ホワイト・シチュー
ホワイト・シチューといえば、僕たちの間ではクリスマスだった。毎年クリスマスになると、おばあちゃんの家に親戚がみんな集まって、ホワイト・シチューを食べたからだ。そう言うと、大体の人が、正月におせちの間違いだろうと笑うので、あまり話したことがない。口の悪い友達などは、外国みたいで気取った家族だと憎まれ口をたたいたが、そんな上等な理由があったわけではない。それは単純に、食欲の問題だった。
毎年、25日の昼頃に、僕とお母さんはおばあちゃんの家に着く。この家の玄関チャイムを、そのとき僕はまだ聞いたことがなかった。我が家のように無遠慮にお母さんが合鍵を使ってドアを開ける。しかし、開けると、確かに我が家ではないおばあちゃんの家の匂いがむんとした。僕はいつもここで少しひるんだが、お母さんは躊躇なくその中へ入っていき、鮮やかな手際の良さで黒いブーツを脱ぎ捨て、靴箱にしまってあるスリッパを取り出し、ぱたぱたと廊下の突き当たりの左にある台所の方へ消えていく。黒いブーツの履き口を飾るレオパード柄の毛皮だけが、場違いを恥じてか、居心地の悪そうにしおれていた。台所から賑やかな声がする。僕は残されたブーツの毛皮を慰めつつ、あとからゆっくり家にあがった。下駄箱の上に飾られた招き猫は、僕を見下ろし、ゆるやかに手を振っている。
台所に入ると、味噌汁の匂いがした。お母さんとおばあちゃんが、四人がけの食卓の奥に向かい合って席に着いている。お母さんの指が、おばあちゃんの隣に大きく広げられた新聞の端を、所在なげにめくっていた。おばあちゃんは僕の顔を見るなり、嬉しそうな顔をして席を立ち、振り返ったところにある炊飯器の蓋をすかさず開けた。ご飯の湯気がふわっと上がり、味噌汁の匂いと混ざる。冷たい牛乳とコンビニのサンドイッチの朝ごはんが、お腹の中で遠慮するように場所を開けた。
「食べるかい?」
といつも言われたが、僕の返事が待たれることはなかった。
「ちゃんとした器がなくて悪いけどねぇ。今日は、ご飯だけはいっぱい炊いたからね」
僕というより、炊飯器に話しかけるながら、おばあちゃんは、炊飯器の隣に用意してある小ぶりの丼と青い平皿に気前よくごはんをよそう。お母さんは、私も、とつぶやいて、湯飲み茶碗と花柄のマグカップを戸棚から出して味噌汁をついだ。僕はドアから近いお母さんの隣の席に着いた。ふたりの背中がよく見える。おばあちゃんの分は、もうすでに食卓の上に用意されていた。
食卓の真ん中には、淡い緑の皿と穏やかにコントラストをなしている、黄色い卵焼きがある。僕たちを待っていた卵焼きは、被せられたラップの表面に軽く汗をかき、柔らかそうだった。その優しさの中に包まれてみたくて、つるつるとした表面に、そっと人差し指を突き立てようとするところで、閉まりの悪い炊飯器を無理に閉める音がして、手を引っ込める。
こうして、クリスマスの日は決まっておばあちゃんの家で昼ご飯を食べた。ご飯と味噌汁と卵焼き。それに、冷蔵庫の中に半端に残ったお漬物や佃煮、もらい物のハム。
助かるわ、と毎年おばあちゃんは言った。僕たちは不揃いな食器を使って、獣のような食欲でおばあちゃんちの冷蔵庫を平らげていく。おばあちゃんちの白いご飯は不思議と美味しかった。いつもふりかけや海苔巻きにしないと食べられなかった白いご飯が、なぜかここでは、卵焼きのひとかけや、真っ黒な佃煮のひとすくいでいくらでも食べられた。ご飯の暖かい湯気と、台所の扉の隙間から漏れる冷気が混じり合って、早く早く、と僕たちを急き立てるせいで、食事が終わる頃にはなぜかぐったりしていた。おばあちゃんだけが満足そうに、もういいの、と尋ねながら、食器を片付けていく。
つかの間の夢を見ていたような心地でぼうっとしていると、おばあちゃんが丸い腰をさらに丸めて、洗い物にかかる。ぱしゃぱしゃという水音がようやく正気を連れてくる。
「おばあちゃん、置いといていいわよ。私がやるから」
とお母さんが言うが、おばあちゃんは、いいからいいから、と寝ぼけるように答える。
