トワイライト・ムーン
「エレイーズ、恋をしなさい」
誰かがそう言った。
エレイーズは、それが誰だっただろうと思いながら深い眠りへと落ちていく。
夜の帳が降り、闇に包まれ、窓から入ってくる庭の灯篭の明かりが部屋の壁を淡く照らす。
薄手のカーテンがふありと宙に舞う。
ベッドの脇に黒い人影。エレイーズは飛び起きた。
「誰です?」
そこにいたのは、自分と同じ年くらいの少年だった。
「レディ・エレイーズ、驚かせて申し訳ありません。
私の名はセイリオス・ライーニア。ミリタリー・アカデミーの生徒です。何度もあなた様に呼びかけたのですが、目覚められないので担いでお連れしようかと思っていたところです」
「担いで? 誘拐でもする気ですか? 警護の者を呼びますよ」
「この僧院はもぬけの殻。いえ、幾人かはおりますが、侵入者を手引きするために残っているだけです」
「侵入者? いったい何のことです?」
エレイーズの頭は重く、両手でこめかみをおさえる。
自分がどこにいるのかも思い出せない。
するとその少年は、ふところから一通の手紙を出して彼女に渡した。
宛名はアデライド・セナ。
エレイーズの良き理解者で、夫のセナ公は「影の宰相」とも呼ばれている。
エレイーズは封を切り、手紙を読むと息を深く吐いた。
「私の暗殺計画があるようですね」
「はい。盗賊がこの僧院を襲うという筋書きのようですが、彼らは雇われた者たちです。
首謀者は、彼らにあなた様を襲わせた後に盗賊として殺し、結婚式を阻止するつもりです」
「結婚式…」エレイーズは思った。
そうだ、自分はザクサー公と結婚する。
政略結婚だ。
「では、ザクサー公が仕組んだのですか?」
「いいえ。ザクサー公は足止めされており到着は朝になる予定です。彼を遅らせ、あなた様を暗殺しようとしているのは、レディ・イルダです」
「イルダ?」
イルダはザクサー公の正妻だったが、王の娘のエレイーズにそれを奪われ、第二婦人の位に落とされ他のだ。
「これはイルダの家の者たちの陰謀ですか?」
「証拠はありません。
ただ分かっているのは、レディ・イルダが第二婦人に納まるつもりはないということです」
「愚かなことを。自分の家を滅ぼすつもりかしら」
「とにかく時間がありません。盗賊たちは、すぐそこまで来ております」
「分かりました」
エレイーズはそう言って立とうとした時、体のバランスが崩れた。セイリオスが彼女を支える。
「薬を飲まされているようですね」
エレイーズは顔を上げる。
向き合った顔と顔。彼の皮膚の色は小麦色で目はルビーのように赤い。彼女はその不思議な色に吸い込まれそうになり、一瞬、自分が夢を見ているのではと思ってしまった。
「着替えている暇はありません」
セイリオスは大きなマントで彼女を覆い抱きかかえ、廊下に出る。
長い廊下を薄暗い明かりが転々と照らし、そこには誰もいなかった。
エレイーズは獲物が来るのを待っているような冷たい静けさに、自分が罠にかかったのだと思い知らされる。油断したのだ。
ザクサー公は国王を脅かす存在で、この結婚は彼を封じるためのものだった。
エレイーズに結婚を拒む権限はない。それは王家や貴族の家に生まれた姫たちの宿命で、彼女らは策略や政治闘争に使われる駒でしかない。
彼女らはそういう時代に生まれたのであり、相手が誰であれ生き続けること事態が戦いで、うまくいけば寿命を全うできるかもしれない、という希望だけが残されていた。
暗い廊下でセイリオスの靴が硬い音を響かせ、裸足のエレイーズはひたひたと音を放つ。
彼女はいつ自分がスリッパを失ったのか覚えておらず、床の冷たさも感じず、ただセイリオスに手を引かれ僧院の奥へと走り続けていた。
廊下の突き当たりには、いくつかの不気味な穴のある岩の壁があった。この僧院は岩山を背にして建てられており、ザクサー家の先祖の遺体が安置されている。
