↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
PR

水面の月

作者: 大井 禾月
掲載日:2026/10/11

失ってから気づく

 ウサギは池に映る自分の姿を見ていた。

 水面にはさざ波ひとつなく、鏡のように澄みきっていた。

 月宮では、昨日も今日も、そして明日も、何不自由なく暮らせた。

 ウサギにとって、それは耐え難い退屈だった。

 嗚呼、何か面白い天変地異でも起きてくれやしないものか

 ウサギは独りごちた。

 しかし、答える者はいない。

 水面に映るもう一羽のウサギも、ただ黙ってこちらを見つめていた。

 退屈をしのぐためか、ウサギはよく池に映るもう一羽のウサギに会いに来ていた。

 いつもしばらく眺めては、馬鹿馬鹿しくなって帰っていく。

 しかし、今日は帰らなかった。

 水面に映るウサギの背後に、見慣れぬ風景が広がっていたのだ。

 退屈な日々に、突如として現れた新天地。

 ウサギはそこへ飛び込みたくてたまらなかった。

 決して池の中に入ってはならぬ

 以前、ツクヨミさまに言われた言葉を思い出す。

 ウサギはそっと水面に手を伸ばし、いったん引っ込めた。

 しばし考えた。

 が、好奇心が理性を押しのけ、結局そのまま池に入ってしまった。

 ははーん、ツクヨミさまはこれを隠したかったのだな

 初めて見る夜空と草木、初めて嗅ぐ匂い。

何もかもがウサギにとって新鮮だった。

 そして、静かに吹く夜風が、ウサギの白い毛の一本一本を撫でてくれるようで心地よかった。

 はじめは周囲を冷静に観察していたウサギだったが、やがて湧き上がる衝動を抑えられなくなった。

 考えるより先に身体が動き、森の奥へ、奥へと駆け出していた。

 新しい木、新しい草、新しい花、新しい匂い。

 ウサギは呼吸するのも忘れ、新しい体験を求めて走り続けた。

 やがてウサギは走り疲れ、早まった呼吸と鼓動を落ち着かせながら、大きな樹木の下で休んだ。

ふと目をやると、低木に小さな野苺が実っていた。

 恐る恐る触り、手に取り、匂いを嗅ぎ、じっくりと観察する。

 そして、そっと口に入れた。

 初めて食べる野苺は、とても美味しかった。

 ウサギは夢中になって次々と野苺を食べた。

 やがて満腹になると、大きな樹木の根元に身を横たえた。

 風に揺れる木々の音が心地よかった。

 何もかもが刺激的で、月宮では決して味わうことのできない体験だった。

 ウサギは、ひどく幸せだった。

 休んでいたウサギの鼻に、森や野苺とは違う、何とも言えない嫌な匂いが漂ってきた。

 あまりの酷さに思わず鼻をつまむ。

 あたりを見回すと、茶色の塊が横たわっていた。近づいてみると、それは鹿だった。

 だが、おかしい。

 鹿の腹はまるで木苺を塗り込んだように赤く染まり、腹からは何か赤いものがはみ出していた。

 ウサギは恐る恐る鹿に話しかける。

 どうしたの?

 鹿は、ゆっくり答える。

 少しドジを踏んでね、狼に襲われたのさ。

 なんで狼に襲われるの?

 狼は私たちが草や樹の実を食べるように私たちを食べるんだ。

 樹の実を食べるように私たちを食べる。

 ウサギはさっき食べた木苺を思い出した。

 食べられたらどうなるの?

 月宮で暮らしていたウサギには、その先に何が起こるのか想像もつかなかった。

 鹿はウサギを笑うことなく答えた。

 食べられたら死ぬんだ

 死んだらどうなるの?

 さあ?私にもわからないよ。

 ウサギはしばし黙った。

 鹿の呼吸が先刻にも増して弱々しく、苦しそうになっていた。

 もうウサギには純粋な好奇心はなかった。

 しばらくして鹿がまた弱々しく語りだした。

 死んだ命は、また新しい命に生まれ変わる。そんなことを言う人もいるよ。

 ウサギの顔が少し明るくなったが次の鹿の言葉でまた曇った。

 けれど、死は命の終わりで虚無だと言う人もいる。

 死は終わり。月宮の永遠には絶対にないものだった。だが、ウサギは心躍らなかった。

 じゃあ、僕もいずれ食べられて死ぬの?

 不安そうに聞くウサギに鹿は静かに語る。

 仕方ないことだ。私も狼も生きていくために食べなくてはならない。それに、

 ウサギは鹿の次の言葉を待つが、鹿はそれっきり黙ってしまった。

 どうしたの?それに、何なのさ。

 ウサギは鹿の体を揺さぶるが、鹿は力なく揺さぶられるだけだった。そして、ウサギは気づく。

 鹿の体が冷たい。

 死を知らなかったウサギにも、直感的にわかった。

 これが、死ぬということなのだ。

 静寂の中、強い風が木々を揺らした。

 カサカサ。

 先ほどまでひどく心地よかったその音が、今のウサギには恐ろしく感じられた。

 あの茂みの中に、狼が潜んでいるかもしれない。

 ウサギは恐怖のあまり駆け出した。

 動かなくなった鹿には、目もくれなかった。

 呼吸が苦しく、鼓動が心を刺す。

 しばらく走ると少し開けた場所にある池にたどり着いた。

 見上げるとまんまるのお月さまが夜空を照らしていた。

 ウサギは初めて月を見た。それなのに夜空に浮かぶ遠い月が月宮だと分かった。

 ウサギは月宮への帰り道を知らない。

 ウサギは池に映る月を見ていた。

 水面に映った月を触ろうと手を伸ばすが、ただ、水面が揺らぎやがて静かになるだけだった。

 再び水面に映った月を見てウサギは思い知る。

 自分はもう月に戻れぬのだと。



夜空に浮かぶ月を眺めていたとき、ふと水面に映る月に手を伸ばすウサギの姿が思い浮かびました。


その情景から生まれたのが、この『水面の月』です。


この物語から何を感じるかは、読んでくださった皆さまに委ねたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。