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三つの月の恋物語  作者: Naoko
3/3

デイライト・ムーン

水色の昼下がりの空。

そこに浮かぶ、淡くて満月に満たない月。

夏の終わりを告げる黄色がかった草原。

一頭の大きな白い蝶が草原の方へと飛んでいく。


「アルスラン、私を迎えに来てくれたの?」


少女の声がした。

アルスランは足を止める。

だが、振り返ることはしない。

それは幻聴。

アデーテがそう言ったのは数週間も前のことで、彼女がここにいるはずはなかった。



彼女に再会した時、アルスランは、久しぶりに故郷へ戻っており、

真っ白な彼女のドレスがまぶしくて、はじめは誰だか分からなかった。

そして「あの子だ」と思い出す。

「こんなに美しい娘に成長するなんて」と驚くとともに、

「どうしてそのことを忘れていたのだろう」と悔やんだりする。


アルスランは笑ってみせた。


あの小さな女の子は、

芋虫がさなぎになって蝶に変身するように、美しくなっていた。

もしそうだと分かっていたなら、忘れるなんてしなかっただろう。





「アルスラン様、セナ夫人がお待ちかねです」

その声に、彼ははっとする。


声の主はセナ夫人の付き人、年配の男性で、アルスランは中庭を抜け貴賓室へ途中だった。

ミリタリー・アカデミーの貴賓室に通されるのは、位の高い客だけだ。

そんな人物が自分に用とは珍しいと思った。


彼に案内され、中に入る。

セナ夫人は、テラスへと開かれたドアの前に立っており、そこから外を眺めていた。

その姿は美しく、漆黒の髪は高く豊かに結われ、黒の長いドレスを纏った黄金比の体系の貴婦人。

その横顔、姿勢から、アルスランは、彼女がかなり若いように思える。

彼女は完璧な女性だった。


公爵夫人が自分に会いに来る理由は、兄であるセイリオス・ライーニア将軍のことなのだろう。

ライーニア将軍は、この国で、歴史上最高の将軍と崇められ尊敬されていた。

兄とは言っても年は親子ほど離れている。

自分は腹違いの妾の子で、父親が死に、保護を失った母親も苦労の末に死んでしまい、孤児になったところを兄に引き取られたのだ。

その恩に報いようと勉学に励むのに、励めば励むほど兄を遠くに感じ、違う世界の人間としか思えないでいた。

そう、アデーテに再会したのは、そんな割り切れない思いを抱えていた時のことだった。




「アルスランです。初めてお目にかかります」

アルスランは頭を下げた。


セナ夫人は振り向くと、

「ごきげんようアルスラン。でも初めてではありませんよ。あなたが幼い時、まだあなたの母親が生きている時に会っているのです」と言った。


アルスランは少し戸惑い、いつのことだっただろうと思う。


セナ夫人は、彼に椅子に座るよう勧める。

彼は「このままで結構です」と答えた。

彼女は自分を知っているらしいが、自分は彼女を覚えていない。



セナ夫人は微笑み、そして座った。


しばらくの間、沈黙があった。

セナ夫人はじっとアルスランを見ている。

それに耐えかね、彼は口を開いた。


「あの、ライーニア将軍から何か伝言があるのでしょうか?」

セナ夫人はぱっと眼を輝かせ、そして穏やかに微笑んだ。


アルスランは、自分の名前を「アルスラン・ライーニア」とは呼ばなかったが、兄のことをライーニア将軍と呼ぶ。

それは自分がライーニア家に属しておらず、兄とかけ離れていると感じていたからだ。



「いいえ、ライーニア将軍へは、あなたに会うことは伝えていません。アデーテからの伝言を伝えに来たのです」


「アデーテ!? 彼女は生きているのですか?」

アルスランは思わず言った。

セナ夫人の顔は曇る。

彼は、そんなはずはなかったと思い知らせる。

アデーテと分かれた直後に戦争が始まり、彼の故郷、アデーテの住む都市は攻撃され全滅したのだ。


アルスランは、あの時、アデーテを連れ出すべきだったと悔やんでいた。

とはいえ戦争が始まる前だったし、都市が攻撃を受け破壊されるなんて想像すらしなかった。

しかも学生の自分が、訓練中に資材調達に寄った都市で、たまたま美しい娘に再会したとして何が出来ただろう。



「あなたへの伝言は、開戦後、攻撃が始まる少し前に届いたものです。それをあなたに伝えるべきかどうか、迷ってました」セナ夫人はためらいながら言った。

「攻撃が始まる前・・・」アルスランがかみ締めるように言う。

そして、セナ夫人は何を迷ったのだろうと思う。


いや、迷っていたのは自分の方で、

「アデーテとの約束を守れない」という思いは、「彼女を救えなかった」という言いようの無い虚しさに変わり、いっそのこと会わなければ良かったのにとさえ思うようになっていた。

