来訪者
「騙されちゃ駄目だよ、お兄さん。この業突張りなおっさんは、探索者登録の数を増やして補助金が欲しいだけなんだから」
じと眼で睨むエミリアの言葉にマスターは苦笑を漏らす。
エミリアのこの発言は、マスターに対しての意趣返しではなく、あながち間違っているものではないのだろう。マスターも反論せずに苦笑を浮かべているのがその証拠だ。
僕のことを窘めてくれていているエミリアを――目的とは正反対ではあるが――素直にありがたいと感じた。これほどまでに赤の他人を案じてくれる人はなかなかいない。
「一回でもね、やくざな真似をすると社会からは爪弾きにされるのさ。もしお兄さんが怖い目にあって探索者を辞めたいと想っても、次の就職先が限られちゃう。私みたいなソロプレイヤーを見てみりゃ解るだろう。こんな襤褸をまとってクソのようなゴシップしか書いていない三流新聞を、右も左も解らない観光客相手に売りつけようとしていた姿を見たら理解できるだろう。探索者なんてものはロクなもんじゃないってことくらいは。
そりゃあ、私としては大好きな迷宮に潜れるのは嬉しいよ。その上、報酬まで約束されているなら大万歳だ。お兄さんが貴族のぼんぼんでお金持ちなら、もう涎だらだらで飛びつくよ。でも、そうじゃない。日銭を稼ぐ手段として迷宮に潜ろうとしている。
お兄さんの発言から考えるに、確かに自信があるんだろう。なんとかやっていけるだろう程度の自信は最低でもあるんだろう。でもね、お兄さん。考え直しなよ。お金を稼ぐには色々な方法がある。最初からどうしようもない職種に身をおくことはないって、ホント。世間には勘違いされがちだけれど、探索者は楽な仕事じゃないんだから。仮登録の間ならいつでも登録は取り消せる。はやく撤回しちゃいな」
「いや、別に僕は探索者が楽だと想ったからそういうことを云っているわけではなくて……」
「ああ、お兄さんにはこう云わないと解らないかな? ――馬鹿にすんなって云っているんだ」
ずん、と空気が重くなる。
明確な怒気だった。己のもっとも大切にしているものが虚仮にされたときに、人が感じる苛立ちであった。
我慢しようにも、我慢しきれない。抑えようにも、抑えることができない。
どうしても自分という器から、怒りという感情が漏れ出てしまう。そんな、様子だった。
ごくりと生唾を飲み込む。
これほどの圧力を感じたのは生まれて始めてのことだった。
日常的に暴力という環境に身をおいているものが醸し出す事ができる威圧感というものがある。
エミリアは怒りながらも、きわめて理知的に言葉を選んでいるし、己の感情も完全にコントロールしている。だから、この迫力は彼女が真に見せる実力のほんの僅かなものでしかないはずだった。
それにも関わらず、僕は椅子から転げ落ちてしまいそうなほどの圧力を感じていた。これが探索者か。僕は漠然と想った。この尋常でない、命と命を奪い合うことを前提として成り立っている気配を出せる外れ者が探索者か。
恐らく、日常を送るという覚悟の時点で僕と差異がある。
日本という餓えず、与えられることに慣れきってしまった僕とは精神構造事態に大きな隔たりがあるに違いない。
マスターはやれやれと首をすくめている。エミリアが僕を脅しすぎていると感じたのだろう。しかし、それは正当な理由で行われているものだから咎める事はしない。むしろ世間知らずの甘ったれた餓鬼に説教に現実を教えているなんて優しいな、と云った様子だった。
「お兄さんがどんな幸せな生活を送っていたのかは知らないよ。けれども、すごいね。その度が過ぎた甘ちゃんぶりは。最初はとぼけているだけだと想っていたけれど、違うよね。お兄さんは相当な恵まれたところで過ごしていたらしい。私が少しでも悪意をだしていたら、お兄さん、この短時間にどれだけ騙されているんだい?」
エミリアの追及は続く。
それはすべて事実に基づいていて、反論の余地はなかった。
しかし僕は、この矮小な身体が吹き飛んでしまいそうなほどの圧力を感じていながらも、一切の恐怖心を感じてはいなかった。
怖くないのだ、ちっとも。ただただ感じるのはエミリアという少女は尋常ではないくらいのお人よしで、このような人物に出会えたことは幸運以外の何物でもないということだけだった。
おかしいと想う。昨晩――いや、正確に言えばこの世界に来た時からの疑問が頭をよぎる。なぜ、僕は恐慌状態にならないのだろう。日陰で陰気な僕は決して勇気のある青年ではなかったはずだ。それなのに、どうして一回も僕は不安を感じていない。
そして何よりも恐ろしかったのは、このことにも一切の恐怖を感じていないことだった。冷静におかしいな、と感じているだけなのである。
でも、今はこのことを考察している時間はない。今は真摯に向き合ってくれているエミリアに、僕も向き合わなくてはいけない。
「でもね、エミリア。僕は迷宮に潜りたいんだ」
「……ッ! お兄さん。ふざけるのも大概に――」
「僕は、迷宮に潜りたいんだ」
怒りを隠そうともしなくなったエミリアの両眼をしっかりを見据える。
気まずい沈黙がおりる。張り詰めた糸のような緊張感。
まるで背中に銃口を押し付けられているようだった。何かたわいもないきっかけで引き金を引いてしまう。そんなことを幻視した。
何か云おうと想って口を開きかけるが、やめる。いっそ世界が滅亡の危機に瀕していると云おうかと考えたが、そのような電波的な発言を誰が信じようか。今は優しさから協力を拒んでいる彼女が、別の意味で協力を拒むようになってもおかしくはない。
僕に云えることはこれがすべてなのだ。どんなに身勝手であろうとも、これがすべてなのだ。
ここまでして僕を止めてくれる彼女が「はいそうですか。後はご勝手に。私は知りません」となるのならば、それはもう仕方がない。
だから僕はエミリアの言葉を待つしかできない。
十秒か。十分か。はたまた一時間か。時間感覚はこの非日常的環境下で消滅していた。
永い、まるで永久のような時間が経ったように想えた。
そして、その静寂を打ち破ったの、以外にも僕でもエミリアでもなかった。
全身黒塗りの甲冑を着た戦士が、火球と共に扉を荒々しく突き破り、調度品を破壊しながら転がっていく。
あまりの唐突さに呆気にとられていると、焼け焦げた扉から、大きなクマをこさえた猫背の陰気な男が、緩慢な動作でヘルツ黄昏亭に足を踏み入れた。
こちらの男もまた全身黒尽くめで、顔の部分だけ穴の開いたローブのようなものを着込んでいた。
「これは失礼をいたしました。いや、なに。すぐ出て行きますよ。そこの襤褸雑巾を引き上げてね」
男は心底うんざりした様子で、そんなことを云った。