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LINK 短編

作者: Kの人
掲載日:2026/07/10

 

 俺には前世の記憶がある。

 冗談じゃない。本当だ。以前の俺は科学者だった。

 白衣を着て、夜遅くまで研究室に残り、顕微鏡を覗いていた。数式も、薬品の扱いも、大学で習うよりずっと前から知っている。

 最後の記憶はあやふやだが、おかげで今の人生は超イージーだった。


 ただ、妙なこともある。

 俺は銃の分解方法を知っている。骨折した人間の応急処置もできる。

 初めて乗ったはずの大型バイクを、何年も乗り回してきたように扱える。

 初めて会った女の好きな飲み物を、本人から聞くより先に言い当てたことさえあった。


 前世の俺は、ずいぶん多才な科学者だったらしい。

 科学者で、医者で、兵士で、格闘家。

 まるでアメコミのヒーローだ。


「おはよう、りな」


 ベッドの隣で、金髪の女が目を覚ました。

 昨夜、クラブで知り合った女だ。名前はりな。漢字までは聞いていない。


「……ここ、淳君の家?」

「そう。朝飯、食うだろ」


 俺は先にベッドを出た。

 鮭をグリルへ入れ、味噌汁を温める。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、二つ並べたコップの片方だけに注いだ。

 りなはオレンジジュースが好きだ。


 昨夜、本人から聞いたのだろう。

 そう思うのに、その会話がどうしても思い出せなかった。


「あれ、これ、私の好きなやつ」

「言ってただろ」

「言ったっけ?」


 寝癖のついた髪を押さえながら、里奈が首を傾げる。


「酔っ払いは、自分の話も覚えてないんだな」

「淳君が人のこと覚えすぎなんじゃない?」


 そうかもしれない。

 俺は、人の好みをよく覚えている。誕生日。口癖。利き手。好きな食べ物。別れ際の表情。

 忘れても困らないようなことほど、頭の奥に焼きついて離れない。

 そのくせ、誰かと長く付き合おうとは思えなかった。

 どうせ、いつかはいなくなる。誰が、と聞かれても分からない。

 ただ昔から、そう思っていた。


「悪いけど、俺、付き合うつもりはないから」


 味噌汁を飲みながら告げると、りなは頬を膨らませた。


「朝ご飯を作っておいて、それ言う?」

「何も出さずに帰すよりいいだろ」

「優しいのか最低なのか分かんない」


 りなの言葉を背中で聞きながら、俺はテレビをつけた。


『本日未明、東京都内の研究施設で火災が発生し――』


 画面に、焼け落ちた建物が映る。


『研究員の神倉香澄さん、二十七歳の死亡が確認されました』


 箸が止まった。

 神倉香澄。知らない名前だった。

 それなのに、胸の奥へ冷たいものが落ちた。


「どうしたの?」

「……いや」


 俺は無意識に、ズボンのポケットへ手を入れていた。

 中にあるのは、バイクの鍵と、くしゃくしゃになったレシートだけだった。


          ◆


 大学へ向かう途中、俺は何度も背後を振り返った。

 誰かに見られている気がした。

 だが通学路にいるのは、スマートフォンを眺める学生と、駅へ急ぐ会社員だけだ。


「よう、淳。今日は遅かったな」


 教室に入ると、ゼミ仲間の連が机に突っ伏していた。


「ちょっと遊んでてな」

「また女か。天下の淳様は人生が楽でいいねえ」

「お前だって、やればできるだろ」

「それをできる奴が言うと嫌味なんだよ」


 連が丸めたプリントを投げてくる。

 俺は振り返ることなく、片手で受け止めた。


「……お前、後ろにも目があんの?」

「気配で分かる」

「どこの達人だよ」


 笑って返そうとしたとき、窓ガラスに男の姿が映った。

 金髪を後ろへ撫でつけ、黒いスーツを着た男。

 サングラス越しに、こちらを見上げている。


 口元には煙草。

 朝に見た火災現場の映像が、頭をよぎった。

 俺が立ち上がったときには、男の姿は消えていた。


          ◆


「I see――」


 大学からの帰り道、俺は昔から知っているような、知らない曲を口ずさんでいた。