エレイーズは息を切らせながらセイリオスに言った。
「洞窟に隠れるの?」
「いいえ。この洞窟の奥は迷路になっています。ここに隠れていると盗賊たちに思わせ時間を稼ぎます。
セナ婦人は国王軍の到着は朝になると言っておられました。ザクサー公の到着も朝なので、それまで隠れる場所を探さねばなりません」
「ではどうするの?」
「岩壁を上ります。あなた様は、ロッククライミングがお得意でしたね」
エレイーズは兄の王太子にねだり、ミリタリーアカデミーで個人授業を受けていたのだ。
セイリオスは岩に手をかけ、後ろにいるエレイーズに手を伸ばした。
「平気よ。自分で登れるわ」
彼女はセイリオスの手を取らず、岩の小さな割れ目に自分の手をかける。
それは、今の彼女がすがれるささやかなプライドであり、そうして自分を奮い立たせようとする。
二人は天井まで登ると天窓を抜けて屋根の上に出た。
月は無く、満天の星は冷たくシャリシャリと氷のような音を立てて落ちてきそうだ。その美しさは怖いと言った方がいいかもしれない。
エレイーズは下の僧院の建物を見下ろしながら言った。
「ここはまるで岩山の墓石のようだと思ったけれど、わたしの墓になろうとしていたとはね」
先を登っていたセイリオスが振り返ると、彼の赤い両目は獣の様に光る。
それは、襲おうとする気配を感じさせるものではなく静かだ。
彼は微笑する。
「そんな冗談が言えるとは頼もしいですね」
「わたしが泣き喚くとでも思ったの?」
「普通ならそうでしょう。ですがレディ・エレイーズ、あなたは誇り高いお方です」
「ザクサー公と結婚するのが決まった日から覚悟は出来てるわ」
エレイーズはそう言いながら、泣けたらどんなに楽だろうと思った。
自分は小娘でしかなく強がりを言ってこらえているだけだ。
助けに来たのが大人ではなく見知らぬ少年だったのが自分を気丈にさせている。
二人は岩棚に隠れられる窪みを見つけ、そこに並んで座った。
下では灯りの列が見え隠れしながら近づき僧院の門が開く音がした。
「間一髪でしたね」
そう言って見下ろすセイリオスの横顔を、エレイーズは不思議そうに見つめる。
この少年はいったい誰なのだ。
アデライドは、なぜ自分の救出を彼に選んだのだろう。
「わたしの顔に何か付いていますか?」
セイリオスが聞くとエレイーズは目をそらした。
顔が熱い。正面に見つめられると心臓が鼓動するのを感じる。
「いいえ、あなたがアデライドと知り合いだったとは聞いてなかったから」
「セナ夫人に会ったのは今日が初めてです」
「初めて?」
「セナ公は、代々王の信頼が厚い家系の方です」
「そうね、セナ夫人の頼みならば」
「いいえ、そうではなく・・・」とセイリオスは言って苦笑いした。
自分がセナ夫人を知っているはずがないと言う意味だった。
「あなた様に会えると思ったからです。あなた様は、王太子が自慢される妹君、我々アカデミーの生徒の憧れです」
エレイーズは、驚きと同時に恥ずかしさでうつむいてしまった。自分が憧れられているとは思いもしなかったのだ。
「ご気分を害されましたか?」セイリオスが心配して聞く。
「いえ・・・意外だったので・・・」
「セナ夫人は突然やって来られて『レディ・エレイーズに手紙を届けて欲しい』そして『命が狙われているので朝まで隠れているように』と言われたのです」
「あなたは、自分の命も危なくなるとは思わなかったの?」
エレイーズがそう言うと、セイリオスは驚いたような顔をした。
「いいえ。いけませんか?」
「あなたはまだ少年なのに」
「少年だからこそ、レディ・イルダの一味に怪しまれることなく僧院に入れたのです」
エレイーズは呆れてしまった。この少年は、自分にどんな危険に陥るのか考えなかったらしい。
それとも恐れを知らない愚か者なのか。
夜の空気は冷たく、じっとしていると寒さが体に凍みてくる。マントのすそからはみ出した彼女の素足は、擦り傷だらけで冷たく、寒さでかじかんだ指先が青くなっている。
