LINK 短編
俺には前世の記憶がある。
冗談じゃない。本当だ。以前の俺は科学者だった。
白衣を着て、夜遅くまで研究室に残り、顕微鏡を覗いていた。数式も、薬品の扱いも、大学で習うよりずっと前から知っている。
最後の記憶はあやふやだが、おかげで今の人生は超イージーだった。
ただ、妙なこともある。
俺は銃の分解方法を知っている。骨折した人間の応急処置もできる。
初めて乗ったはずの大型バイクを、何年も乗り回してきたように扱える。
初めて会った女の好きな飲み物を、本人から聞くより先に言い当てたことさえあった。
前世の俺は、ずいぶん多才な科学者だったらしい。
科学者で、医者で、兵士で、格闘家。
まるでアメコミのヒーローだ。
「おはよう、りな」
ベッドの隣で、金髪の女が目を覚ました。
昨夜、クラブで知り合った女だ。名前はりな。漢字までは聞いていない。
「……ここ、淳君の家?」
「そう。朝飯、食うだろ」
俺は先にベッドを出た。
鮭をグリルへ入れ、味噌汁を温める。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、二つ並べたコップの片方だけに注いだ。
りなはオレンジジュースが好きだ。
昨夜、本人から聞いたのだろう。
そう思うのに、その会話がどうしても思い出せなかった。
「あれ、これ、私の好きなやつ」
「言ってただろ」
「言ったっけ?」
寝癖のついた髪を押さえながら、里奈が首を傾げる。
「酔っ払いは、自分の話も覚えてないんだな」
「淳君が人のこと覚えすぎなんじゃない?」
そうかもしれない。
俺は、人の好みをよく覚えている。誕生日。口癖。利き手。好きな食べ物。別れ際の表情。
忘れても困らないようなことほど、頭の奥に焼きついて離れない。
そのくせ、誰かと長く付き合おうとは思えなかった。
どうせ、いつかはいなくなる。誰が、と聞かれても分からない。
ただ昔から、そう思っていた。
「悪いけど、俺、付き合うつもりはないから」
味噌汁を飲みながら告げると、りなは頬を膨らませた。
「朝ご飯を作っておいて、それ言う?」
「何も出さずに帰すよりいいだろ」
「優しいのか最低なのか分かんない」
りなの言葉を背中で聞きながら、俺はテレビをつけた。
『本日未明、東京都内の研究施設で火災が発生し――』
画面に、焼け落ちた建物が映る。
『研究員の神倉香澄さん、二十七歳の死亡が確認されました』
箸が止まった。
神倉香澄。知らない名前だった。
それなのに、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「どうしたの?」
「……いや」
俺は無意識に、ズボンのポケットへ手を入れていた。
中にあるのは、バイクの鍵と、くしゃくしゃになったレシートだけだった。
◆
大学へ向かう途中、俺は何度も背後を振り返った。
誰かに見られている気がした。
だが通学路にいるのは、スマートフォンを眺める学生と、駅へ急ぐ会社員だけだ。
「よう、淳。今日は遅かったな」
教室に入ると、ゼミ仲間の連が机に突っ伏していた。
「ちょっと遊んでてな」
「また女か。天下の淳様は人生が楽でいいねえ」
「お前だって、やればできるだろ」
「それをできる奴が言うと嫌味なんだよ」
連が丸めたプリントを投げてくる。
俺は振り返ることなく、片手で受け止めた。
「……お前、後ろにも目があんの?」
「気配で分かる」
「どこの達人だよ」
笑って返そうとしたとき、窓ガラスに男の姿が映った。
金髪を後ろへ撫でつけ、黒いスーツを着た男。
サングラス越しに、こちらを見上げている。
口元には煙草。
朝に見た火災現場の映像が、頭をよぎった。
俺が立ち上がったときには、男の姿は消えていた。
◆
「I see――」
大学からの帰り道、俺は昔から知っているような、知らない曲を口ずさんでいた。
