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メカニカル ~命に応える機械の物語~  作者: 平田公義
第一章 脱兎追われて、少年と出会う
3/37

 夜の帳が降り、囁くような波の音が聞こえてきた。


 小さな格子窓から淡い月光が招かれて、その部屋を冷たく彩る。無機質な鉄板が張られた寒々しい個室に、鈍い音が吸い込まれていく。


 幾度目かの大きな音。内臓が潰れかのような、酷く生々しい音だった。


「お前は、自分が何をしたのかわかっているのか?」


 質問を投げかけるのは、怒りに顔を歪めた杜屋(もりや)研隆(けんりゅう)だ。その純白の白衣には似つかわしくない、赤いまだら模様がしみ込んでいる。呼吸は粗く、毒々しい吐息が漏れている。


 彼の視線の先には、頭を抱え込て蹲る一人の少女がいた。着ているワンピースは靴跡だらけ、頭を守る手は皮がむけて血がにじんでいる。すらりとした長い脚も青あざが浮かんでおり、小刻みに震えていた。


「ご……、申し訳ござ——、ございません……」


 少女は血の味が広がる口で、思うように動かない唇を震わせる。一言吐き出すだけで、肺が裂けてしまいそうな痛みが走る。吐き出すもののなくなったお腹から、また胃液だけが這い上がってくる。


 それでも、痺れの抜けきらない体は、まるで自分の体ではないような異質感は抜けきらない。


 すると、研隆が少女の肋骨を砕かんと足を振り下ろした。ドスッと革靴の固さが、肺に鋭い痛みを送った。


「——————ッ」


 それでも、少女は悲鳴を上げることはない。血の滲む下唇を噛みしめて、熱砂のような思考を落ち着かせる。いつものことだ、と。痛くても殺されはしない、と。


「だったらな。どうして、逃げたんだっ」

「————ッひぅ」


 研隆の伸し掛かる体重に、思わず少女は小さな声を上げた。深々と鋭い鉄骨が食い込む様な鈍い痛みに、思考が一気に過熱する。体が急に感覚を思い出したように、鮮烈な痛みを走らせる。


 足が、背筋が、臓腑が、手が指が、喉が、頭が、痛みという流れを運んで、彼女の意志に訴えかける。


 少女は目を見開いて大粒の涙を流す。下唇をかみ切らんとするほど、噛む力が強くなる。見えない力が、縮こまる体を伸ばそうとする。電極を付けられた実験動物のように、体が痙攣する。陸に挙げられた魚のように少女の体が異常に跳ねる。


 胸の中で絶望の警鐘が鳴り響き、幻聴が痛い、痛いと繰り返し聞こえてくる。


「うぅっ!! むぅぅううっ!!」

「どうやら、体に馴染んできたようだな?」


 研隆はなにか納得したように足を退けると、腕時計を見た。


 足をどけられた少女の体はしばらく跳ねて、当然事切れたようにその動きが止まる。


「戻って一時間弱、か。まぁ、初めての試みだ。初期の予測データとは違ってくるものか」


 研隆は捨てられた人形のような少女の前に屈むと、その艶やかな髪を掴んで顔を上げさせた。

 

 傷一つない顔は名匠が作り上げたような整った顔立ちをしていた。しかし、その美貌も涙や血交じりの涎、鼻水や汗でぐしゃぐしゃだ。加えて焦点の合わない瞳は、地獄を見たような痛烈なもの。


 この世の醜悪を一身に受けた聖女。そんな言葉が今の少女には当てはまる。


 研隆は趣味の悪い芸術品を間にしたようなしかめっ面で言う。


「いくらマシーン・ボディに意識を移していたからと言って、こんな顔をするんじゃない。汚らしい」

「あ、あぁ……」


 少女は声だけを頼りに、開いた口を小刻みに動かす。それだけで、意識に痛みが突き刺さる。擦れた息は胃液と血が混ざった腐臭そのものだった。


 研隆は鼻を掠める腐臭にさらに青筋を立てると、少女の顔を床に押し付ける。


「顔だけは好みだったが、こうも汚いと気持ちの悪い。それでも、俺の妹か、千穂(ちほ)?」


 研隆の言葉に、少女、杜屋(もりや)千穂(ちほ)は何も言えなかった。息をするだけで辛い。鼓動が血を送るだけで、全身が火炙りにあったような熱さが込み上げてくる。


 研隆は死んだように動かなくなった妹から手を離すと、用は済んだとばかりに船室を後にした。


 冷たい月光が、ぼろぼろになった千穂の体に降り注ぐ。今にも天からの使者が息絶えそうな彼女を誘うように。


                    1


士依(しい)、どうして嘘をつくの?』


 聞きなれた母の声が頭に響いた。それだけで思考が一気に熱を帯びて、口が勝手に動いていた。


 ————俺はちゃんとやってる。


 そこに、無気力な父の声が割り込んできた。


『だったら、いいが。遊んでばかりいて、勉強ができないではダメだぞ、士依』


 ————勉強はしてる。どうして信じてくれない。


『お母さんたちの目から隠れるようにして、部屋に閉じこもってるのに。どうせ、ゲームしてるんでしょう』


 ————やることは、やってる。父さんも母さんも、何だよっ!


 その時、士依の母も父も口々に言った。


璃瑚(りこ)を見なさい。遊んでたって、勉強はできてる。目に届くところでやってるから、安心なのよ』

『リビングでテレビを見ながらだって、成績がついてきてる。だが、お前は成績が芳しくないから、言ってるんだぞ』

『あんたは一人でやるのがいいって言うから、何も言わないけど。いつまでも嘘を言うなら、部活もゲームもやめさせるからね』

『それにな、お前には金がかかっている。そう考えたとき、妹に悪いと思わないのか?』


 ————あいつはあいつで、まだ小学生じゃないか。


 喉の奥が詰まったようにしか声が出ない。震えた声。何を恐れているのかわからないのに、うまく呂律が回らない。


『もうあの子も中学生になるの、あんたは私立の高校が受かったからよかったけど、お金が馬鹿高いんだからね』

『高校もいけないじゃ、大学なんて無理だからな』

『そうよ。あたしは大学に行きたくても行けなかったんだから。いいわよね、今の子は』


 目に涙がたまり、目頭が熱くなる。悔しさがこみ上げてくる。肩に力が入って、しかしそんな情けない顔を見せたくなくてうつむいた。


 そして、璃瑚の声が頭を揺すった。


『お兄ちゃんはいいよね。そうやって能天気でさ。自分のこと、なぁんにもしなくていいんだから……』


 ————俺は、俺は……。


『結果も出せない。嘘は平気でつく。一人じゃ何もしようとしない』


 母か父か、それとも璃瑚か。


 重複する声に頭がパンクしそうになる。胸の奥が熱くなる。鼻水が自然と出てきて、啜るたびにツンと鼻の奥が痛くなる。堪えていたはずの涙が、頬を伝って自分がどれだけ惨めかを自覚させられる。


 何を言い返せばいい。何も言えないのは事実だから、言葉が出ないのか。


 ————俺は、嘘、つつ、き、じゃないっ。


 震える唇でどうにか出た言葉がそれだった。


『いや、お前は嘘つきだ。穀潰しだ。邪魔者だ。不要物だ。いらない、子供だ』


 誰の声かも判別できないまま、ぶつんとテレビの電源が切れたように視界が晴れた。




 渡瀬(わたせ)士依(しい)はゆっくりと目を開けて、覚醒した。


 霞む視界。しかし、体が仰向けになっていると触覚でわかった。


「夢……。夢か……。嫌な、夢だった気がする」


 士依は乾いたのどでぽつぽつと言って、体を起こそうとする。だが、鉛のように凝り固まった体は身じろぎするのがやっとで、それだけでも骨が軋むような疲労感を味わった。


 士依は一旦身を起こすのを断念して、晴れてきた視界から思考を巡らせる。


 どうもベッドの上に寝かされているようで、汗を吸った布団の重みがずっしりと伝わる。時間はわからない。蛍光灯の乳白色で、太陽か月の光らしいものはなかった。清潔感の溢れる空気と内装をしている。僅かながらの刺激臭が漂っている。消毒液だろうか。だとしたらここは……、