「いいのよ。もう少ししたらやっておくから。おばあちゃん、テレビでも見てなさいよ」
お母さんも食い下がるが、おばあちゃんも、いいからいいから、と歌うように譲らない。それを聞いていると、せっかく目覚めてきた頭も、満腹も手伝ってまたぼんやりとしてくる。
お母さんは諦めたように、椅子から立ち上がり、手伝うわよ、と今度はしっかりした調子で言い切り、流し台の横に立つ。そうするとおばあちゃんは、あらそう、とさっきまでのやり取りを忘れたように、あっさり場所を譲る。
「それじゃあ、私はツリーを」
おばあちゃんは言いながら、エプロンを外して椅子の背にかける。
「ひろし、おばあちゃんを手伝ってあげて」
はぁい、と僕がしぶしぶ席を立つ時には、おばあちゃんはもう廊下の方へするりと姿を消している。廊下の冷たさを思い出して軽く躊躇しつつも、お母さんが洗い物をする豪快な音に後押しされ、おばあちゃんの後に続く。
台所を出て左の方に階段があって、階段下には物置があった。おばあちゃんがそろそろと扉を開ける。本当は、軽くノブに触れただけでも勝手に開いてしまうくらいの扉だけど、腰の丸いおばあちゃんが開けると、まるでなにか大層な宝物の隠された重い扉のようだった。扉がよく開いたところで、その大切な宝探しのために、僕は物置に飛び込む。ホコリが舞ってすこし咳き込んだ。
「見えるかい? 電気、つけようか?」
おばあちゃんが廊下で心配そうに声をかけるが、そもそも物置はそんなに広くないし、毎年のことなので、それがどこにあるかも知っている。物置の一番奥の小さな空間で、毎年追い詰められたようにこちらを見つめる、禿げたネズミみたいな鈍い緑色の小さなツリー。毎年それがため息をつくのが、僕にも聞こえる気がした。
ホコリを避けるために顔を背けつつ、その幹のあたりを掴む。ホコリよけのためにとかぶせられたビニール袋が不平を言って、まるで陽の光の下に出るのを嫌がっているようだった。
それを強引に引っ張り出し、廊下で待つおばあちゃんの足元に置く。僕は物置から這い出た。まあ、とおばあちゃんは、何とも言えない歓声めいた声をあげる。
「あったよ」
僕はすこしうんざりしながら、服のホコリを払う。ホコリというより、払いたかったのは匂いの方だった。物置の中は、おばあちゃんの家の匂いが特に強い気がする。
「それじゃあ、さっそく飾りましょうね」
おばあちゃんは妙にうきうきした手つきで、ビニールをゆっくりと取り去る。それを見ていると、なんだかひどく素敵なものが出てくるんじゃないかといつも期待させられたが、やっぱり、それはいつもの小さなツリーだった。袋とこすれて、毎年パラパラと緑の葉が落ちる。小さな鈴と丸い飾り玉、そしててっぺんには、触ると必ずラメが手に付くような、遠慮の知らない星が輝いていた。
ビニール袋を物置に押し込むと、おばあちゃんはツリーを大事そうにすくい上げ、玄関に向かう。僕の役割は、そのツリーに長い尻尾のように付いた、黒いコードを持ってついていくことだった。もしもあのツリーにひとつだけ誇ることがあるのだとすれば、このことだった。
おばあちゃんが玄関マットの横にツリーを置くと、僕はコードをコンセントに差し込む。そうすると、ツリーがぴかぴかとまたたき始める。赤、青、黄、緑、と順繰りに光るのを見届けると、おばあちゃんは僕を振り返って、ほら、と言う。なにか秘密めいて、特別なことが起こったように感じて、僕もうん、と答えると、おばあちゃんは満足そうに台所の方へ戻っていった。
僕は台所ではなく、リビングの方に行く。ふたつの部屋は、曇りガラスのついた引き戸で仕切られているだけだった。戸越しに聞こえるくぐもった話し声を背中に聞きながらソファに座って、家から持ってきたゲームでしばらく遊ぶ。
ひろし、と台所からふいに呼ばれる。すこしゲームにも飽きてきた僕は素直に返事をし、引き戸を開けて、台所をのぞく。