どこで聞いたのかは思い出せない。
だが、妙に懐かしい。
「ずいぶん隙だらけだな」
背後から声をかけられた。
振り返る。昼間、大学の外にいた男だった。
金髪のオールバック。黒いスーツ。磨き上げられた革靴。サングラスの下にある顔立ちは、日本人には見えない。
男は煙草を口から離し、ゆっくりと煙を吐き出した。
「あんたしかいないだろ、永田淳」
「なぜ俺の名前を知っている?」
「どうした。覚えてないのか?」
「何をだ」
「前の記憶を」
心臓が強く鳴った。
「前世のことを言っているのか?」
「前世?」
男は鼻で笑った。
「ずいぶん都合のいい解釈をしてるんだな」
「何が言いたい」
「ごまかすなよ、継承者」
「継承者?」
聞き覚えのない言葉だった。
だが、その響きだけが頭の奥に引っかかった。
「俺は、そんなものじゃない」
「前の記憶を持ってるのに、継承そのものは覚えてないのか」
男は顎に手を当て、わずかに首を傾げた。
「まあいい。どこまで覚えていようと関係ない」
「何の話だ」
「必要な科学者は今朝殺した」
男の口から出た言葉を理解するまでに、数秒かかった。
今朝、研究施設の火災。神倉香澄。
「お前が……あの火事を?」
「残るのは最後の継承者である、お前だけだ」
男はスーツの内側へ手を入れた。
「お前が死ねば、すべて終わる」
取り出されたのは拳銃だった。
「冗談きついぜ。ドッキリなら、そう言ってくれよ」
「悪いが、死んでくれ」
銃口を向けられた瞬間、現在の景色へ別の光景が重なった。
ここではない戦場。火薬の臭い。耳をつんざく銃声。
記憶の中でも、俺は同じように銃を向けられていた。
『お前が死ねば、この戦争は終わる』
『悪いが、引き継がなければならないのだよ』
『そうか。なら、死ね』
場面が切り替わる。
今度は、記憶の中の俺が銃を向ける側だった。
『戦争を終わらせる! 突撃――!』
銃弾が飛び交う戦場へ、仲間とともに駆け出す。
破裂音が鳴り響いた。
迫りくる鉛の塊が脳天を打ち抜く寸前、俺は顔をそらした。
弾丸が額の端をかすめ、熱い血が流れる。
その痛みとともに戦場が消え、俺の意識は現在へ引き戻された。
目の前には、拳銃を構えた男がいる。
「やはり覚えてるじゃねえか」
額を熱いものが流れていた。
撃たれた。いや、直前で避けた。
考えるより先に、身体が動いていた。
男が二発目を撃つ。
俺は横の路地へ飛び込み、地面を転がった。
銃弾が背後の壁を砕く。
「待ちやがれ!」
革靴の音が近づいてくる。
逃げ場はない。それなのに、俺には次に何をすればよいのか分かっていた。
壁へ足をかける。配管を掴み、身体を引き上げる。
男が路地を覗き込んだとき、そこに俺の姿はなかった。
「ちっ、逃げたか」
俺は建物の上から、その姿を見下ろしていた。
「完成品を逃がすわけにはいかねえ」
男が走り去る。
緊張が切れた瞬間、俺は屋上へ座り込んだ。
額から血が流れ、今になって鋭い痛みが襲ってきた。
「痛ってえ……」
自分でも信じられない。
俺は壁を駆け上がり、銃弾を避けた。
習ったこともない動きだった。
「継承者って、何なんだよ」
俺は科学者だったはずだ。なのに戦場を知っている。
銃を知っている。人を殺す動きまで、身体が覚えている。
「俺は……何者なんだ」
◆
家へ戻った俺は、ソファーへ倒れ込んだ。
警察に連絡するべきか。
だが、前世の記憶を持つ男に拳銃で襲われましたなどと説明して、信じてもらえるはずがない。
つけっぱなしにしたテレビから、朝と同じニュースが流れていた。
『研究施設の火災は、煙草の不始末が原因と見られ――』
煙草。
あの男の顔が浮かぶ。
『死亡した神倉香澄さんは――』
「香澄……」
名前を口にした瞬間、頭の奥に沈んでいた光景が浮かび上がった。
白い研究室。鳴り続ける警報。
一枚のガラスを挟んだ向こう側に、白衣姿の香澄が立っている。
