左羽子
ホームルームが終わり、雑多の喧騒に包まれるクラスを一人の生徒だけはつまらなさそうに見ていた。
クラスメートの話を聞くと、冬休みはどこへ行くだとか、都会の劇場を見に行くだとかという声が聞こえてくる。そんな何の気もないであろう同級生達はまさかクラスメートに醜くも嫉妬に似た感情を向けられているとは露ほども知らず、この小さな教室という世界から出て行く。
生徒が出て行くのを見送ると、生徒は窓に視線を移す。
(雪がまた降り始めた)
雪がしんしんと降り積もっている。
同じ学年くらいであろう生徒達は、初雪だと嬉しそうに外を走り回っているのが見える。手袋を身につけるという選択肢が既に無いのだろう。素手のまま雪に触れて満面の笑みを浮かべている。
僕は身の毛も弥立つ思いで外の光景から目を背けた。
そしてガタガタと震える自身に気がつき、また鬱屈とした気持ちが底から湧き出てくる。
何故素直に楽しそうだと思えないのか、何故雪を汚く、怖いものだと思ってしまうのだろう。何故僕は外で楽しそうに踊るように雪が降り喜んでいる生徒達を冷たく、冷めた目で見てしまっているのだろう。
やはり私は普通の子供とは違うのだと、学校に来ると嫌でも自覚させられてしまう。
私は雪と外の光景を見ないようにするためにカーテンを閉めてまた自席に着いた。
そして鞄の中に教科書を詰め込み、鞄の中をほとんど占領していたカンバスを取り出して机の上に広げた。
カンバスにはまだ何も描かれてはいない。
別に絵が特別好きなわけでも嫌いなわけでもない、ましてや趣味なんて大層なものなわけでもない。
ただ私が唯一信頼している無二の存在が何をしたら良いかという問いに、絵でも描いたらどうだろうと先日言われたからやってみようと思っただけだ。
ただそれだけだった。
鉛筆をナイフで削り、いざ描こうと思っても私の手は動かないままだ。好きなものでも描いてはどうだろう? そう言われたが、そこで私はまた自分自身に愕然とし、絶望をした。
好きなものと胸を張って言えるものが私の中には無かった。
嫌いなものはたくさんある。汚いものに臭いもの、食べ物は基本的に嫌いなものしかないし、雨も雪も嫌い。そして嫌いの中でも特に筆頭であるものが、折笠家だ。
折笠家は長い歴史をかけてゆっくりと繁栄を続けてきた由緒正しき家柄だ。
地方に分家を多数立てている色々な意味で有名な折笠家の本家がこの神苑集落を支配しているといっても過言ではない。
神苑集落以外の人間からは謎に包まれた一族とも言われている。その所以というのがまず、戦前の頃に突然神苑村にやってきたご先祖様が何を申されたのかは知らないが、言葉巧みに神苑村の人間の心を手に入れてまんまと神苑村の支配者になったこと。
もう一つは、これが謎と言われる大きな理由だとは思うが、血族婚の多い一族だということだ。
従兄弟や親類間での結婚が非常に多い。
その理由は折笠の血を多く引き継いだ子供を少しでも多く輩出したいということ。と、表向きはそうなっている。
しかし僕は知っている。それだけではないことを。
血を濃く残したいだけではない、己の血が同じ血の人間を求めているのだ。
表向きは従兄弟や親類の四親等までの血族との結婚だけと言っているがそういうわけではないのだ。
折笠の血は自分に血に限りなく近い血を好む。つまり、自分の姉弟や叔父に叔母、ましてや父や母を求めてしまうことが非常に多い。
勿論そのことは外部には漏らすことのできない秘密事項。
だからなのか、正常な状態で産まれた折笠の人間は比較的優秀で男女ともに見目麗しい者も多い。
けれど当然正常な状態で産まれてくることができない子供もいる、しかしそれも折笠という大きな暗い闇の中に消えていってしまう。
