第二節 凍れる手形 ―残滓の叫び―
翌朝、白んだ雪原を眺めながら、健二君は堪らず松田さんに詰め寄った。その眼には、見殺しにしたかもしれない生者への、罪悪の火が燃えていた。
「昨夜、もし誰かが生きて助けを求めていたのなら、僕たちは救助隊としての矜持を捨てたことになりませんか。あの音は、確かに人間の手によるものでした」
松田さんは、しばらくの間、地平の彼方に広がる白磁の死界を見つめていたが、やがて重い口を開いた。その声には、長年山に魅入られた男特有の、諦念にも似た冷徹さが宿っていた。
「健二。……確かに、あれは助けを求めていた。だがな、あいつらは『生きていた時に』助けてほしかったんだよ」
健二君は、背筋に一条の氷水が走るのを感じた。松田さんの言葉が意味するところは、明白であった。昨夜、雪上車の硝子を叩いていたのは、数日前の雪崩で圧死し、あるいは凍死した亡者たちの、肉体を失った意志の残滓であったというのだ。彼らは、自らの骸が眠る場所を知らせんがため、あるいは、もう二度と得られぬ生者の温もりを求めて、数メートルの雪底から這い上がってきたというのである。
「死者に扉を開けてはならない。奴らは、生者を引き摺り込むことでしか、己の寒さを癒やすことができないのだから」
松田さんはそう付け加えると、それ以上、語ることを拒んだ。
後日、捜索を終えて下山する際、健二君は改めて当時のことを問うたが、松田さんは「極限状態が見せた、白昼夢のような幻覚だろう」とはぐらかすばかりであった。しかし、健二君は知っている。あの日、雪上車を稼働させる直前、窓の結露を拭おうとした時に、彼が見た戦慄の証拠を。
地上から数メートルの高みに位置するはずの、外側の硝子面。そこには、赤子の手よりもさらに小さく、しかし無数に、凍りついた「手形」がびっしりと付着していたのである。
それは、掌の紋様さえ鮮明なほど、強い執着を持って押し付けられていた。
誰にも届かぬ雪の下から、光を求めて伸ばされた指先。
声にならぬ絶叫が、硝子の表面に凍結していたのだ。
人生は地獄よりも地獄的である――芥川はかつてそう書いたが、健二君の話を聴き終えた私は、ふと窓の外を眺めた。
都会の夜は明るく、白銀の恐怖などどこにもないように見える。しかし、もし今、この窓を「トントン」と叩く音がしたならば、私は果たして、平然とカーテンを開けることができるだろうか。
あの日、雪崩の底に沈んだ者たちの「凍れる手」は、今もどこかで、温かな生者の血潮を求めて、暗闇を彷徨っているのではないか。そう思うと、私は自分の手のひらの温もりが、ひどく恐ろしいものに感じられてならないのである。