『あなたは私たちの希望よ』
『外では戦いが始まってる。もう時間がない』
『どうして俺だけなんだ。香澄は俺を忘れるのかよ』
『仕方がないの。完成した装置は一つしか残っていない』
『俺だけに全部背負えっていうのか』
『あなたしか耐えられないの』
香澄の手が俺の頬へ触れる。
冷たい手だった。
『私たちは、誰にも知られない歴史になる』
『このまま世界がリセットされれば、私たちがここにいたことさえ消えてしまう』
『もう失われるのは嫌』
『必ず覚えていて』
香澄の指が、俺の胸元へ触れる。
『カギはいつもポケットにある』
記憶の中で、俺を覆うポッドが閉じていく。
ガラスが、香澄と俺を隔てる。
もう触れられない。
次に会えるかも分からない。
それでも、俺は覚えていなければならなかった。
「何なんだよ、今の記憶……」
俺はポケットをまさぐった。
鍵はない。
出てきたのは、ポケットティッシュと、くしゃくしゃのレシートだけだった。
「カギはポケットにある……」
ポケットティッシュを裏返す。
広告欄に、小さく会社名が印刷されていた。
ブレイン社。初めて見る名前だった。
だが俺は、その場所を知っているような気がした。
◆
ブレイン社の跡地は、廃墟になっていた。
錆びついた立入禁止の看板。敷地を囲む高い柵。
門には鎖も南京錠もなく、片方の扉がわずかに開いている。
まるで、俺が来るのを待っていたようだった。
風が吹く。
枯れ草が擦れ、金網が低く軋んだ。それ以外に音はない。
地面に転がっていた鉄パイプを拾い、俺は敷地内へ入った。
研究所の窓は黒く汚れ、外壁には蔦が絡みついていた。
入口の自動扉は砕けている。
スマートフォンのライトを頼りに、暗い廊下を進む。
湿った空気。埃と黴、わずかに残る薬品の臭い。
初めて来た場所のはずなのに、懐かしさが胸の奥で渦巻いていた。
「何の場所だったんだ、ここは」
受付には黄ばんだ書類が散乱している。
床に落ちた白衣。倒れた椅子。
廊下の奥へ続く、黒ずんだ足跡。
人々が、ある瞬間にすべてを放り出して逃げたような跡だった。
どの部屋も荒らされ、資料は残っていなかった。
ただ一つ、施錠された部屋があった。
扉の横には生体認証装置が設置されている。
電気が通っているようには見えない。
それでも俺は、無意識に手を置いていた。
短い電子音が鳴る。
『生体情報を確認します』
「動くのかよ……」
『確認完了。ようこそ、永田淳様』
扉が開いた。
「何で俺が登録されてるんだ」
部屋の中には、一台のパソコンと、巨大なカプセル状の装置が置かれていた。
俺が入った瞬間、天井の照明が点灯する。
パソコンの前に立つと、また視界が揺れた。
荒れ果てる前の研究室。
同じ端末の前で、俺と香澄が並んでいる。
『ここのパスワードは、一九八九〇二〇三』
『何だ、その数字』
『所長の誕生日』
『セキュリティーがずさんすぎないか』
『だから潰れたんでしょ』
『なるほど。一理ある』
『カギは覚えてる?』
『ポケットだろ』
『上出来』
記憶が途切れたとき、俺の指はすでに数字を入力し終えていた。
画面に、古い資料が表示される。
ブレイン・リンク・プロジェクト。
人間の記憶を保存し、別の人間へ転送する研究。
しかし、継承する記憶が増えるほど、完全に定着する確率は低下する。
記憶が欠落し、人格が混ざり、使命だけが残る場合もある。
「使命……」
画面を見つめていると、過去の声が蘇った。
『この装置を守れ』
『人類の希望だ』
『アムネシアが来る。奴らは継承を終わらせるつもりだ』
『ここは俺たちが守る』
『また次の世界で会おう』
俺は、記憶を託された。
だが、なぜ託す必要があった。
荒廃した世界。近未来の都市。戦場。病院。研究所。
同じ地球とは思えない光景が、俺の中にいくつも存在している。
「お目覚めかな、継承者」
背後から声がした。
