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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
『病棟の呼鈴』

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『病棟の呼鈴』-2

第二章 見えざる指先


 それから一時間もしないうちに、深夜のよどんだ静寂を震はせて、再びあの「呼鈴ナースコール」が鳴り響いた。


 今度は別の、ごくありふれた一般病室であつた。すると、先ほどまでナースステーションの椅子に石像の如く執着してゐた先輩看護婦が、驚くべき敏捷びんせうさを以て受話器を取り上げたのである。そのかほには、先刻の氷の如き拒絶は微塵も残つてゐない。


 「はい、今すぐ伺いますね。……ええ、大丈夫ですよ」


 彼女の声は、病者に安らぎをあたへる慈愛に満ち満ちてゐた。だが、その声の明るさが、かへつて僕には、死の淵を覆ひ隠すための、薄つぺらな白粉おしろいのやうに感じられてならなかつたのである。


 彼女は受話器を置くと、僕に別の患者の点滴を確認してくるやう、短く事務的な口調で命じた。僕は命ぜられるまま、重い脚を引きるやうにして、暗い廊下へと足を踏み出した。


 廊下の突き当たりには、あの一号室が控へてゐる。


 そこは、他の病棟から物理的にも心理的にも隔離されたかの如く、深い闇の底に沈没してゐた。壁の塗り替えからも、日常の清掃からも見捨てられたその一画は、病院といふ名の近代的な機構の中に口を開けた、忘却の穴であつた。僕はその前を通り過ぎようとして、不意に全身の血液が凝固するやうな錯覚に襲はれ、足がすくんだ。


 ――ピンポーン、ピンポーン。


 背後のナースステーションの方で、再びあの電子の呻きが鳴り始めた。僕はもはや、モニターを確認する必要すら感じなかつた。それは間違いなく、あの忌まわしき「一号室」からの呼び出しであつた。  


「一号室 山崎武夫」


 名前は、依然として変わらない。だが、ナースステーションからは、何の反応も、何の衣擦れの音すらも返つてはこない。僕は一瞬、自らの理知――近代的な教育によつて育まれた合理的な精神そのものを疑つた。山崎武夫といふ男は、一体、誰に助けを求めてゐるのだらうか。誰も応へぬ、応へることの許されぬ呼鈴を押し続けるその不可視の指先は、どれほどの絶望、どれほどの怨嗟ゑんさはらんでゐるのだらう。


 「取つちやダメよ。取つちやダメ。取つちやダメ。取つちやダメ……」


 背後から戻つてきた先輩看護婦が、感情を欠いた呪文の如くそれを繰り返しながら、僕の横をすり抜けて行つた。彼女の横顔は、月光に照らし出された能面の如く無表情であり、その瞳は虚空を見詰めてゐるやうでゐて、その実、網膜に映る「見てはならぬもの」を必死に排除しようと、神経を磨り潰してゐるのが手に取るやうに分かつた。それは、正気を保つための、彼女なりの凄惨せいさんな儀式だつたのかも知れない。


 だが、僕は、どうしても気になつたのである。


 一号室の患者が、何らかの暗い理由によつて、組織的に放置されてゐるのではないか。僕のうちにある、浅薄ながらも真摯な医療倫理が、警鐘を鳴らし続けてゐた。あるいは、これは一種の陰惨な虐待、この銀鼠色の壁の向うで行はれてゐる、人道にもとる行為ではないのか。


 僕は巡回のふりをして、湿つたアスファルトを歩くやうな足音を忍ばせ、廊下の最果てにある、あの一号室の重い扉の前へと辿り着いた。


 扉は固く閉ざされてゐる。僕は震える手で懐中電灯を取り出し、その冷たい硝子窓ガラスまどを、一筋の光で照らし出した。


 光の輪の中に浮かび上がつたのは、僕の想像を、いな、この世のことわりを根底から覆す光景であつた。


 そこには、患者どころか、あるべきはずのベッドすら置かれてゐなかつた。


 ただの、空虚な一室であつた。


 壁紙は無残に剥がれ落ち、湿気を含んだ下地が、あたかも腐敗した皮膚のやうなまだら模様を描いてゐる。床には何年も人の出入りがなかつたことを物語る厚いほこりが積もり、ネームバンドのたぐひも一切貼られてゐない。そこは、人間が生存するための場所ではなく、正真正銘の「虚無」がみ着くための空間であつた。


 だが、その部屋の隅、闇が最も濃く溜まつてゐる壁際に、一点の異様な供物が置かれてゐた。  小さなお皿に盛られた、高く突き刺された真っ白なめし。そして、なみなみと注がれた水の入つた、縁の欠けたコップ。


 それは、死者に供へる「末期の水」であり、「枕飯」に他ならなかつた。


 誰もゐないはずの、ベッドすら存在せぬこの部屋から、何故なにゆゑに電子の呼鈴が、あの執拗な音を奏でるのか。その狂つた解答を求めて、僕は懐中電灯の光を壁のナースコール・ユニットへと這はせた。


 その瞬間、僕は見た。


 壁に据ゑ付けられた呼鈴のボタンが、何者かの「見えざる指」によつて押し込まれてゐるかの如く、僅かに、しかし確実なちからを以て沈み込んでゐるのを。  そして、その周囲の埃が、微かな指先の形に、不自然に乱れてゐるのを。


 「山崎さん……」


 僕の口から漏れたのは、祈りとも悲鳴ともつかぬ吐息であつた。その瞬間、呼鈴は「カチリ」と、乾いた音を立てて元に戻つた。まるで、僕に自らの存在を見せつけた後で、満足げに指を引き抜いたかのように。


 僕は理知を失ひ、光を消して、その場にひざまづいた。


 あの一号室は、空室などではない。そこは、現世の階段から足を踏み外した死者たちが、生者の「注意」といふ名の生命力を吸ひ取るために用意された、恐るべき餌場ゑさばであつたのだ。


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