最初からいなかったかのように扱われ、戸籍からは跡形もなく姿を消してしまうのだ。
そういった存在の上になりたっているのが、今の折笠家。法律的に結婚できる中ならまだ良い、しかし同姓恋愛、それもまた非常に多く、仮面夫婦として生活している親類も居るようだ。
どの親類がそうしているのか、それは怖くてとてもではないが調べることが私にはできなかった。
そう、そんな普通じゃあり得ないことがあり得る世界なのだ。
私もいつかそんな狂った人間になってしまうのだろうか、そんなことを考えていると夜も眠れない日だって少なくない。
私はこみあげてくる吐き気をなんとか抑える。すると右肩に何かが触れた。
「やあ、まだ教室にいたの、右羽子」
「左羽子」
振り返ると、私と同じ制服を着た同じ顔の同じ身長の少女が立っていた。
しかし私と似ているのはそれだけだった。左羽子……双子の妹は私が絶対しないような満面の笑みを浮かべるのだ。
性格も陽気で明るく、友達も多いようで、性格はこれっぽっちも似たところは無い。
左羽子は笑みを浮かべたまま、私の前の席に座り、私の髪を一束とり、さも楽しそうに遊びながら見つめる。
「また何か嫌なことでも思い出してたの?」
「どうしたの、急に」
「皺」
苦笑いをしながら左羽子は私の眉間をつんつんと突く。
「嫌なことだったり辛いことがあると、右羽子は何も言わないけど眉間に皺が出るの。まあ、気づくのはわたしくらいだと思うけどね」
そう言うと左羽子は自慢げに腰に手を当てて満面の笑みで私に顔を近づけて、私の頬を思いきり抓る。
「い、いひゃい……いひゃいわ左羽子」
「ははは、ぶっさいくな顔!」
鈴でも転がしたような綺麗な声でそう嬉しそうに笑う左羽子に私はだんだんとイライラしてきて左羽子の頬を抓り返した。
「いひゃいじゃないの!」
そう言って抗議してくる左羽子の顔はとてつもなくぶっさいくだった。
私もこんな顔をしていたのかしら、と能天気にそんなことを考えた。
「ふふ、やっと笑ったね。やっぱり笑った方が可愛いわ右羽子」
一通り抓り合った後、左羽子はそう言って特徴的な笑みで僕を見つめた。
まるで嫌いな雪が溶けるのではないかというくらいに綺麗で、そして暖かい笑み。
私はしばらく左羽子から目を離すことができなかった。
そうだ、好きなもの、ただ一つだけあった。
左羽子。左羽子だけは私が心から好きと言える存在だ。
「またカーテンなんて閉め切って、まだ雪はお気に召さないの?」
クスクスと鈴を鳴らしたような美しく凛とした声で喉を鳴らしながらカーテンを開ききる左羽子。
「好きこのんで見ようとは思わないわ、生理的に無理」
そう言ってそっぽを向くと、左羽子はさっきよりも大きな声で笑いはじめる。クスクスと笑いを必死に抑えるようにして口元に手を当てるのだ。
「何、左羽子」
私は不快感に感じながらもそれを態度に出さないようにして左羽子の方を見つめた。
そうすると左羽子は申し訳なさそうな、苦笑いをしているような微妙な顔をして言った。
「ごめんごめん、でも遠くから見てれば綺麗に見えない?」
そう言って左羽子は窓を開けた。
窓からは冷たい冷気が入ってき、外で舞っていた粉雪が教室の中に入ってきた。
私は眉間に皺が寄り、文句の一つでも言ってやろうかという気持ちをなんとか抑えて、左羽子のに無言の威圧を与えてやろうとした、が。
「…………」
目を奪われるという表現が適切だろうか、私は粉雪を嬉しそうに浴びている左羽子から目を反らすことができなかった。
美しい、その言葉が適切かどうかは分からない。他のもっと違う言葉が正しいのかも分からない。
けれど左羽子に見惚れた、これは変えようのない事実だった。