「病院? にしては随分と設備がいいか。璃瑚は?」


 士依はまだ自由の利く首を動かして、左右を確認する。どちらも白いカーテンで区切られており、外の様子はわからない。だが、はっきりしたことはある。


 ここはただの病院ではない。震災を免れた立派な病院やそれに付随する施設。まず一般人が入ることのない場所だ。避難所の仮診療所はもっと質素で、ここまで清潔感のあるものではない。


 がちゃん、と安っぽい金属音が響いた。


「君の傷のことは黙ってろと言われるがね。正直、医者としては心苦しいよ」


 聞こえてきたのは、ここを受け持つ医師らしい男の声だった。心に響くような重低音で、物腰の落ち着いた練熟した雰囲気を持っていた。


「いえ……、わたしが悪いものですから」


 衣擦れの音とともに今にも消え入りそうな女の声がした。まだ若く、風鈴の音を思わせる綺麗な声だ。


 士依は悪いと思いながら、カーテンの向こうで繰り広げられる会話を耳にする。


「だが、打身に擦り傷、消化器官にも異常がみられる。それで君はいいのかい?」

「わたしには、に——、研隆様しか、身寄りがありませんから……」


 歯切れの悪い女の声に、士依は眉をひそめる。


 回し椅子が軋む音とともに男の唸り声が響いた。


「うぅん……。しかし、ねぇ……」

和泉(いずみ)先生、お気になさならずに、わたしは大丈夫です。先生にもご迷惑がかかるかもしれませんし」

「患者のプライベートにまで首を突っ込むのは、確かに少々過剰かもしれない。だが、覚えておいてくれ。君の体は、君が思っている以上に頑丈にはできてないんだ。次には卵巣か、子宮か……、子供が産めなくなる可能性もあるからな。医者としての忠告だ」


 かちかちとマウスのクリック音らしいものが微かに聞こえた。


 士依は盗み聞きしたことに罪悪感を覚えながら、乾いたのどに生唾を流し込んだ。他人の診察結果内容を聞くのはどうにも背徳感がぬぐえないうえに、内容も内容なだけに胸が詰まる。


「肝に銘じておきます、先生……」


 すると、弱々しい金属音が鳴って、しばらく静寂が降り立った。


 士依も思わず息を止めて、様子を窺う。


「…………」

「気になるのか、彼のこと?」


 和泉、と呼ばれた男がふいにそう言った。厳しい口調は、暗に会うなと言っているものだ。


 それで士依は、女の人がカーテンの向こうでこちらを向いているとわかって気恥ずかしくなる。もしカーテンを開けて覗き込んで来たら、どんな風に対応したものだろうか、と訳の分からない思考が循環する。


「……はい。気になりますけど、わたしには合わせる顔がありませんから……」

「どうせ、疲労でぐっすり寝ているだろう。顔を見るくらいはしても、構わないと思うがね」


 からからと乾いた音が響いて、足音が近づいてくる。おそらく会話の流れからして、医者の和泉だろう。


 士依は心臓が破裂しそうなほど鼓動が早くなり、冷や汗が溢れてくる。別に悪いことをしたわけではない。むしろ、今の状況を知るいい機会でもある。だが、起きていて会話を聞いていたことを知られたら、と思うと気持ちが落ち着かないのだ。


 すると、また立ち上がる音がした。女の方だろう。


「いいんですよ。わたしも、その、大丈夫ですから」


 慌てた口調で言って、次には妙な歩調で部屋を後にする足音がした。


 士依はほっと胸をなでおろしながら、ドアが閉められる音を耳にした。だが、妙な罪悪感だけが残って気分がすぐれない。体の疲れも抜け切れておらず、ようやっと手首足首を動かせる程度。


 すると、カーテンが開かれて、聴診器を首に下げた中年男、和泉が顔を出した。


「あ……」

「ん? 何だ、起きていたのか」


 和泉は士依の枯れた声を耳にして、肩を上下させる。長身痩躯で、一見するとモデルではないかと疑ってしまう。清潔な白衣を着て、頬骨の目立つ顔立ちが妙な違和感を持たせる。


「気分はどうだい? もっとも、これだけ早く起きるとは、僕も思ってなかったよ」

「あ、あの……」


 ベッドの横にある椅子に腰かける和泉は、士依の顔を見て白衣の胸ポケットからペンライトを取り出した。それから、士依の左右の瞼を押さえて、ペンライトの光を当てる。


 直接太陽を見たときの眩しさに、士依は顔を顰める。


「うん。瞳孔は正常。今度は口を開けて」

「ちょ、ちょっと待った」


 淡々と診察してくる和泉に、士依は待ったをかける。


 すると、和泉は診察の手を止めて体を椅子に戻した。患者の要望には応える紳士な性格だとわかったが、士依の中にはまだ状況を把握しきれない不安がある。


「えっと……」

「和泉だ、和泉(いずみ)準也(じゅんや)。正真正銘の医者だ」

「あ、ええ……」


 自己紹介をした準也に士依は言葉を失って、あいまいな受け応えをする。


「質問に答えた。口を開けてれ」

「え、はい」


 士依は戸惑いながら口を大きく開ける。準也の妙な気迫に押されて、そうしなければならないと思ったのだ。


 すると胸ポケットから舌圧子を取り出した準也はペンライトと合わせて、口の中を診察する。舌を押さえつける舌圧子の冷たい舌触りと金属特有の味が伝わる。


 士依は寝ながらの態勢で、そんな不快感を数秒受けることとなった。


「うん。喉の炎症もない、か……」


 準也は舌圧子を士依の口から離して、一度席を立った。


 士依はほっと息を吐きながら、口の中に残留する金属味に舌をもてあそぶ。


 そうしているうちに、静かな金属音、器具が置かれる音がして、クリックするような音までも聞こえてきた。


「何を、してるんですか?」


 士依は声を振り絞って質問する。体も温まってきたのか、徐々に全身が軋むように動き出す。しかし、布団が鉄板のように重く感じられ、それだけ自分の体が弱り切っていることを自覚させられる。


「君のカルテを見ている、渡瀬士依くん」

「どうして、俺の名前を——」


 士依はまだ名乗っていない自分の名前を言われて、心臓が跳ね上がった。その瞬間、火照っていた思考が冷まされて言い知れぬ不安感が沸き立ってくる。


 カチカチとまたクリック音。


「どうして? 君の持ち物から知ったに決まっている。運び込まれた時の君は酷く衰弱していたからね」

「運び込まれた? じゃぁ、ここは病院?」

「いいや——」


 準也の声とともに、彼のきびきびとした足音が戻ってきた。頬骨の目立つ顔立ちが、視界の端に映りそれを追うようにして首を動かす。


「航空母艦の中だ」


 それには士依は特に驚くことはなく、むしろ納得がいったという安心感があった。それから、体に鞭打って上体を起こそうと腕に、腹に、腰に力を込める。


「そう、ですか……」

「驚かないのかね?」


 準也は体を起こそうと奮闘する士依を咎めることなく、事の次第を見届けるように口元に手を添える。


 士依はどうにか上半身を起こし、枕を背もたれにして態勢を維持する。着ているのは学ランではなく、薄手の患者服だと、彼はここに来て理解した。それでも、軋むような痛みが伴い、断続的に痺れが襲い掛かってくる。気を抜けば、すぐに横倒れになってしまうだろう。