食卓の上では、人参、じゃがいも、玉ねぎが三つ巴ににらみ合っている。お母さんは玉ねぎを切り、おばあちゃんは椅子に腰掛け、じゃがいもの皮むきを始めたところだ。
「人参の皮むきをしてちょうだい」
玉ねぎを切るお母さんが目を潤ませながら言う。
「お前は昔から玉ねぎには泣かされっぱなしだったね」
おばあちゃんが思い出すように言うと、お母さんは、そうね、とぶっきらぼうに答えた。その間にも、また玉ねぎはざくりとやられ、お母さんは玉ねぎの死を悼むみたいに、また目に涙をためる。
「普段、泣かないからかしらね」
おばあちゃんが本気とも冗談ともつかず、つぶやく。じゃがいもはするりと皮をむかれ、包丁で撫ぜるように四つ割にされると、水をはったボールの中に気持ちよさそうに浮かんだ。
僕はおばあちゃんの向かいの椅子に座って、人参の皮むきに取り掛かる。すべすべしてまっすぐな人参の皮をむくのは簡単だった。小さなまな板にオレンジの身体を押さえつけ、上から皮むき器を滑らせると、するするとむかれていく。むかれた人参は鮮やかな色味をあらわにして、心もとなげに食卓の上に転がる。自分がなんだか暴君にでもなった気がして、妙な興奮を覚えた。
野菜を切り終わり、玉ねぎを炒めるいい香りがしてくる頃、玄関のチャイムが鳴り、勝手に鍵の回る音がする。毎年のことだから、誰も動じない。そして、まるでクリスマスそのものが入ってくるみたいににぎやかになる。
近所に住むおばさん家族は、いつも夕方になってやって来た。一番先に、スリッパの音をたどたどしく引き連れて、小さなまきちゃんが台所に入ってくる。
「あ、おばあちゃん。ひろしにいちゃんもいる」
毎年のことなのに、まるで今日が初めてのように、驚いてみせる。
「いらっしゃい、まきちゃん。そうよ、今日はね、ひろしお兄ちゃんもいるのよ。クリスマスだからね」
おばあちゃんがまきちゃんを招き寄せると、まきちゃんは駆け寄り、膝の上にちょこんと座った。そして、ようやく気づいたように、鼻をきかせる。夢見るような、まきちゃんのこの表情が僕は好きだった。
「ホワイト・シチュー!」
まきちゃんが言葉すら味わうようにうっとりと言う。
「お姉ちゃん、久しぶり」
さとるくんを重そうに抱いて、おばさんがあらわれる。まさるおじさんも後ろに見える。
「あら、さき。元気だった?」
お母さんが声を弾ませる。それなりにね、とおばさんは笑いながら、さとるくんを床の上に立たせる。
「ひろし、ありがとう。ここはもういいから、さとるくんのこと見ててくれる?」
そう言われて、おとなしく従う。おばさんの前では、お母さんの言葉も少し優しくなるし、僕もいつにも増していい子になる。
「ひろしくんは相変わらずしっかりしてて、お手伝いもして偉いのね。ご飯ができるまで、さとるのこと、よろしくね」
おばさんが甘い声で僕を褒める。めったにない機会に僕はいつも居心地が悪くなって、さとるくんに声をかけ、リビングに移動する。おぼつかないながらも歩くさとるくんの後ろをついていく。リビングでは早速、おじさんがテレビをつけようとしているところだった。おじさんと僕で、代わる代わるさとるくんの相手をするが、結局疲れて、ビデオをみることになる。
ビデオが終わりに近づく頃、台所の方からいい匂いがただよう。
「おじさん、僕、ちょっと水飲んでくる」
おじさんはまどろんでいたのか、思い出したように低く唸って返事をする。そろそろと引き戸に近づき、薄く空いた隙間に指を入れると、向こう側がひどく暖かいような気がした。くっと力を入れると、からからと小さな音を立てて戸が開く。なんだか見てはいけないものを見るような、高揚した気分になる。
食卓の上には、大きな白い深皿が積み上げられていた。それを取り囲むようにして座るお母さんたちは、戸棚の淵に置かれた小さなテレビを見るともなく見ている。その奥で、きらきら光る重そうな鍋が、台所の小さなコンロを押しつぶそうとしていた。
「どうしたの」
とお母さんがすこし驚いたように声をかける。水が飲みたくて、と居心地の悪さを隠しながら言い訳すると、あまり興味もなさそうに、そう、と返事をした。
