入部員を見回しながら言った。
「よし! じゃあ、そろそろ準備しようか! 新入生歓迎公演、最後の二日だ!」
小松崎先輩は、張り切ってそう声を上げる。
「あの、俺たちもなにか手伝いますか?」
俺がそう声をかけると、小松崎先輩はにっこりと笑った。
「さっきも言ったけど、演劇って見てくれる人がいないと成り立たないんだよね。だからさ、新入生の皆はあと二日、目一杯楽しんでね!」
小松崎先輩の言葉に、他の先輩方も頷く。その様子に俺たち新入生も笑顔になった。
翌日、新入生歓迎公演の千秋楽。俺は、きっちりと書いた入部届を手に、演劇部の部室に向かった。
いつもの押しボタン式の信号の交差点で立ち止まる。
「あら」
その声は、昨日聞いたばかりの、あの先輩の声だった。
「あなた、本当に身の程知らずね」
「なにがですか」
俺は、なるべく相手にしないように、視線は幼稚園に向けたままにした。
「それ、入部届じゃない。小松姫に目をかけてもらっているからって、調子に乗るんじゃないわよ」
俺は、気持ちが折れないように、背筋を伸ばしたまま、演劇部の部室を見続ける。
「あなたみたいなのが、演劇部で一体なにが出来るの?」
その時、信号が青に変わる。俺は、彼女にペコリと会釈をする。
「確かに、俺は背も低いし、容姿も人並みだし、演技だって上手くはありません」
そう言ってから、俺は彼女の目を見た。
「でも、俺は演劇が好きです。だからそれに関わっていたい。なにかおかしいでしょうか?」
俺の言葉に、先輩は目を見開いた。
「俺にできるのは、演じることだけじゃありませんから」
俺はそう言うと、彼女に背を向けて、点滅を始めた信号を渡りきった。
そのままホールの入り口に向かう。
「こんにちは! 失礼します!」
ほんの少しだけ残った嫌な気持ちを振り切るように、意識して大きな声で挨拶をすると、準備をしていた先輩たちが、同じように挨拶を返してくれる。
「あ、浩人君! こんにちは!」
「こんにちは、浩人君」
「お、浩人君来た! こんにちは」
俺を見つけて小松崎先輩が近付いてくる。
「おー、浩人君! 入部届持って来てくれた?」
「はい!」
俺の返事に、小松崎先輩はニコニコと笑った。
「よし! じゃあ、今日の歓迎公演終了後に受け付けるから、よろしく!」
そう言うと、いそいそと準備に戻っていく。
俺は、靴を脱いでホールにあがると、椅子を並べている加瀬先輩のところへ向かった。
「手伝います」
「お、ありがとう」
そう言ってから、加瀬先輩は僅かに周囲を見渡した。
「これから、演劇部唯一の男子部員として、いろいろあるかもしれないけど、そのときは力になるからいつでも相談してくれ」
加瀬先輩の言葉に俺は頷いた。
そこへ、他の新入生たちもやってきた。
「こんにちはー!」
「こ、こんにちは」
「こんにちは!」
「……こんにちは」
それに先輩たちも反応し挨拶を返す。俺も挨拶を返した。
「あ、やっほー。浩人君、でいいんだよね?」
一番ノリが良かった女子が俺に話しかけてくる。
「はい、なんでしょう」
俺がそう返すと、彼女はちょっと不満そうな顔を見せる。
「もう、ノリ悪いよ! 同級生なんだから、敬語とか無し!」
「あ、は……、いや、うん」
「うんうん、それでいいよ! でさ、信号のところで、変な先輩に絡まれなかった?」
俺は、多分彼女のことだろうと思い苦笑する。
「あー、その顔はやっぱり絡まれたんだ。あのさ、あんまり気にしないほうがいいよ? ああいう人って、なんにでもいちゃもんつけたがるんだから」
「あはは、そうかもね」
俺がそう言って笑うと、彼女は少し驚いたような顔をしてから笑った。
「浩人君、笑ってたほうがいいよ。そのほうがずっと表情いい」
「え?」
今度は俺がきょとんとする番だ。
「よし! 新入生、そろそろ座って! 新入生歓迎公演、千秋楽、開幕するよ!」
小松崎先輩がそう声をかけた。
俺がいつもどおり端に座ろうとすると、話していた彼女が俺を引きとめた。
「浩人君、いつも端っこで見てるじゃん。たまには真ん中で見たら?」
「え、でも」