「一応は、軍に連行すると言われましたから……」


 士依は粗い息を吐きながら、準也と同じ目線で言う。


 準也が口元の手をどけて、関心とばかりに一つ頷いて見せた。


「なるほど。とはいえ、君の回復力は凄いな。たった一日で体を動かすまでになるとは」

「一日? 俺は、そんなに寝てたんですか?」

「ああ。栄養剤の点滴があったとはいえ、三日は寝込むものと予想していたよ。まぁ、一緒に運ばれてきた君の妹、かね? その子は半日で目を覚ましたがね」


 妹、と言われて士依は目を見開いて、頭の中で何かが弾ける。


「璃瑚、妹はどこですか!?」


 士依の訴えに、準也が口元を歪めて鋭い視線を投げかける。


 士依はその剣幕に押されて口籠った。逆らっても言うことを聞かない体では、一分と持つまい。


 準也は一つため息を吐くと、腕時計を見やった。


「まぁ、君の心配はごもっともだ。しかし、まだ動けるほど回復したわけではないだろう?」

「は、はい……」

「待っていなさい。君の妹に来てもらう。それくらいしてやらないと、不安で仕方あるまい」

「そうですけど……。妹の様子はどうなってるんですか? 塞ぎこんだりしてませんか?」


 席を立つ準也だったが、その言葉に足を止めて、一度士依に振り返った。苦虫をかみつぶしたような顔で、静かに口を開いた。


「君の言うとおり、妹さんは誰にも口を開かず、心を閉ざしている。軍艦に連れてこられた事実を、君ほどすんなりとは受け入れてもらえなかったよ」

「…………」

「しかし、君たち兄妹はそれだけの秘密を知ってしまったと自覚してもらいたい」


 言って、準也は診察机に足を運び、備え付けの電話を取った。


 士依はそんな医者のやり取りを見ながら、胸の奥が重くなって息がつまりそうだった。


                    2


 朝日が差し込んで、璃瑚はふと丸く縁どられた窓の外を見た。


 海と空。水平線と擦れた雲が流れているのが見えた。船体を打ち付ける波の音がかすかに聞こえ、上下する不安定な床に気持ち悪さがこみ上げてくる。


「…………」


 璃瑚は窓から顔を離して、振り返る。


 目に飛び込んでくるのは無機質な狭い船室。ベッド一つ置いただけでいっぱいの間取りに、申し訳ない程度にある壁と一体のデスク、身なりを整えるための鏡と衣装収納がある。


 璃瑚はベッドの端に腰を下ろすと、膝を抱えて壁に寄りかかる。着ているぶかぶかのつなぎにもう違和感はなかったが、惨めな気分だけは拭いきれない。


「お兄ちゃん……どこ?」


 璃瑚はぐっと膝を寄せて、まだ押し寄せてきた寂しさに耐える。


 ここに来てからというもの、兄の士依とは一切顔を合わせていない。たった半日。それでも、彼女にとっては辛く長い、拷問のような時間だ。


 すると、船室のドアが開かれる音を聞いて、璃瑚は顔を上げる。


 そこには、見覚えのある女性の姿があった。汚れたつなぎ姿、作業帽のつばを後ろにして被り、広いおでこを見せる少し大人びた雰囲気を持っていた。確か晩御飯を運んできて来てくれたが、今は璃瑚の綺麗になったセイラー服を持っている。


「ああ、やっぱり起きてたよ。あたしのこと、わかる? 篠井(しのい)駒子(こまこ)だよ?」


 璃瑚は体は彼女から遠ざけるようにして壁に押し付けていた。


 女性、篠井駒子もそれを見て、あっと口元に手を当てつつ、距離を取ってベッドに腰掛けた。セーラー服を丁寧に璃瑚に寄せて、苦笑する。


「ごめんね、慣れてないなのに」


 璃瑚は用心深く顔をうずめて、首を横に振る。悪気がある人ではないのは、よくわかっている。愛嬌のいい笑顔とぴょこんと作業帽から飛び出した触角のような髪の毛は、恐怖心を緩和させる可愛げがあった。


 駒子は璃瑚の反応を見て、にっこりと笑うと明るい声で話しかける。


「あのね。あなたのお兄さん、目を覚ましたから会いに来ないかって言われたんだけど、どうする?」

「お兄ちゃん……?」


 璃瑚は駒子の言葉に反応して、静かに顔を上げる。まだ信じられるものではないが、兄という単語が出れば無視できない。最後の家族。そばにいてくれる家族をこれ以上失いたくない。


 駒子も璃瑚の不安そうな声に、優しく目を細めて少しだけ寄った。


「朝早くに和泉先生、ああ、ここのお医者さんね。その人から連絡があったの。お兄さんも、あなたのことすごく心配してるって」

「…………」

「食事もとれるって先生が言ってたから、お兄さんと一緒の方がご飯も食べられるかなって」


 駒子は心配そうに昨晩のことを言った。


 璃瑚は運んできてもらった食事に手を付けずに返してしまった。不安から食欲がわかず、ずっと気持ち悪く揺れる波に耐えるように布団にくるまって夜を明かした。そのことを、駒子は心配しているようだった。


「お兄ちゃん、大丈夫なの……、ですか?」


 璃瑚は駒子に遠慮がちに声をかける。ここまで気を使ってくれている相手だが、どうしても知らない人と話すのは緊張してならないのだ。


 船が上下に揺れる中、船体が軋む音が響く。


 すると、駒子は少し意地悪に小首をかしげて、片目をつぶった。


「会った方が早いと思うけど」

「…………」


 璃瑚は視線を泳がせて、何度か駒子の反応を窺いながら、おずおずとセーラー服に手を伸ばした。




 艦橋では今後の動きに関する議題が持ち上がっていた。


 艦長の草薙(くさなぎ)大輔(だいすけ)、当直明けの副艦長笹森(ささもり)剛太(ごうた)、そして杜屋研隆である。艦橋クルーは朝の当直で人では少なく、最低限の人数しかいない。他のクルーには休息を取らせて、今後に備えてもらうことになっている。


「岐阜港を出て二日……。横浜からの受け入れはなし。このまま現海域にとどまるのは、領海侵犯と言われるかもしれませんね」

「それは米国さまの意見だ。俺たちは日本国国防軍だぞ? 停泊するくらい問題はない」


 大輔はテーブルに置かれた日本地図を見ては、苦しいうなり声を上げる。


 日本地図は列島が東西に分裂した最新のもので、現在の日本がどれだけ奇形の島か思い知らされる。東にずれ込んだ列島は大きく北海道に接近し、西側もまた四国九州とぶつかるようにして地続きの状態になっている。しかし、中部地方と近畿地方の間に巨大な内海が出来上がり、西と東の溝を作った。


「問題は、内海の巡視任務を離脱していることだ。西のマシーン・ボディが活発的になって、こちらの内陸部を探っているのは聞いてるだろう?」


 大輔は人差し指で、西側、西府(せいふ)の予想活動経路をなぞった。


 その動きは大雑把ではあるが、事実でもある。今の東側、政東(せいとう)には詳しく動きを見ることはできないからだ。人工衛星のカメラからも逃れるライフ・ライトの迷彩を纏うマシーン・ボディ。完全な動きを把握できるまでの高性能レーダーがあるとするなら、同じマシーン・ボディの共鳴による干渉か、〔ハヤトマル〕にしかない。


 剛太も苦い表情を浮かべて、腕を組んだ。


「ここ以外にもマシーン・ボディの部隊はある。どうとでもなるだろう」

「だが、アメリカの連中の動きは明らかに、西側の機体を知っている風でもあった」


 研隆が鋭い口調で言う。


 大輔もその意見には賛同でき、静かにうなずいた。


「アメリカは独自のインターネットを構築している。日本の軍事ネットもそうだが、彼らは秘密を持ち過ぎだ。だから、今回のような味方同士の戦闘があった」

「あれは、〔ラビット・キャップ〕の欠陥もある。それを差し引いても、擁護できるものではないがな」


 研隆の冷静な意見に、大輔は喉の奥に何かつっかえるものを感じながら、制帽の位置を直す。いつになく大人しいというのか。物事を客観している彼が恐ろしく思えるのだ。


 すると、剛太が内陸を指差して言う。


「内陸部は農耕に当てられて区画整理がされていますから、攻撃されると厄介ですよ」

「西の連中はそんな女々しい戦略など考えていない」

「…………では、元西側におられた杜屋博士の意見は何ですかな?」


 大輔はわざと研隆を逆なでする口調で言って、手袋をぐっと内側に引っ張った。


 彼の知る杜屋研隆ならば、まず反発心を抱いて軍人がどうのこうのと文句を垂れる。そういう煽りに弱い男だと理解しているつもりだ。


 しかし、研隆は片眉を不機嫌そうに上げてため息をつくだけ。怒りどころか、憐れみの目を向けて説明しだす。彼の細い指が内陸をぐるりと囲んで、徐々に南下、内海へと動いていく。