 どこで聞いたのかは思い出せない。

 だが、妙に懐かしい。


「ずいぶん隙だらけだな」


 背後から声をかけられた。

 振り返る。昼間、大学の外にいた男だった。

 金髪のオールバック。黒いスーツ。磨き上げられた革靴。サングラスの下にある顔立ちは、日本人には見えない。

 男は煙草を口から離し、ゆっくりと煙を吐き出した。


「あんたしかいないだろ、永田淳」

「なぜ俺の名前を知っている?」

「どうした。覚えてないのか?」

「何をだ」

「前の記憶を」


 心臓が強く鳴った。


「前世のことを言っているのか?」

「前世?」


 男は鼻で笑った。


「ずいぶん都合のいい解釈をしてるんだな」

「何が言いたい」

「ごまかすなよ、継承者」

「継承者?」


 聞き覚えのない言葉だった。


 だが、その響きだけが頭の奥に引っかかった。


「俺は、そんなものじゃない」

「前の記憶を持ってるのに、継承そのものは覚えてないのか」


 男は顎に手を当て、わずかに首を傾げた。


「まあいい。どこまで覚えていようと関係ない」

「何の話だ」

「必要な科学者は今朝殺した」


 男の口から出た言葉を理解するまでに、数秒かかった。

 今朝、研究施設の火災。神倉香澄。


「お前が……あの火事を?」

「残るのは最後の継承者である、お前だけだ」


 男はスーツの内側へ手を入れた。


「お前が死ねば、すべて終わる」


 取り出されたのは拳銃だった。


「冗談きついぜ。ドッキリなら、そう言ってくれよ」

「悪いが、死んでくれ」


 銃口を向けられた瞬間、現在の景色へ別の光景が重なった。

 ここではない戦場。火薬の臭い。耳をつんざく銃声。

 記憶の中でも、俺は同じように銃を向けられていた。


『お前が死ねば、この戦争は終わる』

『悪いが、引き継がなければならないのだよ』

『そうか。なら、死ね』


 場面が切り替わる。

 今度は、記憶の中の俺が銃を向ける側だった。


『戦争を終わらせる! 突撃――!』


 銃弾が飛び交う戦場へ、仲間とともに駆け出す。

 破裂音が鳴り響いた。

 迫りくる鉛の塊が脳天を打ち抜く寸前、俺は顔をそらした。

 弾丸が額の端をかすめ、熱い血が流れる。

 その痛みとともに戦場が消え、俺の意識は現在へ引き戻された。

 目の前には、拳銃を構えた男がいる。


「やはり覚えてるじゃねえか」


 額を熱いものが流れていた。

 撃たれた。いや、直前で避けた。

 考えるより先に、身体が動いていた。


 男が二発目を撃つ。

 俺は横の路地へ飛び込み、地面を転がった。

 銃弾が背後の壁を砕く。


「待ちやがれ!」


 革靴の音が近づいてくる。

 逃げ場はない。それなのに、俺には次に何をすればよいのか分かっていた。

 壁へ足をかける。配管を掴み、身体を引き上げる。

 男が路地を覗き込んだとき、そこに俺の姿はなかった。


「ちっ、逃げたか」


 俺は建物の上から、その姿を見下ろしていた。


「完成品を逃がすわけにはいかねえ」


 男が走り去る。

 緊張が切れた瞬間、俺は屋上へ座り込んだ。

 額から血が流れ、今になって鋭い痛みが襲ってきた。


「痛ってえ……」


 自分でも信じられない。

 俺は壁を駆け上がり、銃弾を避けた。

 習ったこともない動きだった。


「継承者って、何なんだよ」


 俺は科学者だったはずだ。なのに戦場を知っている。

 銃を知っている。人を殺す動きまで、身体が覚えている。


「俺は……何者なんだ」


          ◆


 家へ戻った俺は、ソファーへ倒れ込んだ。

 警察に連絡するべきか。

 だが、前世の記憶を持つ男に拳銃で襲われましたなどと説明して、信じてもらえるはずがない。

 つけっぱなしにしたテレビから、朝と同じニュースが流れていた。


『研究施設の火災は、煙草の不始末が原因と見られ――』


 煙草。

 あの男の顔が浮かぶ。


『死亡した神倉香澄さんは――』


「香澄……」


 名前を口にした瞬間、頭の奥に沈んでいた光景が浮かび上がった。

 白い研究室。鳴り続ける警報。

 一枚のガラスを挟んだ向こう側に、白衣姿の香澄が立っている。