振り返る。あの男が、部屋の隅に置かれたソファーへ座っていた。
「なぜここに」
男はスマートフォンを掲げた。
「バイクに発信器をつけた」
「いつの間に……」
「お前はまだ、継承が完了していない。気づけなくて当然だ」
男は立ち上がり、煙草へ火をつけた。
「俺の名前はビーン」
「お前は何を知っている?」
「何も」
「何?」
「俺に残ってるのは、標的の顔と名前。それから、継承者を殺せという命令だけだ」
「それだけのために、香澄を殺したのか」
「それが俺に与えられた使命だからな」
「理由も知らずに?」
ビーンは答えなかった。
煙草を吸い込み、ゆっくりと煙を吐く。
「使命を失えば、俺には何も残らない」
その言葉だけが、わずかに掠れていた。
ビーンは煙草を床へ落とし、拳銃を取り出した。
「だから、お前を殺す」
「俺の使命は……」
ポケットへ手を入れる。
指先に、くしゃくしゃの紙が触れた。
取り出したのは、映画館のレシートだった。
作品名は『リセット』。
その瞬間、断片がつながった。
「この世界は、リセットされている」
「何?」
「誰かが世界の仕組みに気づくたび、すべてが消される」
「俺には関係ない」
「また全員消えるんだぞ」
「俺の使命は、お前を殺すことだ」
ビーンが拳銃を構える。
「理由なんて必要ない」
引き金が引かれる。
だが、銃声は鳴らなかった。
「くそっ、ジャムりやがった!」
俺は床を蹴った。
鉄パイプを振り抜く。
ビーンは左腕で受け止めたが、衝撃で拳銃が床を滑った。
この光景を知っている。
何度も見た。
何人もの人間が、同じ男と戦ってきた。
「いつもお前はそうだった」
「知ったような口を利くな!」
ビーンが拳を振るう。
俺はそれを外へ流し、懐へ踏み込んだ。
みぞおちへ肘を突き刺す。
「がはっ……!」
俺自身は格闘技など習っていない。
それでも身体は知っていた。
土埃の舞う道場。何千回も繰り返した踏み込み。
戦場で学んだ急所。病院で覚えた人体の構造。
ビーンもまた、継承された戦闘経験を使っていた。
ボクシングの拳。軍隊格闘術の踏み込み。関節を狙う組み技。
一つの技を使えば、相手はその対処法を知っている。
構えを変えれば、次の瞬間には見破られる。
俺たちの中で、何人もの人生がぶつかり合っていた。
「面白え」
ビーンが血の混じった唾を吐く。
「どっちの記憶が強いと思う?」
「数の問題じゃない」
俺は鉄パイプを捨てた。
「お前に負けた全員が、次はどうすればいいかを知っている」
ビーンの笑みが消えた。
奴は低く構える。
いくつもの技術を捨て、最も身体に馴染んだ軍隊格闘術へ戻った。
「今度こそ、本気で殺してやる」
床を蹴る音が響いた。ビーンの左肩が沈む。
この動きを、俺は知っている。
本気になればなるほど、こいつは右足で踏み込む直前に左肩を下げる。
顔を狙うように見せかけ、腹を打ち抜く。過去にビーンへ敗れた者たちが、その癖を俺へ残していた。
俺は退かなかった。
拳が放たれるより早く、こちらから懐へ入る。
「なにっ――」
右腕を外へ流す。空いた顎へ掌底を突き上げた。
ビーンの頭が跳ね上がる。
さらに腕を引き寄せ、こめかみへ肘を叩き込んだ。
「がっ……」
ビーンの身体から力が抜けた。
膝が折れ、そのまま床へ崩れ落ちる。
「本気になるほど、動きが単純になる」
返事はない。
ビーンは意識を失っていた。
倒れたビーンを見下ろした瞬間、新たな記憶が開いた。
◆
薄暗い会議室。長机を囲む、黒い制服の男女。
記憶の持ち主は、扉の隙間から会話を盗み聞いていた。
これはビーンの記憶ではない。
かつて敵組織へ潜入した、別の誰かの記憶だ。
『次の追跡者への継承準備は?』
『完了しています。戦闘経験、標的の顔と名前、抹殺命令。それ以外は削除しました』
『リセットやリンクの真実は?』
『継承させません。余計な情報を持たせれば、使命へ疑問を抱く可能性があります』