気吹鉱(いぶきこう)だ。内陸の富士山付近などの活火山、休火山とはずその近くに出土する傾向がみられる。マグマの流れというのか。そういった血管らしいものが地下を流れており、この内海は特別根深い海溝が出来上がっている。簡単に言ってしまうと、ここが傷口。気吹鉱は血小板で固まった血液ともいえるか」


 研隆の指が地図上の内海を軽く叩いて、一度大輔と剛太を見た。


 大輔と剛太はその説明に、何か生物的な意味合いを感じながらも、彼の言わんとする結果は予想できた。


「つまりは、気吹鉱の採掘が目的、と?」

「断定はできないがな。西にも出土頻度が高い場所がいくらかあるが、ほとんど掘り尽してしまったというべきだな」

「軍備拡張、維持のために取りに来るわけか」


 剛太が納得したようにつぶやく。


 西府はいち早く〔MB〕の開発に乗り出していたがために、気吹鉱の大量消費が行われたのは言うまでもない。しかし、資源は常に有限。なくなってしまえば、輸入なり奪うなりの手段に出てくるのも必然だ。


 とはいえ、西側の軍備取得はやはり性急なもので、軍事国家へと戻ろうとする予兆にも感じるのだ。


 大輔はそうした背景を改めて認知すると、剛太に言う。


「笹森副艦長。東北、関東、中部の気吹鉱採掘状況を取り寄せてくれ。場合によっては、こちらの部隊を派遣しようと思う」

「なんだってまた……」


 剛太は大輔の積極的な意見に肩を竦める。


 大輔は目を細めて、いかに普段の自分が部下に信用されていないか痛感させられる。若輩者が多いこの〔ハヤトマル〕の長でありながら、やはり統率する力というのは簡単には身につかない。


「マシーン・ボディのパイロットの練度を高める必要がある。でなければ、昨日のような大惨事を招きかねない」

「ああ、確かにそれは、ね」

「杜屋博士も、それでいいな?」


 大輔の確認に、研隆は少し考えてから首を縦に振る。


「もちろん、妹さんも同じ扱いだ。彼女も一応は、ここのクルーだ。あんただけの所有物じゃないんだ。それを了解してくれ」

「わかっている。だが、マシーン・ボディへの意識同調はまだ完璧ではない。ムラがある」


 研隆が強く発言する。


 彼の行っている研究は、正直非人道的だ。機械の体に、人の意識を移植するシステムの完成。それはある意味で半永久的な精神の不死を現実にできるものだ。有機的な人体よりは、無機物なマシーン・ボディは器としてよくできているもの。だが、その実験に伴うリスクは高く、〔ラビット・キャップ〕のバイオ・コンピューターに意識を移した研隆の妹、千穂(ちほ)は機械の体に戸惑い、錯乱、逃亡することになった。


 その苦痛は大輔たち〔ハヤトマル〕クルーにはわからない。想像することでしか、彼女しか知りえない苦しみを疑似的に共感するしかない。


 しかし、大輔は疑いの目を研隆に向けて言う。


「妹さんが逃げ出したのは、意識の移植だけはないでしょう?」


 それには、研隆も不快感を露わにして、睨み返してきた。


 大輔は特に怯む理由はなかった。どう考えても感情論の発露でしかないからだ。彼の感情が暴走したときの異常さは昨日の出来事で痛感してはいたが、正論に対しては何も返す言葉はあるまい。


 事実を突きつけられた研隆は押し黙って、視線をそらす。


「もともと争い事が苦手な性格をしてそうでしたからね……」


 剛太も何か思い出すように虚空を見上げてぽつりと言った。


「このままマシーン・ボディへの意識移植を続けても、妹さんがまた訳も分からず危険に晒される。それをよりにもよって兄である杜屋博士がするんだから、たちが悪いと思わないか?」

「何が言いたい?」


 険のある研隆の声。


 大輔は一つ大きく息を吸って、気持ちを落ち着かせると淡々と話しだした。


「まぁ、ここはひとつ相談なんだが――――」


                    3


 朝食、というより昼食を取った渡瀬兄妹はそれぞれ綺麗になった学ランとセーラー服を着て、〔ハヤトマル〕の艦内通路を歩いていた。人とすれ違うのにも、体を開いて道を譲らなければならないほどの細道に、士依も璃瑚も悪戦苦闘。さらに、いくつものパイプのうねりが壁や天井を這い回っており、圧迫感が凄まじい。


 それでも、目の前を行く案内人、篠井駒子は慣れた足取りで揺れる足場、上下の段差が激しいところもすいすい歩いていく。


「大丈夫? この船道が狭いから、気を付けてね」

「はい。おっと——」


 士依は時折振り向いて様子を見てくれる駒子に返事をしたが、がくんと膝が抜けて手すりを必死に握りしめた。


「だ、だ、大丈夫!? 無理しちゃだめだよ」

「いいえ。これくらい」


 駒子が慌てて引き返して、士依の体を気遣う。


 士依は駒子の面倒見の良さに感銘を受けながら、足に鞭打って態勢を立て直す。


「ちょっと、お兄ちゃん。しっかりしてよ」

「わかってるよ」


 後ろからは手厳しい璃瑚の声。その勇ましい声は励みになるが、駒子のように優しい言葉をかけてもらいたい気持ちもあった。


 士依は心配顔の駒子に先に行くようにお願いして、ゆっくりと歩き出す。


 駒子も仕方なしに先を行くが、振り返って様子を見ることを欠かさない。その勤勉さ、心配性なところは士依の知り合いにはいないタイプの女性で、少し興味をひかれた。


「えっと、篠井さん」

「はぁい。何か、あった?」


 明るい声を出す駒子。


「今さらなんですけど、服を洗濯してくださってありがとうございます」

「————っ、ございます」


 士依の後に続いて、早口に璃瑚が言った。士依の背中に隠れるようにして、なるべく駒子の視界に入らないようにしている。人見知りはここでも発揮されていた。


 駒子は前に向き直って、向かってくる軍服の男性に敬礼しつつ、道を開ける。士依たちも体を横にして男性に道を譲った。その時の不審そうな視線が痛く心に突き刺さる。


「ううん。巻き込んじゃったのは、こっちのほうだから、それくらいはしないと」


 進行を再開する駒子。


 士依たちもそのあとに続いた。


「一応、ヘリに荷物の方は積んでおいたから、乗る前に確認してね」

「はい。ありがとうございます」


 士依はほっと胸を撫で下ろしながら、感謝の言葉を述べた。


 渡瀬兄妹は〔ハヤトマル〕に搭載されている輸送ヘリに乗って横浜に帰ることが決まり、こうして艦内を歩いている。それにしては早い対応だ、と士依も疑問に思うところではあった。しかし、駒子の対応を知ってしまうと疑問を持つ方が不躾な気がしてくる。