「そういえば座敷牢……あそこは寒くないのかな。これだけ雪が降っているもの、あそこはとても寒いと思うんだけどな」
(そうだ)
たちは昨日、入ってはいけないと強く言われてた地下に入り、そしてとんでもないものを見つけてしまった。
私たちと同じような年なのにも関わらず、骨と皮だけの体に啜れて汚れた服を着た一人の少年。
座敷牢の中は小さな部屋みたいになっていて、その子はギョロギョロと目だけを動かして僕たちの方を見ながらビー玉遊びに興じていた。
あの少年も折笠に関わった子なのだろうか、だからあんなところで日にも当たらない場所でビー玉遊びをしているのだろうか。
彼も折笠の闇の一人なのだろうか、何か問題を抱えていたのだろうか。
さして私たちと年が変わらないのにも関わらずあんな所で、私以上に狭い世界で生きている少年。彼はどんな気持ちで座敷牢の奥に居た私たちを見ていたのだろう。
そして楽しそうに鼻歌を歌いながら彼のことを思っているであろう左羽子の顔に、私は段々と苛立ちを覚えた。
「随分と気になっているのね」
「そりゃそうよ。まさかお父様があんなもの面白そうなものを隠していたなんて」
左羽子はクスクスと嬉しそうに、舞を披露するかのように美しい動作で今はもう点いていない暖房の上に乗り、窓の枠の方に積もっていた雪を一握りとって楽しそうに丸め始めた。
「随分と楽しそうだね、そんなにあんな汚らしいモノが気に入った?」
私は鉛筆を手に取り、楽しそうに笑っている左羽子の絵を描くために知らず知らずのうちに手を動かしながら聞いた。
「ちょっと楽しそうかなって、きっともっと前からあそこに棲んでいるんだよ? そんな暖かみも何もない場所で育った人が誰かが優しくされたら……てね、考えちゃう」
左羽子は口角をつり上げて綺麗な歯並びの歯を見せつけるようにして笑いながら戯れるようにして言葉を紡ぐ。
しかしその顔は朝露を含んだ白薔薇のように優美で、その一方で陰湿な呪いのように重苦しく、不気味な色も垣間見れられた。
私はきっと左羽子がその笑みでその声で口で突拍子も無い何かを言い始めても嫌だとは言えないだろう。
どんなことでも、私はこの人の為にしてしまうのだろう。
「右羽子、嫌でしょ?」
左羽子は私の頬や唇や目に触れながら申し訳なさそうにそう言った。
何のことだか私には理解できなかったけど、少し考えて理解できた。左羽子はまだ気にしているんだろう。
何も気にすることなんてないのに、逆にこの突拍子もない考えで私は助けてもらったというのに。左羽子は私のことになると途端に心配性になる。
その左羽子の心配そうな顔に私は優越感のような不思議な感情が心の奥底から湧き出てくる。
左羽子はよく笑う、どんな人にも平等に。クラスで嫌われている人にも、村で気味悪がられている人にも誰にでも優しい左羽子。
けれど左羽子は人の為に怒ったりはしない、それは左羽子がどうでも良い存在だと認識をつけたから。
どうでもいいから適当に優しく扱う。近所の子供にもお年寄りにも勿論同級生にも、どうでもいいから優しく笑ってあげる。
私とは違っているようでよく似ている。私は他人がどうでもいいから興味を示さない。家族ですらどうでもいい、ただ一人の双子の妹、左羽子以外は。
そんなどうでも良い人間が多い中で左羽子が本当に心の底から心配をしてくれる存在というのが世界でただ一人私だけ。
互いが世界で唯一無二の存在でそれ以外に寄り添い合うことのできない素晴らしい関係。
私は左羽子が大好きだ。もし左羽子が私を捨てて他の男と永遠を共に歩むというのなら私は迷わずに左羽子の細い首を掻き切って息を絶やし、その後に自分も後を追うだろう。