『あなたは私たちの希望よ』

『外では戦いが始まってる。もう時間がない』

『どうして俺だけなんだ。香澄は俺を忘れるのかよ』

『仕方がないの。完成した装置は一つしか残っていない』

『俺だけに全部背負えっていうのか』

『あなたしか耐えられないの』


 香澄の手が俺の頬へ触れる。

 冷たい手だった。


『私たちは、誰にも知られない歴史になる』

『このまま世界がリセットされれば、私たちがここにいたことさえ消えてしまう』

『もう失われるのは嫌』

『必ず覚えていて』


 香澄の指が、俺の胸元へ触れる。


『カギはいつもポケットにある』


 記憶の中で、俺を覆うポッドが閉じていく。

 ガラスが、香澄と俺を隔てる。

 もう触れられない。

 次に会えるかも分からない。

 それでも、俺は覚えていなければならなかった。


「何なんだよ、今の記憶……」


 俺はポケットをまさぐった。

 鍵はない。

 出てきたのは、ポケットティッシュと、くしゃくしゃのレシートだけだった。


「カギはポケットにある……」


 ポケットティッシュを裏返す。

 広告欄に、小さく会社名が印刷されていた。

 ブレイン社。初めて見る名前だった。

 だが俺は、その場所を知っているような気がした。


          ◆


 ブレイン社の跡地は、廃墟になっていた。

 錆びついた立入禁止の看板。敷地を囲む高い柵。

 門には鎖も南京錠もなく、片方の扉がわずかに開いている。

 まるで、俺が来るのを待っていたようだった。


 風が吹く。

 枯れ草が擦れ、金網が低く軋んだ。それ以外に音はない。

 地面に転がっていた鉄パイプを拾い、俺は敷地内へ入った。

 研究所の窓は黒く汚れ、外壁には蔦が絡みついていた。

 入口の自動扉は砕けている。


 スマートフォンのライトを頼りに、暗い廊下を進む。

 湿った空気。埃と黴、わずかに残る薬品の臭い。

 初めて来た場所のはずなのに、懐かしさが胸の奥で渦巻いていた。


「何の場所だったんだ、ここは」


 受付には黄ばんだ書類が散乱している。

 床に落ちた白衣。倒れた椅子。

 廊下の奥へ続く、黒ずんだ足跡。

 人々が、ある瞬間にすべてを放り出して逃げたような跡だった。

 どの部屋も荒らされ、資料は残っていなかった。


 ただ一つ、施錠された部屋があった。

 扉の横には生体認証装置が設置されている。

 電気が通っているようには見えない。

 それでも俺は、無意識に手を置いていた。

 短い電子音が鳴る。


『生体情報を確認します』


「動くのかよ……」


『確認完了。ようこそ、永田淳様』


 扉が開いた。


「何で俺が登録されてるんだ」


 部屋の中には、一台のパソコンと、巨大なカプセル状の装置が置かれていた。

 俺が入った瞬間、天井の照明が点灯する。

 パソコンの前に立つと、また視界が揺れた。

 荒れ果てる前の研究室。

 同じ端末の前で、俺と香澄が並んでいる。


『ここのパスワードは、一九八九〇二〇三』

『何だ、その数字』

『所長の誕生日』

『セキュリティーがずさんすぎないか』

『だから潰れたんでしょ』

『なるほど。一理ある』

『カギは覚えてる?』

『ポケットだろ』

『上出来』


 記憶が途切れたとき、俺の指はすでに数字を入力し終えていた。

 画面に、古い資料が表示される。


 ブレイン・リンク・プロジェクト。


 人間の記憶を保存し、別の人間へ転送する研究。

 しかし、継承する記憶が増えるほど、完全に定着する確率は低下する。

 記憶が欠落し、人格が混ざり、使命だけが残る場合もある。


「使命……」


 画面を見つめていると、過去の声が蘇った。


『この装置を守れ』

『人類の希望だ』

『アムネシアが来る。奴らは継承を終わらせるつもりだ』

『ここは俺たちが守る』

『また次の世界で会おう』


 俺は、記憶を託された。

 だが、なぜ託す必要があった。


 荒廃した世界。近未来の都市。戦場。病院。研究所。

 同じ地球とは思えない光景が、俺の中にいくつも存在している。


「お目覚めかな、継承者」


 背後から声がした。

 振り返る。あの男が、部屋の隅に置かれたソファーへ座っていた。