 士依の後ろを歩く璃瑚がむっと口を尖らせて、小声で言う。


「お兄ちゃん、なんでありがとうなの? あたしたちは巻き込まれたんだから、言わなくていいの」

「別にいいだろう」

「あの人のこと、じろじろ見ちゃってさ」

「綺麗な人だって、思うからな」


 士依は淡々と言って、前に向き直る。


 急な階段を下り、今にも転げ落ちそうになる。両脇の手すりにつかまって、ゆっくりと降りていく。降りてすぐのところで、駒子が二人を待っていた。


「足元に気を付けてね。あ、ちょっと会ってほしい人がいるんだけどいい?」

「会ってほしい人、ですか?」

「ほんのちょっぴり。挨拶するだけなの。お願いッ」


 階段を降り切った渡瀬兄弟は合掌して頭を下げる駒子に困惑して、立ち止まって顔を見合わせる。


「どうする?」

「…………。お兄ちゃんが決めてよ」

「そうか? それじゃぁ、挨拶だけでしたら」


 士依は駒子の方へ顔を向ける。


 すると、駒子が顔を上げて満面の笑みを見せる。素朴な雰囲気が彼女らしい和やかさを引き立てる。だが、もう少し着飾れば男の視線も釘付けにできるだろう。


「ありがとっ。じゃぁ、すぐそこだからついてきて」


 はきはきと言う駒子の後を、士依と璃瑚はついていく。


 通路を抜けた先は巨大な空間だった。直方体の間取り。高い天井に眩しい照明は、通路よりも解放感があり、縮こまっていた体も自然と正される。その中心には細長い支柱が四つある。甲板への昇降エレベーターだ。壁際には戦闘機が並べられ、物々しい雰囲気を醸し出している。


 士依と璃瑚は生まれて初めて航空母艦の格納庫に足を踏み入れたのだ。その圧巻の光景に、呆然と立ち尽くす。


「二人とも、こっちだよ~」


 そんな二人を駒子が弾んだ声で先導する。


「すごいな。なんというか……」

「そ、そうだね……」


 士依と璃瑚はあたりに駐機されている戦闘機やら、天井の高さを確かめながら歩き出す。


 唸り声のような鳴動をする格納庫内をしばらく歩くと、〔MB〕が駐機されているスペースが見えてきた。〔ドッグ・シャドー〕二機、〔ウルフ・セブン〕、そして最奥に〔ラビット・キャップ〕が足を延ばして座っている。


〔ラビット・キャップ〕だけが衣類のよな軽軟装甲を外され、さらには皮膚すらも剥がされたように内部を露出していた。というのも、内骨格は人体のような筋肉の塊のような気吹鉱と鋼鉄の骨で構成されており、色は気吹鉱のガラスのような透明さと鉄色の骨格だが、艶やかな光沢が不気味に光り、生々しさを触発させられる。


 士依も璃瑚もそれらを見て、苦い表情を浮かべながら、〔ラビット・キャップ〕の前まで来た。


「班長っ! 連れてきましたよー」

「ああ! ご苦労様!」


 駒子が〔ラビット・キャップ〕の肩に乗っている人物に向かって呼びかける。


 士依と璃瑚は返事のあったほうを見て、疑問を抱いた。見間違えではないか、あるいは、そういう作業中だったのか、と理屈を頭の中に浮かべる。


「ごめんなさい。一般人には機密なんだけど、どうしても聞きたいことがあってね」


 そういって、〔ラビット・キャップ〕の体を伝って近寄ってきたのは、溶接用防護マスクをした女性だった。つなぎの上半分を脱いで腕の部分で腰に巻き付け、女性的なラインが浮き彫りになったTシャツ姿、手には分厚い手袋がされていた。だが、頭だけは旧世紀の潜水服を思わせる武骨さ。


 士依と璃瑚は目を丸くして、目の前で腕組みをして立つ女性を頭からつま先まで観察して、


「えっと…………、お邪魔でしたか?」


 士依がマスクの黒いバイザーを見て、おっかなびっくりに問う。


 その横で、璃瑚が赤べこのように首を縦に振る。


 すると、マスクの女性は一度困り顔の駒子を見て、肩を上下させると士依に正面を向いた。


「いいえ。ちょうど、作業もひと段落したところ。気を使う必要はないよ」

「班長……。きっとそのマスクのことを言いたいんじゃないんですか、彼?」


 駒子が表情もわからないマスクの女性に言った。


 すると、マスクの女性はぽんと手を打って、納得したように首を振った。


 その動きに璃瑚は不気味さを感じて、士依の後ろにさりげなく移動する。首から下は璃瑚もうらやむ豊満な体つきだが、頭はどうあってもホラー映画の殺人鬼を連想させる。


「ああ、そうかそうか。悪いけど、このマスクはと取りたくなの。あたし、どうしても人と顔合わせると赤面しちゃって……」


 綺麗な声がマスクの外側についている小型スピーカーから流れる。


 士依は曖昧に返事をしながら、どこか腑に落ちない面持ちを浮かべる。赤面症は納得のいくことだが、職業柄だからだろうか、その溶接用防護マスクだけはいただけない。


 それから、マスクの女性は分厚い手袋を取って、つなぎのポケットにねじ込むと綺麗な手を差し伸べてきた。


荒島(あらしま)美音(みおん)よ。マシーン・ボディのチーフメカニックをさせてもらってる」

「あ、えっと、渡瀬士依です」


 士依は差しのべられた手を握って握手を交わす。


 それから、後ろに隠れる璃瑚を前に出した。


「……渡瀬璃瑚、です」

「よろしく」


 緊張した面持ちの璃瑚は女性、美音と握手を交わすとすぐにその手を解いた。


 士依は呆れて深く息を吐く。こちらもこちらで、人見知りが激しい。


 しかし、美音はとくに気分を害した様子もなく、腰に手を当てた。というより、表情が分からないので、挙動で判断するしかないのだが。


「えっと、ところで、どっちがあの機体を動かしてたの?」


 その質問に、璃瑚がすかさず兄の士依を見上げた。


 美音はそれを見逃さずマスクの下の瞳を細める。


「なるほど、お兄さんの方」

「何か、悪いことでも?」


 士依は美音の意味深な口調に思わず身構える。チーフメカニックというだけに、〔ラビット・キャップ〕に不具合があれば、原因を追及する必要がある。職種がらに質問したいことがあるのだろう。


 駒子は特に反応を示すことなく、兄弟と班長の間でにこにこと会話を聞いている。


「いいえ。むしろ、納得がいって安心したの」

「はぁ、安心ですか……」

「ええ。なんだか〔ラビット・キャップ〕が筋肉痛気味でね。ああっ。気吹鉱が硬質化しちゃたって意味ね」

「そ、そいうものですか……?」


 弾んだ声を出す美音に、士依は訝しんだ視線を向ける。


 璃瑚も不安そうに美音と駒子を見比べる。


 すると、美音が固いマスクを指先で叩きながら言う。


「う~ん、ちょっと待って。こま」

「はい、班長」


 美音に愛称で呼ばれた駒子は、少し緊張した声で返答するとそばに寄った。そこで美音が少しマスクをずらして耳打ちすると、駒子ははきはきと返事をしから、〔ラビット・キャップ〕の方へ走っていった。


 士依と璃瑚はその様子に疑念が深まり、ますます不安になってくる。仮にもここは軍艦。陸地にいる軍人たちと同じ人種だと考えれば、何をしてくるかわからない。


 不安がる二人に美音は軽く首をかしげて、茶目っ気のある仕草をして見せた。だが、それは警戒心を抱く璃瑚には奇妙な行動にしか映らなかった。


「化学の実験とかで見たことあるかな? 気吹鉱の特性」

「えっと、ないです。それって、高校での範囲ですよね」

「そう――――だね、今どきは。あれ? 高校生じゃないの?」


 美音が意外とばかりに言う。


 士依は苦い顔で、説明する。


「震災があって、高校進学も流れちゃいまして。こいつも、中学入学前でしたから……」


 そういって、璃瑚の頭に手を乗せる。しかし、それもすぐに跳ね除けられてばつの悪い笑みを浮かべることしか士依にはできなかった。


「そう……。ごめんなさい」

「いえ、気にしてませんから。とはいえ、俺も頭がいいわけじゃないんで、何とか璃瑚には中学教育を受けさせたいんですよ」

「…………」


 璃瑚は身の上話をする兄に対して、どこか寂しい表情を浮かべる。


 士依とてこんな身の上話で、自虐的に話を進めても面白くないことは承知している。だが、口は勝手にそういう話で場を取り持とうとしている。いや、もっと単純に、初対面の美音や駒子に『いいお兄ちゃん』をしているところを見せたいだけなのかもしれない。