セイリオスは、そっと彼女の足を自分の両手で覆うと優しくさすりながら息をかける。すると彼女は、温まった血が息を吹き返し、体を巡るように感じた。
生きる実感。それを感じたのはいつだっただろう。何も知らない幼い頃は無邪気でいられた。そして成長すると、世の中は優しくないと気づいたのだ。
薬は抜けていないらしく頭がぼうっとする。
空を眺めた。まだ夜中なのに空が青くなり、遠くの山の向こうがしらみ始めている。
「ああ、だめだ」セイリオスが顔を曇らせた。
「月が出ます。もう少しすれば、この場所も月明かりで照らされ見つかってしまいます」
そう言いながら、横にある谷のように深い縦の亀裂を覗く。
「向こう側には隠れる場所がありそうだけれど、これを飛び越えるのは難しいな・・・」
エレイーズもその方を見る。
暗闇の中、棚のような岩が突き出ている。そこへ飛ぶのは今の彼女にとって難しい。とはいえ上に登っても隠れる場所があるとは限らない。
「飛ぶわ」
エレイーズが言った。
セイリオスは目を大きく開いて彼女を見る。そして、ふっと笑うと彼女のマントを取り、くるくるっと丸めて小脇に抱えた。
それから「では、私が先に飛びます」と言ったかと思うと、ひらりと向こう側へ飛んでしまった。振り返った彼は手を差し伸べ「さあ」とエレイーズを誘う。
それはあっという間の事で、彼女は、その手に届かないとか落ちるかもしれないという恐怖を感じる間もなく、見えない何かで引っ張られるように彼をめがけて飛んだ。
彼女の着ていた薄い青色の寝衣がふわりと広がる。
それは青い鳥が羽を広げて飛んでいるようで、風の音だけが聞こえる。
飛んでいるのは一瞬なのに、時間が止まったかと思えるほどゆっくり赤い目の少年へ近づいていく。
「まるで幻想の世界」とエレイーズは思った。
彼の手を捕らえると、その胸にすとんと落ち、マントに包まれた二人は闇夜に消える。
セイリオスは、片手で彼女の頭をつかみ自分の胸に押し当て、もう一方の手で彼女の体を引き寄せ、抱きしめたまま身を乗り出し下の様子を伺う。
誰にも気づかれていない。二人は抱き合ったまましゃがみ込んだ。
その時エレイーズは、
「何という少年なのだ」と思った。
彼は、一心に自分を守ることだけを考えている。
その思いは純粋で、今まで感じたことのないものだ。
自分の耳を彼の胸に押し当て心臓の音を聞く。その鼓動は乱れていない。
彼の体は、この状況下で緊張しているとはいえ硬直していなかった。
「恋をしなさい」
エレイーズは、そう言ったのがアデライドだったのを思い出す。
その時は笑ってしまった。でも今は分かる。
恋なんて諦めていたのに、こんなところにあったのだ。
アデライドには分かっていたのだろうか。いや、そんなはずはない。結婚式の前夜に、恋心を抱かせるような少年を送ったりしない。
ではなぜ彼女は、そんなことを言ったのだろう。
あの時、アデライドも笑っていたけれど、彼女が彼を選んだ理由は他にあるのだろう。
この少年には何かがある。
彼は英雄になる。
夜が明ければ、王女の命を救った少年として、セイリオス・ライーニアの名は広く知れ渡る。
結婚式も無事に行われる。そして自分は彼にではなく他の男のものになるのだ。
それでもいい。彼が命をかけて自分を救ったように、自分もこの少年の、一人の英雄の誕生にかかわろう。
月が姿を表した。月の光は岩山を青白く染め、影に隠れた二人の白い息は夜の露となって消えていく。エレイーズは目を瞑った。
アデロイド、ここから月は見えないわ。
この少年への恋の灯も見えないようにしておこう。
こうして、月の光の届かない影に隠してしまえばいい。
トワイライト・ムーン
夜明けは、もう少し先
もうしばらくの間、こうしていられる
こうして彼の心臓の鼓動を聞きながら、朝が来るまで、恋の夢でも見よう