「なぜここに」


 男はスマートフォンを掲げた。


「バイクに発信器をつけた」

「いつの間に……」

「お前はまだ、継承が完了していない。気づけなくて当然だ」


 男は立ち上がり、煙草へ火をつけた。


「俺の名前はビーン」

「お前は何を知っている?」

「何も」

「何?」

「俺に残ってるのは、標的の顔と名前。それから、継承者を殺せという命令だけだ」

「それだけのために、香澄を殺したのか」

「それが俺に与えられた使命だからな」

「理由も知らずに?」


 ビーンは答えなかった。

 煙草を吸い込み、ゆっくりと煙を吐く。


「使命を失えば、俺には何も残らない」


 その言葉だけが、わずかに掠れていた。

 ビーンは煙草を床へ落とし、拳銃を取り出した。


「だから、お前を殺す」

「俺の使命は……」


 ポケットへ手を入れる。

 指先に、くしゃくしゃの紙が触れた。

 取り出したのは、映画館のレシートだった。

 作品名は『リセット』。

 その瞬間、断片がつながった。


「この世界は、リセットされている」

「何?」

「誰かが世界の仕組みに気づくたび、すべてが消される」

「俺には関係ない」

「また全員消えるんだぞ」

「俺の使命は、お前を殺すことだ」


 ビーンが拳銃を構える。


「理由なんて必要ない」


 引き金が引かれる。

 だが、銃声は鳴らなかった。


「くそっ、ジャムりやがった!」


 俺は床を蹴った。

 鉄パイプを振り抜く。

 ビーンは左腕で受け止めたが、衝撃で拳銃が床を滑った。

 この光景を知っている。

 何度も見た。

 何人もの人間が、同じ男と戦ってきた。


「いつもお前はそうだった」

「知ったような口を利くな!」


 ビーンが拳を振るう。

 俺はそれを外へ流し、懐へ踏み込んだ。

 みぞおちへ肘を突き刺す。


「がはっ……!」


 俺自身は格闘技など習っていない。

 それでも身体は知っていた。

 土埃の舞う道場。何千回も繰り返した踏み込み。

 戦場で学んだ急所。病院で覚えた人体の構造。

 ビーンもまた、継承された戦闘経験を使っていた。


 ボクシングの拳。軍隊格闘術の踏み込み。関節を狙う組み技。

 一つの技を使えば、相手はその対処法を知っている。

 構えを変えれば、次の瞬間には見破られる。

 俺たちの中で、何人もの人生がぶつかり合っていた。


「面白え」


 ビーンが血の混じった唾を吐く。


「どっちの記憶が強いと思う?」

「数の問題じゃない」


 俺は鉄パイプを捨てた。


「お前に負けた全員が、次はどうすればいいかを知っている」


 ビーンの笑みが消えた。

 奴は低く構える。

 いくつもの技術を捨て、最も身体に馴染んだ軍隊格闘術へ戻った。


「今度こそ、本気で殺してやる」


 床を蹴る音が響いた。ビーンの左肩が沈む。

 この動きを、俺は知っている。

 本気になればなるほど、こいつは右足で踏み込む直前に左肩を下げる。

 顔を狙うように見せかけ、腹を打ち抜く。過去にビーンへ敗れた者たちが、その癖を俺へ残していた。

 俺は退かなかった。

 拳が放たれるより早く、こちらから懐へ入る。


「なにっ――」


 右腕を外へ流す。空いた顎へ掌底を突き上げた。

 ビーンの頭が跳ね上がる。

 さらに腕を引き寄せ、こめかみへ肘を叩き込んだ。


「がっ……」


 ビーンの身体から力が抜けた。

 膝が折れ、そのまま床へ崩れ落ちる。


「本気になるほど、動きが単純になる」


 返事はない。

 ビーンは意識を失っていた。

 倒れたビーンを見下ろした瞬間、新たな記憶が開いた。


          ◆


 薄暗い会議室。長机を囲む、黒い制服の男女。

 記憶の持ち主は、扉の隙間から会話を盗み聞いていた。

 これはビーンの記憶ではない。

 かつて敵組織へ潜入した、別の誰かの記憶だ。


『次の追跡者への継承準備は?』

『完了しています。戦闘経験、標的の顔と名前、抹殺命令。それ以外は削除しました』

『リセットやリンクの真実は?』

『継承させません。余計な情報を持たせれば、使命へ疑問を抱く可能性があります』


 一人の女が資料を机へ置いた。