 美音も軽く返すだけで、特に気に留めるそぶりは見せなかった。


 と、そこに駒子が厚手の手袋をしながら、戻ってきた。


「お待たせしました。はい。二人とも、これをして」


 そういって渡されたのは、駒子がしているのと同じ手袋で、士依と璃瑚はそれぞれ一組受け取った。


「まぁ、簡単な工作だと思ってちょうだい。少しばかり、気になることもあるしね」


 美音も手袋を付け直しながら、駒子が別に持っているものを受け取る。


 士依と璃瑚も手袋をしつつ、手渡されたものに注目する。


「これが精錬前の気吹鉱よ」


 美音の手の上には、鉛色をした油粘土のようなものだ。表面に光沢を帯び、薄い膜のようなものが張られている。


「これが、ですか?」

「ええ。粘土みたいでしょう? これを、手のひらに収まるくらいにしてっと————。はい、持ってみて」

「手袋は絶対はずさないでね? でないと、危ないから」


 美音から本当に粘土のように簡単にちぎれた気吹鉱の破片を士依は受け取りながら、駒子の忠告に緊張する。


 手に乗っかったそれはずっしりとした重みがあり、ダンベルを持っているようだ。土くれではなく、金属物質であることの証明と言えるだろう。加えて、ひりひりと伝わる痺れに思わず首をかしげる。


 璃瑚もおずおずと受け取りながら、その感触に目を見張った。


「重いっ?」

「そうよ。一応、金属だからね。それで、この小さいのをこうやって手の中で捏ねてみて」


 美音は余った気吹鉱を駒子に預けつつ、小さい破片を両手でしっかりと包むと捏ね始めた。


 駒子は一度、その預けられた気吹鉱を返しに、その場を離れた。


 士依は表情の見えない美音がどういうつもりなのかわからず、手渡された破片を見つめる。


 隣を見えれば、璃瑚も渋々といった感じで美音のマネをしている。


 士依は晴れない気持ちで手袋の上に転がる気吹鉱をこね始め得る。すると、ひりひりとした痺れが手のひら全体に広がりつつも、暖かく、もっと粘り気のある感触に変化しているのがわかった。


「…………?」

「わかる? 気吹鉱の精錬は人の手で行われるの。そして————」


 美音が楽しげな声とともにその手を広げると、小さな燐光が舞いあがった。


 その手のひらには、銀色の燐光を飛翔させるガラス細工のような小鳥がちょこんと乗っかっていた。ガラスを思わせる透明感と光の反射、氷のような光沢が艶めかしいも生気を感じさせる。


 渡瀬兄妹は美音の手のひらに乗っかる小首をかしげた小鳥を見て、息を飲んだ。


「え? え? 凄い……」

「これが精錬されたもの。人の生命エネルギーを吸い上げて、粘性を高めて、透明度も上がる。そして、精錬した人のイメージを形作ることも可能よ」


 そこにちょうど、戻ってきた駒子が美音の手に乗っている小鳥を見て言った。


「班長。さすがですね」

「コマ。おだてないでよ」


 美音は気恥ずかしそうに手袋をしたまま、マスクを掻いた。


 その手に乗る作品を見た璃瑚が触発されて、見よう見まねで捏ね上げるとゆっくりと手を開いた。


 ぱぁっと淡い光を放ち、銀色の燐光が舞い上がる。幻想的な光の中から出てきたのは、歪な形をした球体だった。鉛色を残した部分もあり、光沢も油汚れのような鈍い輝きだ。


「璃瑚、ウニでも作ったのか?」

「ち、違う……」

「う~ん。形はちょっと変だけど、鳥かな? ここが嘴で、ここが足で、それでここが翼」


 駒子が璃瑚の手のひらに乗る物体を見て、棘のように突起した部分を指差して言う。


 それには、璃瑚も力強く頷いて喜んでいる様子だった。頬を赤らめながら、駒子の笑顔に合わせてぎこちない笑みを浮かべる。


「まだまだ、想像力が足りなかったかな。イメージが曖昧だとその曖昧が形になるの。それと、雑念も多い」


 美音が優しく補足する。


 士依は妹が他の人楽しんでいる様子に、心打たれながら手で捏ね回している気吹鉱の形を思い浮かべる。ずっと視界に入っている〔ラビット・キャップ〕の顔を見て、イメージが頭に浮かび、それが手のひらに伝わる。羽のような耳、白い毛並み、小さくて、くりっとした瞳を持つ動物。


 最後に士依がゆっくりと手を開くと、眩い燐光が飛翔した。それは、美音や璃瑚とは比べ物にならない強い光で、思わず目を細めてしまう。


「————なんだ!?」

「…………っ!」


 光りを諸共しない美音の息を飲む声。


 士依の手のひらで何かが動く感触が伝わる。手の上で熱を帯びてうねり、針が刺さったような痛みが走る。生き物が手のひらで飛び跳ねているような感触に、不思議な懐かしさがよみがえる。


 燐光が晴れると、彼の手には一羽の兎が耳を立てて、直立していた。その体は綺麗なダイヤモンドのように輝きを宿し、光沢は毛並みのように波打っている。

 

「な、何、これ!? お兄ちゃん、何したの?」

「何したって、捏ねて、兎を思い浮かべたらこうなっただけだけど……」

「こんなの、整備班の先輩方でも作れる人いないですよ」


 駒子はじっと顔を寄せて、士依の作り上げて兎をまじまじと観察した。


 すると、美音が自身の作った小鳥を璃瑚の手のひらに乗せると、士依の兎をつまんで様々な角度から観察する。


 表情こそわからないが、士依と璃瑚には無言で観察する美音が職人に見えて仕方ない。マスクも相まって、さらにそう連想させられる。


「…………なるほど。なかなかの生命エネルギーを持っているようね。創造性も豊かだ」

「はぁ……。ありがとうございます」


 士依はまだ眺めつづける美音の言葉に曖昧な返答をしながら、助けを求めるようにして璃瑚を見た。


 璃瑚は渡された小鳥をもらえたと思って同じく眺めては、幸せそうな顔をしている。


 駒子はというと、視線が合うなり困ったような笑みを浮かべる。彼女も士依の作りだしたものに驚きを隠せないようで、戸惑っている風でもあった。


 すると、美音はひとしきり眺め終わると一度駒子に兎を渡した。駒子もじっくりと観察しだす。


「君は〔ラビット・キャップ〕を操縦したのよね?」

「操縦、と言いますか、ただ操縦桿を握って、がむしゃらに動かしただけです……」

「そうか……。やはり、君の感性はおもしろい。ねぇ? ここに残って、働く気はない?」


 その誘いに、士依も璃瑚も度肝を抜かれて言葉を失った。


「知ってると思うけど、〔ラビット・キャップ〕は気難しい機体なの。君みたいなのが好みだから、パイロットとして協力をお願いしたいの。もちろん、話はあたしから通しておくから――――」