一人の女が資料を机へ置いた。
『今回、人類が真実へ到達するまでにかかった時間は?』
『前回より十二年短縮されています』
『さらに短くなったか』
『リンクによって過去の知識を引き継ぐほど、人類は早く世界の真実へ近づきます』
『つまり、継承者を残すほど、次の世界で人類が生きられる時間は減る』
『はい』
室内に沈黙が落ちた。
『継承を止めなければならない』
一人の男が言った。
『死者の記憶を残すために、次の世界の生者から未来を奪うわけにはいかない』
『だが、追跡者本人がそれを知れば、迷うかもしれない』
『だから思想は必要ない』
男は冷たく言い切った。
『ビーンに必要なのは、標的を殺す技術と命令だけだ』
『人類を守るために、人間である必要はない』
そこで記憶は途切れた。
◆
俺は現在の研究室へ引き戻された。
床に倒れたビーンを見る。こいつは何も知らなかった。
なぜ殺すのか。殺した先に何があるのか。
自分が人類を守るために作られたのか、それとも組織の道具にされたのか。
何一つ知らない。
それでも、命令だけを自分の使命だと信じて生きてきた。
だが、敵組織の主張は間違いではなかった。
継承を重ねれば、人類はより早く世界の真実へたどり着く。
そして世界は、より早く消される。
俺たちは死者を忘れないために、まだ生きている人間の未来を削っている。
その理解とともに、最後の記憶が蘇った。
◆
『この世界はリセットされている』
ブレイン社の研究室で、香澄が言った。
『人類が世界の正体を完全に理解した瞬間、世界そのものが削除される』
『時間が巻き戻るのか?』
『違う。同じ条件から、ほとんど同じ地球が再生成されるの』
『じゃあ、俺たちもまた生まれるのか』
『同じ歴史をたどればね。でも、真実に気づいてからリセットまでに生まれた人間や出来事は、次の世界には存在しない』
『だから、誰もリセットに気づけない』
『そういうこと』
香澄は、研究室の中央にあるポッドへ目を向けた。
『人類は世界を保存できなかった。だから、記憶を保存することにした』
『リンク装置……』
『装置を起動した年月日と時刻。その瞬間と同じ時間に、次の世界で生まれた子供へ記憶を転送する』
『誰に届くんだ』
『分からない。同じ時刻に生まれ、記憶へ耐えられる適性を持った誰か。どの国の子供かも、男か女かも選べない』
『全部思い出せるのか?』
『保証はないわ。知識だけが残るかもしれない。感情だけかもしれない。使命しか残らないこともある』
ビーンの顔が浮かぶ。
『それでも、記憶を受け継いだ身体は、本人が覚えていなくても手掛かりへ向かう』
『それが使命か』
『ええ』
『俺の使命は、次へ継承すること』
『正解よ』
◆
記憶が途切れ、俺は現在へ戻った。
目の前にあるのは、あのときと同じリンク装置だった。
すべてを思い出した。
俺が装置を使えば、記憶は次の世界へ残る。
だが、次の継承者は俺たちの知識を使い、さらに早く世界の真実へ近づくだろう。
今度の人類に残された時間は、さらに短くなる。
装置を使わなければいい。ここで終わらせればいい。
そうすれば、次の世界の人類は、少なくとも二一六八年まで何も知らずに生きられる。
子供が生まれる。恋をする。家族を作る。
世界が偽物だと知らないまま、一生を終えられる。
俺一人が記憶を捨てれば、それで済む。
アムネシアの選択は、間違っていない。
「忘れることが、救いなのか」
装置へ手を伸ばしかけ、止める。
そのとき、さらに古い記憶が浮かんだ。
◆
世界の終わりを待つ地下室。
若い男女が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。
記憶の中の腕に、小さな重みがあった。
呼吸のたびに上下する胸。俺の指を握る、小さな手。
『ねえ、この子はリセットされたら、どうなるの』