『今回、人類が真実へ到達するまでにかかった時間は?』

『前回より十二年短縮されています』

『さらに短くなったか』

『リンクによって過去の知識を引き継ぐほど、人類は早く世界の真実へ近づきます』

『つまり、継承者を残すほど、次の世界で人類が生きられる時間は減る』

『はい』


 室内に沈黙が落ちた。


『継承を止めなければならない』


 一人の男が言った。


『死者の記憶を残すために、次の世界の生者から未来を奪うわけにはいかない』

『だが、追跡者本人がそれを知れば、迷うかもしれない』

『だから思想は必要ない』


 男は冷たく言い切った。


『ビーンに必要なのは、標的を殺す技術と命令だけだ』

『人類を守るために、人間である必要はない』


 そこで記憶は途切れた。


          ◆


 俺は現在の研究室へ引き戻された。

 床に倒れたビーンを見る。こいつは何も知らなかった。

 なぜ殺すのか。殺した先に何があるのか。

 自分が人類を守るために作られたのか、それとも組織の道具にされたのか。


 何一つ知らない。

 それでも、命令だけを自分の使命だと信じて生きてきた。

 だが、敵組織の主張は間違いではなかった。

 継承を重ねれば、人類はより早く世界の真実へたどり着く。

 そして世界は、より早く消される。

 俺たちは死者を忘れないために、まだ生きている人間の未来を削っている。


 その理解とともに、最後の記憶が蘇った。


          ◆


『この世界はリセットされている』


 ブレイン社の研究室で、香澄が言った。


『人類が世界の正体を完全に理解した瞬間、世界そのものが削除される』

『時間が巻き戻るのか?』

『違う。同じ条件から、ほとんど同じ地球が再生成されるの』

『じゃあ、俺たちもまた生まれるのか』

『同じ歴史をたどればね。でも、真実に気づいてからリセットまでに生まれた人間や出来事は、次の世界には存在しない』

『だから、誰もリセットに気づけない』

『そういうこと』


 香澄は、研究室の中央にあるポッドへ目を向けた。


『人類は世界を保存できなかった。だから、記憶を保存することにした』

『リンク装置……』

『装置を起動した年月日と時刻。その瞬間と同じ時間に、次の世界で生まれた子供へ記憶を転送する』

『誰に届くんだ』

『分からない。同じ時刻に生まれ、記憶へ耐えられる適性を持った誰か。どの国の子供かも、男か女かも選べない』

『全部思い出せるのか?』

『保証はないわ。知識だけが残るかもしれない。感情だけかもしれない。使命しか残らないこともある』


 ビーンの顔が浮かぶ。


『それでも、記憶を受け継いだ身体は、本人が覚えていなくても手掛かりへ向かう』

『それが使命か』

『ええ』

『俺の使命は、次へ継承すること』

『正解よ』


          ◆


 記憶が途切れ、俺は現在へ戻った。

 目の前にあるのは、あのときと同じリンク装置だった。

 すべてを思い出した。

 俺が装置を使えば、記憶は次の世界へ残る。

 だが、次の継承者は俺たちの知識を使い、さらに早く世界の真実へ近づくだろう。

 今度の人類に残された時間は、さらに短くなる。

 装置を使わなければいい。ここで終わらせればいい。

 そうすれば、次の世界の人類は、少なくとも二一六八年まで何も知らずに生きられる。

 子供が生まれる。恋をする。家族を作る。

 世界が偽物だと知らないまま、一生を終えられる。

 俺一人が記憶を捨てれば、それで済む。

 アムネシアの選択は、間違っていない。


「忘れることが、救いなのか」


 装置へ手を伸ばしかけ、止める。

 そのとき、さらに古い記憶が浮かんだ。


          ◆


 世界の終わりを待つ地下室。

 若い男女が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。

 記憶の中の腕に、小さな重みがあった。

 呼吸のたびに上下する胸。俺の指を握る、小さな手。


『ねえ、この子はリセットされたら、どうなるの』

『次の世界には生まれない』

『そんなの嫌よ』

『分かっている、リリー』

『この子は生まれたのよ』