「すみません。俺は、軍隊に興味ありませんから……」


 鷹揚に語る美音に、士依は言いにくそうに断る。


 璃瑚も心配そうに兄の苦々しい表情を見て、美音と駒子を見比べる。


「いくらなんでも無茶苦茶ですよ、班長。渡瀬くんも、気にしなくていいから」


 駒子がフォローするように、士依と璃瑚に微笑みかける。しかし、彼女も残念そうな色を見せており、内心パイロットとして残ってくれないかな、と視線が訴えかけてくる。


 士依は弱弱しく頷いて、改めて美音を見た。


 彼女は残念とばかりに肩を竦める。


「そうね。あたしだって、鬼じゃない。無理強いも嫌いだし。けどね、君には才能があるって覚えておいて」

「…………はい」


 士依には才能と呼べるものがなかったから、素直に彼女の賛辞は喜ばしいものだった。それでも、やはり軍隊の元で働くというのは、納得のいかない気持ちが沸き立つ。


 米軍人にしろ、この〔ハヤトマル〕の軍人にしろ、人を巻き込んで戦闘を仕掛けてくるような人たちを一緒なのは、息苦しいものだと感じられて、怖いと思う。


 そして、特に不安そうな璃瑚の表情が彼の決意を固める要因となっていた。


 気まずい空気が流れる中、駒子が気を利かせてわざと大きな声を出した。


「あっ! 二人とも、ヘリの時間もあるからこれくらいにしよっか。班長も、いいですよね?」

「ん? もうそんな時間か……。引き留めてごめんね。縁があったら、また」


 美音は駒子に一度視線を向けると、士依と璃瑚に軽く頭を下げた。


「そうですね。俺も、荒島さんのような面白い人は好きですから」

「そりゃどうも」


 美音がわざとらしく手を広げて、重そうな頭を少し傾けた。


 士依は愛想笑いを浮かべてお辞儀をすると、手袋を美音に差し出した。


 しかし、璃瑚は手にしているもの、小鳥の細工を名残惜しそうに見つめている。どうやら、気に入ったようだ。


 仕方なしに、士依は美音に尋ねる。


「すみません。これって、もらえませんか?」

「ん? ああ……、ごめんね。気吹鉱はあげられないの。これも一応、大切な資材だから」

「でも、形になってますよ?」

「精錬されたものは、マシーン・ボディに使いまわしがきくの。ちょっと、もったいないけど君のも使わせてもらうわ」


 そういって、美音は士依の作り出した兎を握りつぶして、その手を開いて見せる。そこには、兎の形などなく何の変哲もない塊となった気吹鉱があった。


 璃瑚はその様子を見て、ますます名残惜しそうな瞳をし、渋々といった様子で不出来な自分のと美音が精練した小鳥を渡して、手袋を外す。


「一緒に働いてくれたら、あげてもいいけど?」

「班長っ」


 美音の意地らしい言葉に、駒子がぴしゃりと叱りつける。


 士依はそれだけ、彼女たちが自分の才能を必要としているのだと実感させられる。優越感を覚えながらも、横で首を横に振る妹を見てしまってはそんな気持ちも吹き飛んでしまう。


 士依のすべきことはまず、お世話になれそうな親戚を探し出すことだ。そうしなければ、璃瑚も彼も将来の不安が膨らんで、避難生活が終わってしまったら、行くあてもなく共倒れになりかねない。


 そう考えたとき、士依は変に頑固にならずに美音の働かないか、という提案がとても魅力的であったと後悔の念が湧いてくる。


「ありがとう、ございました…………」


 璃瑚が手袋を渡して、ぎこちなくお辞儀をする。


「それでは、送ってまいります」

「ええ、よろしく」


 駒子と美音が軽く挨拶をする。


 それから、士依と璃瑚は駒子の背中を追うように歩き出す。


 士依はなんとなしに振り返ってみると、美音がまだ不気味に見つめていた。おそらく不気味という感触は溶接用防護マスクのせいだろうが、じっと見つめられると背筋が寒くなる。それでも、名残惜しそうに見えたのは、短い時間の中で見えた彼女の人柄からだろう。


 向き直った士依の足取りは自然と早くなっていた。この場から、一刻も早く立ち去りたいとばかりに。


                    4


〔ハヤトマル〕甲板では、輸送ヘリが待機していた。エンジンはかかっておらず、さざ波と潮風の音がよく通っている。同時に、風は容赦なく吹き付けて待っている人たちのバランスを奪おうとする。


 輸送へりのドアの前で、艦長である草薙大輔と研究員の杜屋研隆、そして、研隆の妹である千穂が潮風に耐えていた。


「おっと、帽子が飛びそうだな……」


 大輔はそう言いながら、制帽を押さえて潮風の流れを肌で感じた。


 千穂も長い髪を押さえながら、緊張で高鳴る鼓動と乾く喉に気持ちが落ち着かない。長袖のタートルネックに、カーゴパンツ、厚手の皮手袋と半長靴という露出度を極端に抑えた服装だ。その背中には小さなザックがあった。


 研隆の険しい顔を盗み見て、艦橋のドアから出てくる三つの影を見つけて、視線をそちらに集中する。


 揺れる甲板を歩いてくるのは、一人は顔見知りの篠井駒子だ。そして、その後ろをついてくる学ランの少年とセーラー服の少女。


 千穂は二人の名前を思い出しながら、切れた下唇が目立っていないか心配になった。


 セーラー服の少女、渡瀬璃瑚は靡くスカートを押さえながら、近づいてくる。その隣りで学ランの少年、渡瀬士依が彼女を支えるようにして歩いていた。


「篠井二等。現時刻にて、重要参考人二人を送り届けました」


 駒子が帽子を取って、セミロングの髪をなびかせながら敬礼する。


「ご苦労だった。下がっていい」

「ハッ」


 大輔も敬礼を返し、解散命令を出した。


 駒子は腹の底から声を出して返答すると、帽子を被りながら、士依と璃瑚の横間を通り過ぎていく。その時、彼女がウィンクをしたのを千穂は見た。


 士依が軽く会釈すると、璃瑚の方も遅れて会釈をした。


 そして、二人が改めて視線を千穂たちに向けて一歩二歩と近づく。


「…………っ」


 千穂は二人の姿が近づくにつれて、さらに胸が苦しくなる。まさか、〔ラビット・キャップ〕ですなどとは言えなし、初対面も同然の二人になんと説明していいのかわからず、自然と顔がこわばる。


 その様子を士依は不審に思ったのか、軽く肩を上下させると大輔たちの前で立ち止まる。


「お世話になりました」


 士依は慇懃に頭を大輔たちに下げて、真剣な眼差しを向ける。


 彼の気持ちを考えれば、争いごとに巻き込まれて文句の一つでも吐き捨てたいはずだ。しかし、ここでの待遇を悪くなかったのだろう。そのことについては、本当に感謝している風だ。


 続いて、大輔が制帽を取って頭を上げて言う。


「いや、こちらも一般市民である二人を巻き込んだことには、深く反省している。許してほしい」

「…………」


 璃瑚が大輔の謝罪を聞いて、一層顔つきが険しくなるも何も言い返せないと視線を背ける。


 その代わりとばかりに士依が言う。


「とりあえず、頭を上げてください。返してくれるなら、俺たちも何も言いません」


 その言葉に大輔はやっと頭を上げて、制帽を被りなおした。


 そのやり取りを見ていた研隆はイラついた顔を浮かべて、茶番だとばかりに首を横に振る。


 千穂からしても確かに、大輔の対応は二人に対して卑怯だと思う節がある。自分から謝れば、二人も何も言えなくなってしまうのだから。


「ありがたい。それで、二、三、二人に注意したいことがある」


 大輔が本題を切り出して、自然と向かい合う渡瀬兄妹の顔も強張る。


 すると、研隆が棘のある言い方で話を切り出した。


「お前たちは、まずここにあるマシーン・ボディについて絶対にしゃべるな。できなければ、今度は牢獄入りだ」

 