――――勿論冗談だ。
「嫌なんかじゃないよ、こうしてるともっと左羽子と近くいるみたいでとても幸せ。それに、長くはないと思うしね」
僕がそういうと左羽子は顔中を撫で回している細く白魚のような綺麗な手を僕の手に回してその中心を優しく撫でる。
「そっか、もう中学生になるもんね。 ……それに死ぬしね」
一瞬どきりと心臓が高鳴った。死ぬというのが僕のことを指しているのかと思って知らず知らずのうちに顔を引き攣らせていたが、左羽子は喉を触っていた手をまた移動させて僕の頭を優しく撫でる。
「右亜のことだと思った? 勿論違うよ、右亜は絶対に私が守るから」
「その言葉は……」
僕の言葉なのに……そう小さく声を呟こうとしたが
折笠右亜の戸籍上の性別は男性だ。
しかし、学校には女性として学校に通っている。勿論家でも女性として生活をしている。
心が女性に生まれてきてしまったということではなく、その理由というのが折笠家にあった。
現当主である折笠源治郎は折笠家では特に珍しくもないが、同性愛者だった。しかも美しい少年が大好きということで、徐々に成長してきた右羽に源治郎が情欲を抱き始めるのにはそう時間はかからなかった。
だから源治郎が折笠家の当主として後を継いだときに、親族の産んだ子供が男児だった場合にはその何年間は源治郎の相手をしなければならないと暗黙の了解が生まれていた。
けれどそれを良しとはせずに、なんとかできないかと考えたのが右亜の双子の妹左羽子だった。
左羽子は幼いうちに右亜に女性の格好をさせることで、源治郎の目を欺こうとしたのだ。生まれた時に一度姿を見ているし、戸籍にも性別が書かれているからそんなことではどうにもならないだろうと思っていたが、左羽子はどうにかしてしまった。
具体的に何をどうしたのかということは左羽子は教えてくれなかった。右亜も深くは聞こうとはしなかった。けれどきっと右羽が考えてもいないようなことを幸せそうに頭を撫でている左羽子はしてのけたのだ。
けれど右亜にとってはどうでもいいことだった。
肝心なのは左羽子が僕の為にしてくれた、きっと危険なこともしたのだろう。そんなことをしてまで大事に僕の事を思ってくれる、その気持ちだけ。
僕には左羽子だけ、左羽子には僕だけ。
右羽は快感を噛みしめるようにしてその言葉だけをずっと頭の中で呟き続ける。
「もうすぐで親族会議の日ね、楽しみ」
小さな声でけれど鮮明に僕の耳に左羽子の声が聞こえてきた。
親族、本家の人間だけでなく分家の人間も神苑村にある本家の屋敷、折笠家にやってきて報告をし合う日のこと。
年明けの前に親族会議を行い、その後忘年会と新年会を行う折笠家の大きな行事の一つだ。
確かに新年会や忘年会は楽しい。普段中々会うことのできないおじさんやおばさんの話が聞ける。その話がまた結構面白い。普段あまり興味を持つことができない僕も話を聞くのはわりと楽しみだ。
けれど何で左羽子親族会議が楽しみなんだろう。もしかしたら言葉を間違えたのかもしれないが……
忘年会や新年会と違って親族会議は子供にとっては全くといって楽しくない。大人達の近況報告が主だからだ。
だから子供達は本邸には入れず、こじんまりとした別邸で声を潜めて過ごすのが決まりになっている。
左羽子もいつもならつまらないだとか、早く忘年会が来ればいいのに、とかと嘆いているが何故か今回は楽しみだと言っている。
もしかしたら何かをするつもりなのかもしれない。
けれど僕は気づかないし、知らないふりをする。だって必要と思ったら左羽子が直接僕に言ってくれるから。それまでは知らないし気づかない。
「ほんと、楽しみ」
思わず鳥肌の立つほど蠱惑的な笑みで左羽子は笑った。