「いいからいいから! ね、いいよね!」
彼女の声に、他の新入生たちも頷く。俺はお言葉に甘えて、真ん中の席に座らせてもらった。
初めて真ん中で見る先輩達の舞台は、少し新鮮で、また違う発見があった。
(一方向から見るだけじゃ、見えないものもあるもんな)
こうして、無事に千秋楽も終わり、椅子などの備品を片付けた後、入部届の受付が行なわれた。
「よし、じゃあ、今年の新入部員はこの五人だね。これからよろしくね」
小松崎先輩の言葉に、俺たちも、よろしくお願いします、と返した。
「じゃあ、新入生から簡単に自己紹介しようか。というわけで、浩人君からね!」
「え!?」
突然の指名に、俺が思わず変な声を上げると、小松崎先輩は楽しそうに、俺に向かって、さぁどうぞ、と言わんばかりのジェスチャーをする。
全員の視線が俺に集中していたたまれなくなり、こうなりゃやけだ、と言わんばかりに喋りだした。
「滝内浩人です。趣味は演劇鑑賞と読書。小学生の頃から、ヒロ君って呼ばれてました! よろしくお願いします!」
ほぼやけっぱちで喋りきったにも関わらず、先輩方が温かな拍手をしてくれた。
続いて、隣に立っていた、あのノリのいい彼女が喋りだす。
「内田純って言います! 趣味は特に無いけど、あ、でもお笑いとか割と好きッスね! 中学の時は、色々あだ名が変遷して、最終的にカトちゃんって呼ばれてました! よろしくお願いします!」
「ちょっと待って! あだ名の変遷が気になりすぎる!」
小松崎先輩がそう口を挟む。
「えーと、あたし、内田なので、出席番号が女子で四番目で、名前が純なので、ヨンジュンって呼ばれてて、それがペって呼ばれるようになって、最終的にカトちゃんペ、から、カトちゃんに」
その説明に先輩方から笑いが起こる。
「なにそれ面白い! あ、ごめんね、口挟んじゃって。次の方、どうぞ!」
小松崎先輩に促され、内田さんの隣に立っていた眼鏡の女子がビクッと体を竦ませた。
「え、え、と、望月、あかり、と、いいます。え、えと、よろしくお願いします」
望月さんは、何度か言葉に詰まりながらも、なんとか自己紹介を終えた。随分小さく、細い声だった。
「あー、こういうふうに呼ばれたい、とかってない?」
小松崎先輩が望月さんにそう促す。
「え、えと……、あかりって、呼んでください」
小さな声でつぶやかれた言葉に、先輩たちは頷いた。続いて、茶髪の女子が自己紹介を始める。
「えっと、石川雪亜と言います。ちょっと変わった名前なので、名前のまま呼ばれてました! 趣味は、パズルとか、あと、写真も好きです。よろしくお願いします」
「彼女は、私の中学時代の演劇部の後輩だよ!」
そう声を上げたのは藤澤先輩だ。
「お、じゃあ、演劇経験者だ。そういえば、他に小、中で演劇やってたって人、いる?」
小松崎先輩の言葉に、俺と、石川さん、そして、もう一人、自己紹介を終えていないおかっぱ頭の女子が手を挙げる。
「おお、結構経験者いるな」
感心したように加瀬先輩が声を上げる。
「あ、でも、私は小学校四年の時の一年間だけなので」
おかっぱ頭の彼女がそう付け足す。
「あ、俺も中学の時は裏方専門でした」
俺もそう付け足すと、小松崎先輩は軽く頷いた。
「いやいや、小中とソフトボール部だったあたしよりは経験者でしょ」
内田さんがそう明るく笑った。
「じゃあ、えーと、自己紹介の続き、お願い!」
小松崎先輩にそう促され、おかっぱ頭の彼女が頷いた。
「君島瑞希です。んー、趣味は、カラオケ、とか? よろしくお願いします」
君島さんの挨拶が終わると、小松崎先輩が話し出した。
「えーでは、今年の新入部員はこの五名です。改めて、ようこそ、演劇部へ!」
その小松崎先輩の挨拶をきっかけに、先輩方から大きな拍手が送られる。
「明日から、いよいよ本格的に演劇部の活動が始まります。最初は慣れない事も多いと思うけど、上級生もみんな力になるので、これから一緒に演劇部を盛り上げていきましょう。皆さん、よろしくお願いします!」
こうして、俺の高校演劇生活は幕を上げたのである。