まきちゃんが熱心にお絵かきしている横を通り過ぎて、蛇口から水を汲む。目を閉じて耳を澄ますと、テレビの音やお母さんたちのなおざりな会話の向こうから、くつくつと笑うようなシチューの煮える音がする。時折、合いの手を入れるように、かたんかたん、と鍋蓋の音もまじった。
「ごはん、まだかな」
と僕がつぶやくと、おばあちゃんがゆっくりと腰を上げる。流し台の上にかけてあるキッチンミットを取ると、すこし加減を確かめるように、鍋蓋の取っ手を触った。僕は、何が出てきても驚かないでいようというような覚悟で、じっとそれを見ていた。おばあちゃんもまた、覚悟を決めたように、さっと蓋を取る。
ホワイトソースの香りが、暖かな湯気を先立ちにして、待ちきれないように立ち上った。僕は呆然としているが、おばあちゃんは迷うことなく、大きなお玉をたぷんと豊かなシチューの表面に沈めた。くるくると回すと、人参の鮮やかなオレンジが、それに合わせて楽しげに踊る。おばあちゃんが味見をするのを、なにか神聖なことのようにじっと見ていた。おばあちゃんの喉元を通り過ぎていくシチューの声すら聞こえるような気がした。
「はい。じゃあ、食べましょうか」
というのを合図に、台所はにわかに騒がしくなる。食卓の上の白い皿がいっぺんにさらわれ、台所まで持ってこられる。年季の入った食卓の方は寂しがるというよりむしろ、重い責務からのつかの間開放されて、安堵するようだった。
おばあちゃんは、秘めやかな手つきで、深皿にそろとシチューを注いでいく。シチューは窮屈な鍋から伸びをするように皿に広がる。なみなみとなった皿が目の前に差し出されるから、そうっと手を出し、皿の両端を優しくつまむと、おばあちゃんはいつになく素早く目をやって、隠し事をするように軽くうなずいた。僕もうなずき返し、この繊細で臆病なシチューを驚かさないように、足を踏み出す。それでも、心細げに揺れるから、一歩、また一歩と、慎重にシチューと歩調を合わせる。
「ひろしくん」
台所の引き戸の手前まできたところで、おじさんの声が頭の上から聞こえて顔を上げると、おじさんも息をのむようにシチューに見入っていた。僕はできるだけおばあちゃんに似せるようにうなずき、皿を差し出した。ありがとう、と、おじさんは声を潜める。精一杯の優しさで、しかし不安になるような不器用さで、シチューはおじさんの手の中で揺れる。
そのやりとりをもう一度だけ済ませると、僕は食卓の自分の席についた。おばさんたちの家族は、いつもリビングの方で食べるから、おばあちゃんとお母さんと僕の、三人分のシチューが退屈するように食卓の上で湯気を上げている。スプーンを手にとって、軽くかざすと、いくら銀色に光る冷たいスプーンといえども、興奮を隠しきれないように白く曇った。
おばあちゃんのホワイト・シチューがどんな味だったのか、親戚中の誰も、まだうまく言い当てたことはない。
「お母さんに作り方聞いて、何度か作ってみたんだけどね、やっぱりなにか違うんだよな」
まきちゃんはそう言って、綺麗に巻いた髪を、歯がゆそうに指ですく。
「あなたたちが言うほどのものでもなかったわよ。子供たちが来るっていうんで、唯一覚えた洋食だったけど」
おばさんは案外辛辣に言う。
けれど、親戚の誰かと会うたび、みんな必ずその話をした。おばあちゃんの亡くなった日、あの台所に座って葬儀屋を待っていた時ですら、僕はどこからかあのシチューの香りがただよってくるのを期待していた。そうして、玄関チャイムが鳴って、葬儀屋を出迎えに行く時になって初めて、僕があの食卓で待っていたのはシチューではなく、葬儀屋だったと思い出して、泣きそうになった。僕はよほど悲しそうな顔をしていたのか、ドアを開けると、塗りつぶしたみたいに真っ黒なスーツを来た中年の男は、気の毒そうに顔を伏せ、お悔やみします、としぼりだすように言った。その言葉でようやく、おばあちゃんのことも悼まなければならないことを思い出して、なんだか気まずい思いがした。まきちゃんに劣らず開けっぴろげなさとるくんも、たまに笑いながら言う。