そもそも、自分は彼女のことをどう思っていたのだろう。

約束をすっかり忘れていたのに、美しくなった彼女に会って心を揺さぶられ、

「アカデミーを辞めて故郷に戻っては」とさえ思ったりした。

それは彼女のためというより、自分のためではなかったのか。

その故郷は今は無くなり、報復だとか、級友たちのように戦いに奮起できない。

行き場の無い空虚さだけが残っている。



「アデーテは」とセナ夫人は言った。


「あの子は、本当にあなたのことが好きでした。

あなたが『迎えに来る』と約束してくれたのが嬉しくて、ずっとそのことを思ってました。そしてあなたに再会できたことをとても喜んでいました」


アルスランは顔をしかめた。

彼女のその思いは、自分にとって重荷でしかない。


「アデーテは、私の姪でした。

とても快活な子で、あの子を通してあなたがセイリオスの弟君だと知ったのです」

セナ夫人の言葉を遮るようにアルスランは、

「自分は、アデーテとの約束を果たせませんでした」

と言うと下を向き、唇を噛む。


セナ夫人は深く息を吐くと微笑して続けた。

「伝言は、『あなたが無事で良かった。これからもずっと無事でいて下さい』ということです」

アルスランは顔を上げる。

彼女は、最後の時まで自分の無事を願っていたのか。


「彼女を救えなかったと悔やんでいるのはあなただけではありません」

そう言ったセナ夫人の目は潤んでいる。


アルスランは、自分も泣きそうになるのをこらえて首を振る。

「戦争中ですから、自分も無事でいられるかどうかは分かりません」

ああ、そうだ、アデーテは、いつも自分のことを思っていてくれていた。

するとアデーテのことが色々思い出されてくる。



セナ夫人は、再び黙ったままアルスランを見ていた。

それから付き人の老人に、コートを持ってくるよう合図する。


「あなたは、私の古い友人、レイネ・デュパールに良く似ています」

「レイネ・デュパール?」

「ええ、剣のトーナメントでチャンピョンになった人です」

「聞いたことがありませんね」

アルスランは無愛想に答えた。

そして「まただ」と思う。

ライーニア将軍の弟というだけで、いつもこうして名のある人と比べられる。


「そうですね。もう忘れられた名前です。あなたが生まれる前の事ですし」

セナ夫人はそう言いながら黒いコートを着て黒い帽子をかぶった。

そしてアルスランの方を向く。


「あなたはレイネのように優しいのです」


アルスランはセナ夫人の言うことはどういうことだろうと思った。

自分が優柔不断なのは優しさのゆえなのか・・・



セナ夫人は軽く会釈し、分かれを告げ、

「また会うこともあるでしょう。

あなたがこれからどのように成長なさるのか楽しみです。

どうかお体を大切に」

と言うと貴賓室を出て行った。



残されたアルスランは、しばらくの間、一人で立っていた。

どれくらい時が経ったのか、斜めになった日の光が彼の横顔を照らす。

外に出ると、頭上にあった昼間の月は西の空に白く浮かんでいた。

昼間の月、ディライト・ムーン。

中庭は少し青みがかり、夕暮れの近いことを知らせている。



アルスランは、石畳の上に白い蝶がとまってのに気がついた。

その大きな羽は、ゆっくりと扇ぐように動いていた。


「こんなところにいたら誰かに踏まれてしまうよ」

と言って、両手でそっとすくう。

そして空に放つ。


蝶はそよ風になびくように羽を扇ぎ、水色の空に羽を横に広げ、石畳の上に舞い降りる。

石畳は日の光で暖められていて、蝶には心地よいらしい。

ゆっくりと羽を動かしている。


彼は蝶をすくい、再び空に放つ。

蝶はひらひらと舞い、それからまた石畳の上に落ちた。


三度目に蝶を両手に乗せた彼は、ふわっと前に押し出すように送り出してみた。


すると蝶は、今度は扇ぐことなく、ゆらゆら、ゆっくりと石畳の横に落ち、少し羽を震わせ、斜めに傾き、動かなくなった。



アルスランは動かなくなった蝶をじっと見つめる。

それは、昼過ぎに見たのと同じ蝶なのだろうか。

あの白い蝶は、自分に会いに戻ってきてくれたのか。



止め処もなく目から涙があふれる。


それは、アデーテの死を知って初めて流す涙だ。


アルスランは、その時、初めて、アデーテは死んでしまったのだと受け入れた。


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