『ああ』

『泣いて、笑って、私たちの指を握った』

『ああ』

『世界が消えたら、それも全部なかったことになるの?』


 男は答えられなかった。

 赤ん坊が小さな声を漏らした。


『せめて、覚えておきましょう』

『何を?』

『この子のことを』


 女は涙を流しながら、赤ん坊を抱きしめた。


『次の世界に連れていけなくても、私たちの記憶が残るなら、この子は完全には消えない』

『そうだな』

『名前を呼んで』

『ルークス』


 男が、赤ん坊の額へ口づけた。


『僕たちの子、ルークス』


          ◆


 記憶が静かに消えた。

 ルークスは人類を救うための英雄ではない。

 世界の秘密を知る研究者でもない。

 ただ、世界が消えるまでの短い時間に生まれた、一人の子供だった。

 次の世界には生まれない。

 記録にも残らない。俺たちが継承をやめれば、その名前を知る者もいなくなる。


 香澄。戦場で死んだ兵士。装置を守った研究者。

 ビーンに殺された人々。

 リセットとリセットの間で生きた、名も知らない無数の人間。

 俺の中にいる彼らは、救いを求めているのだろうか。


 分からない。

 未来の人間へ記憶を押しつけることが正しいのかも分からない。

 それでも、一度存在した命を、存在しなかったことにはしたくなかった。


「俺たちは、人類を進化させるために継承してきたんじゃない」


 装置へ手を触れる。


「忘れないために、始めたんだ」


 研究所が激しく揺れた。天井に亀裂が走る。

 窓の外で、空が白く崩れ始めていた。

 世界が、俺の理解を認識した。


 リセットが始まったのだ。

 端末に残り時間が表示される。

 五十九分。

 以前は数日あった。その前は数年。

 継承するたびに、人類へ残された時間は短くなっている。

 次の継承者には、一時間さえ残されないかもしれない。

 それでも俺は、ポッドの中へ入った。


「香澄」


 もう会うことはない。

 次の世界に同じ香澄が生まれたとしても、俺の知っている彼女ではない。


「覚えているよ」


 ポッドの蓋が閉じ始める。


「お前も、ルークスも、ビーンも」


 倒れたビーンへ目を向けた。

 こいつも間もなく世界とともに消える。

 命令しか与えられず、それを自分の人生だと信じるしかなかった男。


「全部、次へ持っていく」


 装置が起動する。


『リンクを開始します』


 白い光が視界を満たした。

 次に誰が受け取るのかは分からない。

 どこに生まれるのかも分からない。

 俺の名前を思い出せるかも分からない。


 それでいい。

 すべてを覚えていなくても、身体はきっと手掛かりへ向かう。

 ポケットへ手を入れる。

 知らない名前に胸を痛める。

 初めて訪れた場所を懐かしく思う。

 いつか、また思い出す。それが、俺たちの使命なのだから。

 俺は目を閉じた。


          ◆


 そこまで思い出したところで、誰かが目を開いた。

 見慣れたはずの、自分の部屋の天井。

 荒い呼吸を整えながら、ゆっくりと上半身を起こす。

 永田淳という大学生。神倉香澄という研究者。ビーンという追跡者。

 ルークスという、世界から消えた子供。


 すべてを夢のように見ていた。

 だが、夢ではない。

 壁のカレンダーを見る。


 自分が生まれた年月日。

 母から何度も聞かされた、生まれた時刻。

 永田淳がリンク装置を起動した時間と、同じだった。


 誰に届くかは、淳にも分からなかった。

 装置を作った研究者たちにも分からなかった。

 そして今、記憶を受け取った本人にも、なぜ自分だったのかは分からない。


 鏡を見る。

 そこに映る顔は、永田淳とは似ても似つかない。

 生まれた国も、名前も、歩んできた人生も違う。

 それでも、その人物は無意識に淳と同じ仕草で前髪をかき上げた。

 ポケットへ手を入れる。

 中には何も入っていない。

 それなのに、知らないはずの言葉が自然と口からこぼれた。


「カギは、いつもポケットにある」


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