「おばあちゃんの葬式のときさ、俺、実は、ひろし兄さんがいるのを見て、思わず、やった、って思っちゃったよ。やった、シチューだって」
こんな理由から、僕が初めて小さな洋食店を開くことになり、そのお祝いとして、ホワイト・シチューを作ると言ったら、いとこたちはにわかに色めき立った。両親やおばさんたちですら、冷静さを保ちながらも、どんなに遅くなっても絶対に行くから、と念を押した。
「ひろしくん、久しぶり!」
そう言って、誰よりも早くやってきたのは、まきちゃんだった。お客が来たのを喜ぶように、店の照明もすこし温かみを帯びる。
「まきちゃん、元気そうだね」
「ひろしくんがシチューを作るっていうから、朝からすごく楽しみで」
心から嬉しそうに笑いながら、息を切らしている。外が寒かったのか、頬を紅潮させていた。なにか言い足りなそうにしながらも、まきちゃんは持っていた花束を差し出す。
「開店、おめでとう!」
オレンジ色の花束は、僕というよりまきちゃんによく似合っていた。ありがとう、と受け取ろうとして、やっと、まきちゃんが店の入口から奥に入ってこようとしないのに気づいた。
「ありがとう。入りなよ」
三つあるカウンター席のひとつに腰掛けたままだった僕は、今日は自分が出迎える役目だったと思い出して、腰を上げる。
花束を受け取ろうと手を差し出すが、まきちゃんはそれを握り締めたまま、できてるの、となぜか声を潜めて言うので、僕は苦笑する。
「うん。できてるよ。でも、おばあちゃんとまでは」
と言うのを最後まで聞かず、まきちゃんは後ろを振り返って、できてるって、と子供のようにはしゃいでささやいた。まきちゃんの後ろに、もうひとり女の子がいることに気づいた。
「連れてくるって言っておいた友達。ゆき子っていうの。可愛いでしょう」
まきちゃんがすこし身を引いて、友達を示す。
ゆき子というその子は、触るだけでも溶けていってしまいそうなくらい真っ白な肌の子だった。まきちゃんのピンク色に染まった頬とは対照的に、ゆき子ちゃんの顔はほんのりとも赤みを帯びていなかった。そのせいか、口紅の赤がかえって白々しく感じられた。
こちらは、いとこのひろしくん、と言うなり、まきちゃんは堪えきれずというように、きっちり巻いたマフラーを解きはじめた。
「お店、暑いね。外、寒かったから、いっぱい着てきちゃって」
カバンをテーブル席の椅子に置き、すごすごとコートを脱ぎ始める。
「お店の裏の方にハンガーがあるから、掛けといてあげるよ」
と言いつつ、ゆき子ちゃんの方を見る。なんと呼んでいいのか迷って、お友達も、とすこし小さな声で付け足した。
「境 ゆき子です。ゆきでいいです。今日は、どうも呼んでいただいてありがとうございます」
おそらくずっと用意していただろう言葉を、ゆきちゃんはすらすらと口にする。
「あ、どうも。松山です」
と僕はせめて微笑みながら言った。
「ひろしくん、コート掛けってどこにあるの。ついでにトイレにも行きたいから教えて」
とまきちゃんがいつもの遠慮のなさで聞く。トイレに続く廊下の左側、と言われるままに教えると、まきちゃんはせわしなく店の奥に消えていった。
にぎわいは残らずまきちゃんについていってしまったのか、店の中は急にしんとなってしまった。
「いいお店ですね」
すこしして、ゆきちゃんが、当たり障りのない言葉を見つける。
「ありがとう。小さいけどね。その分、目が届くようにと思って」
と、ゆきちゃんが見つけてくれた小さな救助船に、僕が精一杯乗り込もうとするのを、ゆきちゃんは、遠慮がちに遮る。
「あの、シチューは」
ふっと僕は堪えきれずに微笑んだ。親戚でもない人からその言葉を聞くのは、なんだかおかしかった。
「できてるよ。僕たちのおばあちゃんがよくクリスマスに作ってくれてね。でも、まきちゃんの話はときどきすこし大げさだから」