『次の世界には生まれない』
『そんなの嫌よ』
『分かっている、リリー』
『この子は生まれたのよ』
『ああ』
『泣いて、笑って、私たちの指を握った』
『ああ』
『世界が消えたら、それも全部なかったことになるの?』
男は答えられなかった。
赤ん坊が小さな声を漏らした。
『せめて、覚えておきましょう』
『何を?』
『この子のことを』
女は涙を流しながら、赤ん坊を抱きしめた。
『次の世界に連れていけなくても、私たちの記憶が残るなら、この子は完全には消えない』
『そうだな』
『名前を呼んで』
『ルークス』
男が、赤ん坊の額へ口づけた。
『僕たちの子、ルークス』
◆
記憶が静かに消えた。
ルークスは人類を救うための英雄ではない。
世界の秘密を知る研究者でもない。
ただ、世界が消えるまでの短い時間に生まれた、一人の子供だった。
次の世界には生まれない。
記録にも残らない。俺たちが継承をやめれば、その名前を知る者もいなくなる。
香澄。戦場で死んだ兵士。装置を守った研究者。
ビーンに殺された人々。
リセットとリセットの間で生きた、名も知らない無数の人間。
俺の中にいる彼らは、救いを求めているのだろうか。
分からない。
未来の人間へ記憶を押しつけることが正しいのかも分からない。
それでも、一度存在した命を、存在しなかったことにはしたくなかった。
「俺たちは、人類を進化させるために継承してきたんじゃない」
装置へ手を触れる。
「忘れないために、始めたんだ」
研究所が激しく揺れた。天井に亀裂が走る。
窓の外で、空が白く崩れ始めていた。
世界が、俺の理解を認識した。
リセットが始まったのだ。
端末に残り時間が表示される。
五十九分。
以前は数日あった。その前は数年。
継承するたびに、人類へ残された時間は短くなっている。
次の継承者には、一時間さえ残されないかもしれない。
それでも俺は、ポッドの中へ入った。
「香澄」
もう会うことはない。
次の世界に同じ香澄が生まれたとしても、俺の知っている彼女ではない。
「覚えているよ」
ポッドの蓋が閉じ始める。
「お前も、ルークスも、ビーンも」
倒れたビーンへ目を向けた。
こいつも間もなく世界とともに消える。
命令しか与えられず、それを自分の人生だと信じるしかなかった男。
「全部、次へ持っていく」
装置が起動する。
『リンクを開始します』
白い光が視界を満たした。
次に誰が受け取るのかは分からない。
どこに生まれるのかも分からない。
俺の名前を思い出せるかも分からない。
それでいい。
すべてを覚えていなくても、身体はきっと手掛かりへ向かう。
ポケットへ手を入れる。
知らない名前に胸を痛める。
初めて訪れた場所を懐かしく思う。
いつか、また思い出す。それが、俺たちの使命なのだから。
俺は目を閉じた。
◆
そこまで思い出したところで、誰かが目を開いた。
見慣れたはずの、自分の部屋の天井。
荒い呼吸を整えながら、ゆっくりと上半身を起こす。
永田淳という大学生。神倉香澄という研究者。ビーンという追跡者。
ルークスという、世界から消えた子供。
すべてを夢のように見ていた。
だが、夢ではない。
壁のカレンダーを見る。
自分が生まれた年月日。
母から何度も聞かされた、生まれた時刻。
永田淳がリンク装置を起動した時間と、同じだった。
誰に届くかは、淳にも分からなかった。
装置を作った研究者たちにも分からなかった。
そして今、記憶を受け取った本人にも、なぜ自分だったのかは分からない。
鏡を見る。
そこに映る顔は、永田淳とは似ても似つかない。
生まれた国も、名前も、歩んできた人生も違う。
それでも、その人物は無意識に淳と同じ仕草で前髪をかき上げた。
ポケットへ手を入れる。
中には何も入っていない。
それなのに、知らないはずの言葉が自然と口からこぼれた。
「カギは、いつもポケットにある」