 璃瑚がびくりと肩を揺らして、兄である士依の後ろへと後退る。その気持ちは、千穂には痛いほどわかり、同情の視線を向ける。


 大輔もやれやれといった風な顔して、帽子を押さえながら言う。


「それくらい重要なものを見てしまったと理解してくれ」

「話す気は、ありません。だけど、偉そうに言うのは違うんじゃないか?」

「なんだと?」


 士依の声に研隆は眉をひそめて、睨み付ける。


 千穂は自分のことではないと知りつつ、その眼光におびえてしまう。


「よせっ。彼の言うとおりだ」

「————チッ」


 舌打ちする研隆と目があって、千穂は視線を俯かせた。


 揺れる甲板。吹き荒ぶ潮風が頬を舐めるように当たっていく。


「失礼。それから、君たちに頼みたいことがある」

「頼みたいこと、ですか?」


 千穂は一瞬、士依が自分に視線を向けたことに気付いて、半歩足を引いてしまった。特に彼は怒っている風ではないのだが、どことなく目を合わせるのは緊張する。


 璃瑚の不審そうな視線もあって、さらに顔を上げるのが困難になる。


 そして、大輔が続ける。


「ああ。ここにいる彼女を一日だけ、預かってはくれないか?」

「預かるって、この人を!?」


 士依の上擦った声に、千穂は顔を赤らめつつ上目づかいに様子を窺う。


 渡瀬兄妹は信じられないといった感じに目を見開いていた。当然だ。二人とも避難民で、自分のことで精一杯だというのに、厄介者が増えるのは避けたいところだろう。


 研隆が語気を強めて言う。


「これは世間知らずでな。この機会に、今の政東(せいとう)の現状を知ってもらう」

「…………。彼女も、軍人、ですか?」


 その言葉には、明らかな嫌悪が含まれていた。


 千穂はしゅんとなって、また視線を足元に落としてしまう。〔ラビット・キャップ〕の時とは違い、今の彼はやはり自分を厄介なものと認識しているようだった。


「まぁ、そんなものだ。そういうわけで、あまり陸のことを知らないんだ」

「そう……」


 士依が言って、すっと千穂の顔を覗き込む。


「きゃいっ!」


 急に移り込んだ士依の顔に、千穂は仰け反りながら爆発しそうな心臓を抑えるように胸を抑える。


「ああ、すみません。ずっと下向いてるから、気になって」

「あ、ええ、ああ……」

「お兄ちゃん……」


 璃瑚が不満そうな視線を失礼な兄に向けていた。


 二人のやりとりをこうして間近に見ると研隆と千穂とは違う兄妹関係だと強く思い知らされる。互いに許しあえる仲、といったところか。千穂には望めない関係性に見えて、少しばかり羨ましくもあった。


「おいっ! 手出しはするなよ。大事な素材だからな」

「素材って――――」


 士依の絶句する声に、千穂は慌てて割って入る。ここままだと、水掛け論になりかねない、と踏んだのだ。


「あ、あのっ!」


 すると、その場にいた全員が千穂に注目する。


 それには彼女の緊張も一気に伸びあがって、顔を真っ赤にする。だが、戦慄く口をどうにか動かす。


「ふ、不束者ですが、よよ、よろしくお願いいたしますっ!!」


 千穂は深々と首を垂れて、そう言い切る。


 心のうちでは何を言ってるんだろう、と客観的な自分がいる。面倒な女だと思われているに違いない。羞恥心と後悔の念が渦巻く中、頭上から研隆の舌打ちがした。


 続いて、優しい士依の声音が耳を打つ。


「まぁ、なんというか…………。なんだか、事情があるみたいですね。頭を上げてください」


 千穂は恐る恐る頭を上げて、全員の様子を窺うように胸の前で手を組んだ。


 大輔が呆れた風に言う。


「迎えは明日の正午だ。それまでは、彼女、杜屋千穂のことをよろしく頼む」

「…………」


 帽子の位置を直す大輔に、璃瑚がキッと鋭い視線の向ける。


 士依はしかし、真剣な顔つきで二人の男を見比べて言う。


「それは、彼女が決めることじゃないんですか? 普通、男と一緒に過ごさせようだなんて、このご時世危なっかしくできないでしょう?」


 その発言に大輔はびくりと肩を跳ね上げて、帽子のつばを下げる。


 千穂も正直、妹随伴とはいえ異性と過ごすのは抵抗がある。同い年の異性との会話もあまりなく、一夜を共にするのも、むろん初めてだ。


 そうした不安を少女の方はわかっているのだろう。厳しい顔つきで、大輔と研隆を睨んでいる。


 それに対して、研隆が鼻で笑った。


「お前に、これをどうこうする度胸はないだろう」


 研隆の乱暴な手が千穂の頭をがっしり掴み、左右に振った。視界が揺れ、足元までふらつく。


「よせっ、杜屋博士っ」

「————杜屋? あんた、それでも兄貴かよ!」


 大輔の制止を聞いた士依が怒りのこもった声を出した。


 すると、研隆の手が千穂から離れて、彼女はどうにかふらつく頭を振って意識をしゃっきりさせる。


「お前には関係ないな。とっとと連れてけっ!」

「あ――――っ」


 ドンッと背中を押された千穂は士依にもたれ掛るようにして、ぶつかった。


 士依はしっかりと千穂の体を受け止め、踏ん張ってくれた。どの力強い腕や胸板が、千穂には新鮮で妙な恥ずかしさを沸き立たせる。


「最低だな。大丈夫か?」

「えぅ、は、はい……」

「大丈夫?」


 士依から離れる千穂は横間から心配する璃瑚の声に安心感を覚える。


 振り返ると、研隆は鬼の形相で立ち去って行った。うまくいかないことがあると、怒りを露骨に出すのが杜屋研隆の短所と言えよう。そして、その矛先が常に千穂に暴力という形で現れる。


 千穂は内心恐怖でその場にへたり込んでしまいそうだったが、士依の力強い手が自分の手を握っていることに気付いてはっと顔を上げる。


「自己紹介が、まだだったよな? 俺は渡瀬士依。で、こっちが——」

「璃瑚。渡瀬璃瑚です。よろしく」


 璃瑚が硬い表情であいさつする。それから士依の手と千穂の手を離させると露骨に不満な視線を彼にいる。嫉妬ではなく、不作法な兄を戒める視線だ。


 そんな妹に士依の方もばつの悪い笑みを浮かべる。


 自己紹介されても、千穂はすでに彼らのことは知っている。初対面、といった雰囲気に罪悪感を覚える。 


 それでも、千穂はどこか懐かしさを感じて自然と言葉を紡いでいた。


「杜屋千穂、です。よろしくです」


 互いの挨拶を見終えた大輔が、手を叩いて言う、


「ほら、俺も忙しいんだ。さっさと乗った乗った」

「俺たちの荷物は、あるんですよね?」

「あるよ。デカイザックと小さいのが。中身だって、身元確認以外で触れちゃいない」

「…………」

「何も取ってないから、妹さん」


 大輔の催促に後押しされて、璃瑚が乗り込み、次に士依、最後に千穂が乗り込んだ。


 大輔によってドアが閉められると、ヘリはいよいよエンジンを始動して、騒音をまき散らする。乗り込んだ三人は防音用のヘッドセットをつけて、騒音に備えるとドアの向こうで離れていく大輔の後ろ姿を見送った。


 それから、千穂の向かいに座る士依が愛嬌のある笑みを浮かべて言う。


「なんつーか、勢いでこうなっちゃったけど、一日よろしくな」


 ヘッドセットを介して聞こえる士依の声に、千穂は一瞬心臓が跳ね上がって、小さく頷くことしかできなかった。


「お兄ちゃん、女の子と一緒だからってカッコつけすぎ」

「なんだよ、別にいいだろう?」


 そんな兄妹の会話を遮るようにして、ヘリは飛び立っていった。




 研隆は遠ざかっていくヘリを眺めながら、つぶやく。


「戦う理由を知るために送り出したとはいえ、所詮は部品の一つでしかないんだ。せいぜい、あの男を引き込むくらいの役には立てよ」


 潮風で靡く白衣が、羽ばたきのような音を立てる。


 そして、研隆は潮風に押されるようにして甲板を歩き出した。海鳥の声が遠くから聞こえた。

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