苦笑を交えつつ言うが、ゆきちゃんは不似合いに真面目な表情を崩さない。
「すこしだけ、先に味見させてもらってもいいですか。まきがいつもすごくうれしそうに話すから、私、ずっと気になってて」
いいけど、と答えつつ、僕はなんだか気が進まなかった。美味しいと言われても、まずいと言われても、それは違うんだ、と言い訳したいような気がした。
「お店に出すようには作ったけど、そんなに特別なものではないんだよ」
とゆきちゃんに言いながら、どこか頭の奥の方で、それは嘘だ、と誰かが言った。そうなんですか、とゆきちゃんは返事をしたが、たぶん聞いてはいなかった。
綺麗に磨かれたコンロの上でたっぷりと胸を張る大鍋の前にゆきちゃんを案内するが、大鍋のみせる確信とは裏腹に、僕はそれをもう隠してしまいたいような衝動にかられた。それでもしぶしぶ、味見用の小皿を取り出し、鍋の蓋をさっと開ける。湯気と一緒にシチューの匂いが立ち上るが、やっぱり違う、と僕は思った。
ゆきちゃんだけが、僕の不安をあおるように、うっとりとしたため息をもらす。できるだけ、ゆっくりとシチューをかき回して、その間にゆきちゃんの気が変わらないかとも思ったが、それはかえって期待をふくらませることにしかならなかったようだった。ついに諦めて、僕はゆきちゃんに皿を差し出す。
興奮からか、熱気からか、この時やっと、ゆきちゃんの白い頬が薄紅色に血の気を帯びているように見えた。皿を渡すとき、ゆきちゃんの指先がわずかに触れて、僕は驚いて手を引っ込めた。彼女の指先は、意外なほどぴんと冷たかった。
ゆきちゃんは何事もなく皿を受け取って、そっと皿の端に唇をのせる。薄暗い調理場で、赤い口唇の間にとろりとした粘り気のあるクリーム色の液体が流れおちていくのを、僕は我を忘れて見入った。
頭がぼんやりとして、彼女がほうっと息をついて微笑むのに、どういう言葉をかけようとしていたのか忘れてしまった。
「すごく美味しい。甘くて、優しくて、こってりしてて、それなのにどこかあっさりして、すぐ消えてしまいそうで、懐かしくて、引き止めておきたくなるような」
彼女の言葉を聞いていると、ふいにおばあちゃんちのシチューの味が思い出されて、抑えきれずに彼女から皿を奪い取ると、その味が消えないうちに、と僕も一口なめてみた。
ほんの一瞬だけ、彼女の言う通りのなつかしい味が舌先に触れるように思えたが、やっぱりそれは気のせいだった。
「ちがう。ちがうよ。おばあちゃんのシチューは、こんなんじゃなかった」
自分のした無作法にも気づかず、ただ言葉だけが口をついて出た。自分で言っておきながら、思っていたより落胆したような声色に驚いた。
「仕方ないですよ。お祖母さんはもう亡くなってしまったんでしょう」
ゆきちゃんの慰めるような口調がかえって、忘れていた傷口を消毒するように染みて、急に泣いてしまいたくなった。
まきちゃんがヒールの音を響かせて帰ってくる。すぐに調理場にいる僕たちを見つけて、ずるい、と口を尖らせて笑った。
「どうだった、ゆき」
まきちゃんが芝居がかって、内緒話でもするように目配せする。美味しかったよ、とゆきちゃんが言うのも聞かず、まきちゃんも小皿をとって、勝手に味見をはじめた。止める気にはなれなかった。
「ほんとだ、美味しい。さすが、ひろしくん」
とまきちゃんは満足そうにうなずく。ふたりはしばらくはしゃいだようにシチューを代わる代わるなめ、調理場を見渡していろいろと感想をもらしながら、足は自然と客席の方へ向かった。二人の関心の移ろいやすさに付き合っているうちに、気も晴れてきた。
調理場を出る直前、まきちゃんがすこしだけ足を止め、でもやっぱり、とつぶやくのが聞こえた。
「仕方ないよ。おばあちゃんは、もういないんだから」
まきちゃんにだけ聞こえるように、すこし声を低めてささやいた。
初めて、おばあちゃんちの玄関チャイムの音がはっきりと僕の耳まで届くような気がした。僕のおばあちゃんはこのとき本当に死んでいった。